私が漱石を読み耽っていた七月、任天堂がファミリーコンピュータを発売した。テレビは見せてくれない家庭なのに、テレビゲームはオーケーということがどうもしっくりこなかったけれど、七月十五日にファミリーコンピュータが我が家のモニターに接続され、妹と弟は『ドンキーコング』に夢中になった。
この年の夏休みは、母が臨月だったこともあり、西の祖父母の家に行く機会が増えた。
西の祖父母の家に着くと、妹と弟はテレビに齧りついた。
妹は、得意の物真似で、西城秀樹の『ギャランドゥ』を歌った。私は人前で歌う事はなかったけれど、小柳ルミ子の『お久しぶりね』と、梅沢富美男の『夢芝居』が気に入っていた。私と妹は、アンテナの構造がまるで違ったのだ。妹が、嘉門達夫の『ヤンキー兄ちゃんのうた』を歌い出したときは、妹は相当キテるなと心配になった。そして『きてよパーマン』を歌う弟が、妹に染まりませんようにと強く祈ったものだった。
全国高校野球選手権大会で、桑田選手と清原選手の一年生コンビが優勝を果たした一週間後の八月二十七日に生まれた赤ちゃんは女の子で「綾子」と命名された。私は生まれたときの体重が二七〇〇グラムだったのに、綾子は三〇〇〇グラムと、私を越える大きな赤ちゃんだった。
王貞治が監督に昇格した十一月、私は九歳になった。
母は、専業主婦になって初めての子育てを、母乳と布オムツで頑張っていた。
綾子が十一カ月のときに『メリーズ』が発売されたが、母は決して使わなかった。きっちり時間を決めて授乳し、無闇に綾子を抱かない。泣いていても知らん顔をしている母の考えが、私には理解できなかった。
私が見るに見かねて、綾子を抱き上げてあやすと、母は青筋を立てて怒った。
「抱き癖をつけないように育てているんだから、余計なことはしないで頂戴。泣いたらすぐに抱いて甘やかすと、抱かないとすぐにぐずり出す癖がついてしまうんだから。花菜は西の家で甘やかされてきたから、わがままな子になったんでしょう。花菜の二の舞を踏まないように、お母さんだって勉強しているのよ」
と、私に棘のある言葉を投げた。
私には、生まれたばかりの我が子が泣き叫んでも、空気のようにしか思わない母親の在り方が正しいとは思えなかった。赤ん坊が泣けば、抱き締めてあげるのが人として当然だと思ったし、狭い我が家で泣き続けられるといたたまれない気持ちになった。
私は、母に見付からないように「よしよし、あっこちゃん。泣かないで」と言って綾子を抱き、美穂は隣で自作の子守唄を歌ってあやした。
四人の子供を持っても、母は相変わらず、マイペースだった。今年三十八歳になろうという主婦が、無知で世間知らずとも思えなかったが、母の関心は世間の女性とはどこかずれていると感じてしまう。子育てや教育に熱心な一面もあり、綾子を食べてしまいそうなほど可愛がってみたかと思えば、泣きじゃくる綾子を無視して、ピアノを弾いたりした。
母親の愛情とは、こんなに気紛れなものなのだろうか。私は神経質な方ではなかったけれど、母の情熱と投げやりの振り幅に気を揉んだ。
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