第29回 それから……。
僕には見えていた。ヤン・ロムルダーがすぐに前に出て攻撃してくることが。なぜかは分からない。スクリーンに映ったロムルダーを見た瞬間に見えたのだ。
試合開始のゴングが鳴ったら、同じ映像が時間遅れで始まった。一度見た映像だから、僕には簡単だった。不思議な時間が始まった。やる前に映像が見えたなんて初めてだった。それから身体が勝手に動き始めた。今度は考える前に勝手に身体が動き始めた。自分が思う前に身体が勝手に動く。やることが自分を追い抜いていた。自分が考える先の時間に僕の身体がいて勝手に動くのだ。
前に出て来たロムルダーに組み付いて持ち上げて下に落とす。そうなった時に僕の頭の中ではまだタックル行こうとする僕がいた。タックルに行こうという僕の思考を身体が飛び越えていったのだ。
タックルで寝かせたら、今度はマウントを奪う。ポジションを移動する間にはきちんと素手の拳でパンチを入れている。マウントになる直前、手が勝手にパンチを連打し始めていた。置いていかれてるのだ、自分の思考が身体に置いていかれている。野球でボールが止まって見えるとか言うけど、この時は時間が止まってた。僕の身体だけが勝手に時間を飛び越えて動いてるみたいだった。それを僕は時間遅れでただ見ていた。不思議だけどそんな感じだった。
人は究極の状態になると脳を最大限に使うらしい。交通事故でぶつかる瞬間とか時間がゆっくりに感じるそうだ。それは脳のリミッターが外れて普段ではあり得ない働きをするかららしい。今までも一瞬ならそんなことが試合中にあった。そんな時には不思議なほど綺麗な勝ち方が出来た。僕はそんな不思議な試合をやってきてプロとして上に登った。
ロムルダー戦の時はその長さがいつもとは違った。ずっとリミッターが外れた状態だった。マウントからのパンチを嫌い身体を回転させてロムルダーが下を向く。その瞬間を僕の素手の拳が捕らえた。彼の頭部は、試合後17針縫ったらしい。ホンの一瞬に凝縮した攻撃だったんだろう。下を向きチョークがロムルダーの首を捕らえた頃にようやく時間の感覚が戻ってきた。身体に心が追い付いた。やがてロムルダーの身体が痙攣を始めた。落ちたのだ!
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