[MM日本国の研究822]「対談 猪瀬直樹×田原総一朗」
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⌘ 2014年11月13日発行 第0822号 特別
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■■■ 日本国の研究
■■■ 不安との訣別/再生のカルテ
■■■ 編集長 猪瀬直樹
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「対談:猪瀬直樹×田原総一朗」
『さようならと言ってなかった わが愛 わが罪』(マガジンハウス刊)の発売
にあわせ、11月6日号の週刊文春で田原総一朗さんと猪瀬直樹が対談しました。
メールマガジンで配信いたします。(「日本国の研究」編集部)
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猪瀬直樹×田原総一朗
「なんで5000万円なんて借りたの?」(田原)
「すべては僕の驕りでした」(猪瀬)
○田原○ 猪瀬さんが東京都知事に就任したのは一昨年(二〇一二年)十二月、
そしてその一年後の昨年(二〇一三年)十二月に知事を辞任しました。その一
年間だけで都知事就任、東京オリンピック招致運動とその成功、ゆり子夫人の
病気の発覚と急逝、徳洲会スキャンダル、知事辞任が続いたわけです。僕はね、
一人の人間にこんな天国と地獄のような激動の一年が訪れることは、そうそう
あり得ないと思う。
○猪瀬○ そうかもしれません。
○田原○ 今日は、徳洲会からの五千万円の資金提供問題で都知事を辞任して
以来、マスコミに沈黙を続けてきた猪瀬さんに、あらためて事実を質したいと
思います。
○猪瀬○ まず、この場でお詫びをさせてください。選挙で四百三十三万余と
いう、史上最多の票を投じていただきながら、僕の軽率な行動によって都民の
皆さんの期待と信頼を裏切ってしまったことを、本当に申し訳なく思っていま
す。都政に混乱をもたらし、停滞させたこと。支えてくれた秘書、スタッフに
辛い思いをさせたこと。妻ゆり子に自分勝手な行動について詫びることができ
ないまま逝かせてしまったこと――悔いても悔やみきれません。
○田原○ まさに痛恨の極みでしょうが、いま、猪瀬さんはなぜこんなことに
なったと思っていますか。
○猪瀬○ やはり……自分の中にあった驕りが根本の原因だと思います。責め
られるべきは、僕一人です。
○田原○ 順を追ってお聞きします。知事選前の一昨年十一月六日、徳洲会の
湘南鎌倉総合病院で徳田虎雄理事長(当時)に会いましたね。そもそもなぜ、
徳田理事長に会ったんですか。
○猪瀬○ 当時、僕は石原慎太郎さんから後継指名を受けたところでした。け
れど、僕は選挙のことを何も知らない素人で、何をどうしていいか分からなか
った。そんな中、業界団体から大小の宗教団体から、様々な人がやってきては
選挙の話をしていくわけです。
○田原○ 前知事に後継指名された有力候補だから。
○猪瀬○ 具体的に何をしてくれるのかは分からないまま、とりあえず頭を下
げて、「選挙の時にはよろしくお願いします」と言っていました。今思えば、
事態が思わぬスピードでどんどん進んでいく、一種の混乱状況だったと思いま
す。そんな時に一水会(民族派団体)の木村三浩さんがやってきて、「選挙大
丈夫ですか、徳洲会の徳田理事長を紹介しますよ」と言ってくれた。
○田原○ 木村さんとは、それまでどういう付き合いだったんですか。
○猪瀬○ 木村さんは尖閣諸島の問題のときに、四、五回都庁を訪れて、副知
事室でも会っています。
○田原○ その年の春に石原都知事が尖閣の購入計画をぶち上げていた時です
ね。
○猪瀬○ 木村さんは石垣市長を連れて来たりしましてね。それから連絡が来
るようになっていたんです。九月には一水会代表が鈴木邦男さんから木村さん
に代るパーティーがあって、僕も出席しています。
○田原○ そのパーティーには僕も行きました。木村さんは人懐こいところが
あるんだよね。それで鎌倉の病院で徳田理事長に会った時には、支援の中身に
ついて具体的に頼んだんですか。
○猪瀬○ いいえ。その時は、よろしくお願いします、と挨拶しただけでした。
○田原○ しばらくして木村氏から連絡が入り、今度は十一月十四日に麻布の
和食レストランで徳田理事長の息子、徳田毅衆議院議員(当時)に会った。こ
の時はどんな話だったんですか。
○猪瀬○ 資金面での支援について話題になりました。
○田原○ 先ほど選挙のことは何も知らなかったとおっしゃったが、資金面で
不安があったんですか。
○猪瀬○ 当時はまだ僕の支援体制が固まっていませんでした。この二日後に
労組の連合が支援を表明してくれたことをはじめ、自民党本部や公明党中央幹
事会が支援を決定し、渋っていた自民党の東京都連も本部一任を決めてくれた。
徳田毅議員に資金援助を依頼したのは、一気に支持基盤が出来上がる、その前
の段階だったんです。
○田原○ 当時、猪瀬さんは自己資金はいくらぐらいあったんですか。
○猪瀬○ 四千万円くらいはありました。で、結果的にはこの範囲で選挙資金
は足りました。
○田原○ しかし、選挙前は足りないかもしれないと思っていた?
○猪瀬○ ええ。一億円かかると言う人もいましたから。
■ストップする勇気がなかった
○田原○ そして猪瀬さんは一週間ほどたった十一月二十日に、議員会館を一
人で訪ねて、徳田議員からお金を受け取った。
○猪瀬○ はい。前日に議員から電話がかかってきて、僕に「一人で来てほし
い」と。「木村さんじゃないんですか?」と尋ねると、「いや、(猪瀬さんが)
直接おいでください」ということでした。後から思うと、この電話でもう不要
になったと言えばよかった。支援体制がまとまって、資金の不安は解消されつ
つあったわけですから。
○田原○ でもそう言わなかった。
○猪瀬○ そもそもこちらからお願いした話でしたし。
○田原○ やっぱり出してくれるなら借りておこうという気持ちもあったので
は?
