彼が窓の外を見ながら口ずさんでいたメロディに聞き覚えがあった。
小五の夏休みに行った札幌旅行で、ラーメン横丁からホテルへの道すがら、祖父が歌っていた曲だった。徹さんも石原裕次郎が好きなのだろうか。石原裕次郎が他界して四年経っている。
私は、昭和の匂いがするメロディが好きだった。幼少期に祖父母の家で過ごすことが多かった私は、童謡をダークダックスが歌うLP盤で聴いて育った。
祖母は、幼い頃に聴いた音が声帯に影響を与えると信じていて、美しい響きを耳にしていると、良い声が出ると思い込んでいた。私にその成果が出たのかわからないけれど、男性の低い声に感応して、自分の声が作られたように思うことがよくある。
帯広駅に到着してからホテルにチェックインし、昼食をとるために外へ出た。私が一番気に入っている店に彼を案内した。過去の帯広滞在中の昼食は、毎日この店に通っていた。豚丼専門店である。
一九三三(昭和八)年創業の「ぱんちょう」は、指導センターの受付嬢に教えてもらった。一口食べて虜になった。一枚五ミリ程の厚さの道内産豚ロースを備長炭でじっくり焼き上げた香ばしさと甘辛い秘伝のタレが相俟って、白いご飯と頬張ると、幾種もの甘味が融合して口内に広がっていく。ブルンとした弾力ある脂身の旨味がむんむんと口中に膨らみ、豚肉とはこれ程美味しいものだったのかと、感慨にふけり夢中で箸を動かす。毎日食べても飽きることがない。
「いい匂いがするな」と、徹さんは店の前で言った。
メニューは豚丼と味噌汁と飲み物しかない。隣のテーブルで既に食べている人の丼を見て、ごくんと唾を飲んだ。待ちきれない、と心の中で思った。
「何なんだ、この旨さは」
徹さんも感動していた。
「奇跡的な美味しさでしょ」
「そうだな、うん、旨い」
二人は会話らしい会話もせず、ひたすらでき立ての豚丼をはふはふ言いながら食べ、店を出た。
私は祖母が編んだラベンダー色のニットワンピースを着ていた。襟刳りの深いふんわり広がるフレアーなスカートのフェミニンなワンピースをリクエストして作ってもらったものだった。胸元で上下に編み方を切り替えた半袖のAラインワンピースは、背中も広く開き、胸の谷間が見えそうな、デコルテが強調されるネックラインで、これは祖母がフェミニンをセクシーと勘違いしたのではと思う大人っぽいシルエットになっていた。
それから私達は帯広にある中世ドイツをモチーフとしたテーマパーク『グリュック王国』に行った。徹さんは、ずっと私の手を触れていた。男の人とこんなに長い時間手を繋いでいるのは初めてのことだった。
徹さんがどんな気持ちで私をデートに誘ったのかは訊けなかった。どうして手を繋ぐの? なんて訊くのは野暮な気がして、徹さんにリードされるままに付いて行った。白と茶系のモザイク模様の城壁の間を、彼に手を引かれて歩く私はラピュタ気分だった。
徹さんが持っていたキャノンのカメラで、ドイツの城壁をバックに写真を撮った。通りがかりの人にシャッターを押してもらった。徹さんが私の肩に手を掛けたり、腕を組んだりするたび、私はどきどきして、絶対、微熱が出ていると思った。
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