私は、夏目漱石の作品を読み続けていた。

「シリアスな夫婦の姿を追求していると思う」

と言うと、父が「ほう。興味深いな」と身を乗り出して以来、意識的に夫婦の関係を物語の中から読み解くようになっていた。

それは、私にとって両親の夫婦関係が変質してきたと感じていたことによる切実な問題でもあったからだ。

 その頃読んでいた漱石の作品は、『門』『こゝろ』『行人』『彼岸過迄』のどれもが夫婦が中心の話だった。

夫婦の在り方を考えていると、いつも宗教性に思い至った。大人の男女関係については、よくわからなかったけれど、私の両親の夫婦の在り方は、西や本家の祖父母のそれとも違ったし、一般的な夫婦関係とも違うように感じられた。

夫婦の間で怒りと赦しの鬩ぎ合いをしている。その感情の揺れ動く様子が、自分の両親と漱石の作品には通じるものがあると感じたのだ。夫と妻が、相手の中に自分の姿のある部分を見て、それに対してお互いに、共感或いは、嫌悪や憎しみを持って相克する。そこに私は宗教性を感じたのだ。

「漱石は明治の人だから、今とは考え方が違うのかな」

「いつの時代も、人が本当に深いところで迷ったり悩んだりすることは変わらないよ」

「お父さんも、迷ったり悩んだりするの」

「そりゃあ、するよ。お父さんも生身の人間なんだから。大人になると様々な局面で責任や義務を背負うことになる。その中で生き続けるには、辛抱が必要なんだよ」

 このとき、父は三十八歳だった。母と夫婦でいることは、その責任や義務、辛抱の中に入っているのだろうか。