東京五輪という時限爆弾
――歴史に潜む〝ブック〟の影
▼規制の論理
昭和10年度(1935年)における世界のモルヒネ製造量は、アメリカ・ドイツ・フランスに次いで、日本は世界第4位だった。ヘロインの製造に至っては、日本が世界第1位だった。ヘロインはアヘンから抽出するので、要はアヘン産業のことなのだが、第1次世界大戦までは日本もその生産を海外に依存していた。それを国内で自給できるように政府と民間が努力した結果、戦前の日本は世界一のアヘン大国に上りつめた。 この場合の国内というのは、戦前なので当然朝鮮も含んでいる。朝鮮では注射による中毒患者が多くなりすぎたので製造を禁止し、そのストックが余っていた。内地ではもちろんアヘンは法律で規制し、専売制にしていたわけだが、その専売企業のひとつがSF作家・星新一の父親が創立した星製薬だったことはよく知られている。他にアヘンを製造していた主な企業は、三井物産・三菱商事・大日本製薬(住友化学)・ラヂウム製薬(武田製薬)などである。
アヘンの消費地は台湾・満州だが、満州国のアヘン製造は日本の製造量にはカウントされていない。当時の中国共産党は日本による中国へのアヘン流通を非難していたが、それは中国の地方軍閥がやっていることで、日本は流通を規制していた。蒋介石政権もアヘン禁圧には(表向きは)積極的だったし、もとより中共に言われる筋合いはないので、日本としては「政府は規制していますよ」と言うしかない。「密売は知りませんけどね」と。
今日の児ポ法だろうと何だろうと、規制というのはすべてこの理屈だと考えておけばいい。規制=独占=密売である。「おまえらはやるなよ、俺らはやるけど」が規制する側の論理である。戦後に日本は戦争そのものを規制された。「もうさんざんおいしい思いをしたんだから、おまえらはもうやるなよ」ということで、戦後の日本ではもっぱら戦争の悲惨さが強調された。だから「どうして悲惨な戦争がいつまでもなくならないの?」という子供の素朴な疑問に誰も答えられなくなってしまった。ところが、最近は「ちょっとぐらいやってもいいよ」になってきたので、喜んでいる人もいるのである。
もちろんその喜んでいる人たちの割合というのは、日本の人口のうちの、ほんの微々たるものである。しかし、それを言うなら戦前もまったくそうだったわけで、何で日本が戦争をやっているのか、政治宣伝以外の理由をわかっている人は、一般にはほとんどいなかったはずである。わかっていないから政治的キャンペーンに乗せられる。残念ながらこうした現象は何度でも繰り返されるはずである。そして戦争商売のシワ寄せを受けた一般庶民はことごとく殺される。だが、戦争体制を主導する世界にいて最後まで逃げ切った人というのは、なぜか長生きした人が多い。何か特殊な薬でも飲んでいるのかと思うほどである。
1990年にNHKスペシャルで「張学良がいま語る~日中戦争への道~」という番組を放映した。数年前に再放送したらしいから、それを見た人もいるかもしれないが、世界で初めて張学良に単独インタビューした番組である。だが、世界で初めても何も、1990年の放送のときは「こいつまだ生きていたのか……」と唖然としたものである。満洲某重大事件で爆殺された張作霖の息子で、満洲の青年元帥だった歴史上の人物が、90歳になって姿をあらわすというのはなかなかの衝撃だったが、当然というべきか、歴史上の重大な秘密はついに語らなかった。張学良は20世紀をまるまる生きて、2001年に100歳で亡くなった。
張学良が語った話によると、彼の軍事顧問だった土肥原賢二(当時大佐)が、実は満州国皇帝として当初は張学良を擁立しようとしていたという。宣統帝溥儀の擁立より前に、その構想があったというのである。
この件については、張学良本人の話以外に史料は発掘されていない。その意味では秘史と言える。要するに関東軍は満州国皇帝を決めるにあたって、清国皇帝の由緒にはこだわっていなかったことになる。張学良はその話に乗るほどの馬鹿ではなく、傀儡皇帝などふざけるなということで、頭に来て断ったという。
この件については、張学良本人の話以外に史料は発掘されていない。その意味では秘史と言える。要するに関東軍は満州国皇帝を決めるにあたって、清国皇帝の由緒にはこだわっていなかったことになる。張学良はその話に乗るほどの馬鹿ではなく、傀儡皇帝などふざけるなということで、頭に来て断ったという。
若いときの張学良は、昭和天皇に似ていたという話もしているが、写真や映像を見るかぎり、特に似ているとも思えない。張学良と昭和天皇は、ともに1901年生まれの同い年である。張の母親の素性はよくわかっていないので、何か意味深長なことでも言っているつもりなのかもしれないが、結局歴史というのは当事者が秘密を墓場まで持っていけば真相は永久にわからない。
張学良は1936年12月の西安事変で蒋介石を拉致監禁し、周恩来と図って国共合作を成立させた。これによって蒋介石は、中共とともに抗日戦を優先し、日中の和睦は不能となった。張学良はドイツ系ユダヤ人の歯医者に通っていたが、この歯医者は西安事変の混乱のなかで射殺されている。ヴンシュという名前だったらしいが、彼の医院は中共の連絡所になっており、ヴンシュの正体はドイツ共産党員だった。アメリカの左翼ジャーナリスト、アグネス・スメドレーとも知り合いだった。
戦後に蒋介石はこの事変について一切語らず、周恩来も張学良もダンマリを決め込んだ。ゆえに真相は不明だが、コミンテルンの謀略などと言うまでもなく、もともと蒋介石は反共姿勢の裏側でソ連との提携も模索していた。彼らにあるのは思想ではなく、損得勘定だけである。何か一定の筋書きがあってすべての物事が仕組まれたというのではなく、数ある駆け引きのなかのひとつについて、張学良が火付け役を引き受けたにすぎない。歴史の秘密が明かされないのは、何かすごい謀略があったからではなくて、実態があまりにも平凡でみっともないからである。「最後は金目でしょ」の世界にすぎないことを言いたくないだけである。
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