ハンデ師の北里さんとは、一年後にセックスした。
私は二十歳になっていた。彼が東京に転勤してきたことがきっかけだった。
私は北里さんのことをアルマーニ軍団の一味だと思っていたのだが、何と彼は大手企業の勤め人だった。なんとか組でもなんとか会でもなんとか一家の人ではなかった。すらりと伸びた手足が素敵で、休みの日に着ているブルックスブラザーズの白いボタンダウンシャツがよく似合う人だった。
百八十cm近い長身なのに六十kgない薬丸岳のような細い体の彼は、築地にある会社に勤め、月島のマンションに住んでいた。やけに高さのある建物で、北里さんは眺望の良さが気に入ったという。
築地から隅田川を隔て、勝鬨橋を渡った月島は、商店街から入ると、細い路地が延び、銀座の近くにこんな下町の雰囲気が残る場所があるのかと驚いた。セックスをした後で、西仲通りのもんじゃ店によく行った。
北里さんは、セックスするようになってから、本業の会社の話をするようになった。
「俺がいる職場は、弱小部門なんだよ。三年前の株式総会で、移動通信事業を譲渡して作った新しい会社でね、国からはJRと同様に、地域分割して内部競争体制をつくって効率化を図るべしと要求されたけど、それを何とか避けるために移動通信事業部門を分割するっていう機能分割案を出して、それが通ったんだよ。分割問題が議論されていた時に経営企画本部長だった小星さんが、常務から新会社の社長に就任してね」
「あ、その人知ってるわ。北海道出身で東大法学部卒の」
小沢さんから聞いたことがあった。
「よく知ってるね。自動車電話や携帯電話なんてずっと不振で、売上はグループ全体の三%ぐらいしかないんだぜ。社員は千八百人でグループの一%にも満たないちっぽけな赤字会社だよ」
「千八百人の会社がちっぽけなの?」
「そうだよ。親会社にいた頃は移動通信事業のことなんて考えたこともなかったし。同僚だって今の会社の将来性には悲観してるよ。無線の技術屋は面白いのかもしれないけど、俺みたいな事務系社員はそんなこと思っていない。この会社大丈夫かなって心配してるよ。安泰と思っていた巨大企業からちっちゃい会社に移されて、社名教えても、何する会社なの? って言われるんだぜ」
確かに当時のmovaは繋がりにくく、すぐ切れて通話料金が高かった。
九十四年に、それまでレンタルだった携帯電話が買い上げ制になった。ショートメールサービスが開始された九十七年には契約件数と認知度が鰻登りに上がり、九十八年には東証に上場したが、九十年代前半は北里さんが嘆息していた通りのイメージだった。
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