○猪瀬○ ……当時の僕には驕りがあったと思います。みんなが僕を支援して
くれるのは当然というような傲慢な部分が確かにあった。結局、ひとり議員会
館を訪ねることになりました。
○田原○ しかしそんな時期に議員会館で現金の受け渡しなんて、目立ちませ
んか。
○猪瀬○ ちょうど四日前に衆議院が解散して選挙態勢に入り、会館は空っぽ
だったんです。その日、人気のない廊下を歩いて徳田議員の部屋に入ると、も
う応接間のテーブルの上に紙袋が置いてありました。議員が「五千万円ご用意
しました」と言い、紙袋を覗きこむと紙幣の束が見えました。
○田原○ その時に、後に問題となる借用証を書かれたわけですか。
○猪瀬○ はい。徳田議員が「ここにサインを」と言って差し出した紙はA4
判一枚で、「借用証」「徳田毅殿」とその日の日付があらかじめ印字されてい
ました。
○田原○ 金額は?
○猪瀬○ 空欄になっていたので、そこに五千万円と記入して、罫線の部分に
住所と名前を書きました。
○田原○ 後にこの借用証が明らかになった時に、印紙が貼っていないことが
問題になりましたが、当日は変に思わなかったんですか。
○猪瀬○ お恥ずかしい限りですが、印紙を貼らなければならないということ
を僕は知らなかったんです。ですがその時、これは借りてはいけないお金かも
しれない、という思いが過(よぎ)りました。でも、そこでストップする勇気
も僕にはなかった。
○田原○ そこは分からないでもない。こちらから頼んで用意させておいて、
やっぱりいらないでは相手の厚意を無にすることになりますからね。それをし
たら、敵対関係になっても仕方がない。
○猪瀬○ 断る勇気はありませんでした。
○田原○ これはもう明らかになっていることだからいいと思うけど、僕も政
治家と金についてはとても苦労したことがあります。九〇年代の終り、野中広
務さんが官房長官だったときに、お茶が届けられたと思ったら中身が現金一千
万円だった。
○猪瀬○ それは官房機密費のお金という話でしたね。
○田原○ そう。受け取るわけにはいかないが、返し方が難しい。面子を潰す
ことになりかねないから。いろんな政治家に仲介を打診してみたがみんな当時
の野中さんに恐れをなして何もしてくれない。
○猪瀬○ 結局、どうしたんですか。
○田原○ 長い手紙を書いて、自分で京都まで返しにいきました。猪瀬さんは
まずいとどこかで思いながら借りた五千万円を、どうする気だったんですか。
○猪瀬○ そもそもの話は選挙支援ということだったわけですが、このお金は
選挙には使わず、僕個人の借金として、しばらく保管してから後日返すしかな
いと思いました。それで帰って妻にお金を渡して、「このまま貸金庫に入れて
保管しておいてほしい」と言った以外は、誰にも言わなかったんです。
○田原○ そういうお金関係は、奥さんが担当されていたんですか。
■突然の「余命数カ月」宣告
○猪瀬○ いえ、会計担当は別にいますが、これはあまり人に言えないお金だ
し、そのまま必ず返すものだから、広めたくないという気持ちがあって妻に頼
みました。その一方で、選挙に落ちたりお金がなくなってしまったらという不
安も確かにあって、万一のためにお金を借りていたいという狡(ずる)い気持
ちも僕の中には混在していました。それを選挙の多忙と昂揚感の中で適当に放
置してしまったわけです。
○田原○ そして十二月十六日の選挙で当選。結局、貸金庫の五千万円はその
ままだったわけですか。
○猪瀬○ ええ。その時点では手つかずでした。
○田原○ そこから木村さんに謝礼として五百万円払ったのは、その後?
○猪瀬○ 当選してほっとしている時に、木村さんがお金を貸してほしいと言
ってきたんです。
○田原○ 謝礼ではなく、借金の申し込みだった?
○猪瀬○ はい。五千万円の中から一時的に五百万円を木村さんに貸し、後日
返していただきました。残りの四千五百万円はずっと貸金庫で保管していまし
たが、後に都議会の質疑で、まったく手つかずだったと説明したのは正確な表
現ではありませんでした。この点もお詫びします。
○田原○ ところで猪瀬さんは、知事として東京をどうするつもりだったんで
すか。
○猪瀬○ 副知事時代から地下鉄の一元化や羽田の国際化、東京を二十四時間
都市にするための深夜バスの運行などの課題に取り組んでいましたが、やはり
最大はオリンピックの招致を実現することでした。今の日本を覆っている閉塞
感を打破するには、オリンピックで気持ちを変えたいと思いました。
○田原○ すぐに招致活動が始まった?
○猪瀬○ 年が明けて二〇一三年一月七日が立候補ファイルの提出の締切日で、
ここから招致活動が解禁となったんです。僕はロンドンに行って、妻とともに
記者会見に臨みました。その他、予算の査定などもあり……。
○田原○ 忙しいのは分かりますが、借りたままになっている五千万円はどう
するつもりだったんですか。
○猪瀬○ ロンドンから帰って、すぐ木村さんに連絡を取りました。徳田議員
にお金を返す段取りをする夕食会を設定してほしいと。
○田原○ 段取りなんかせずに木村さんに持っていかせようとは?
○猪瀬○ 僕と徳田議員のやり取りでしたから、それは思わなかったですね。
まず議員に会って、お礼とともに結果的に使わなかったことを説明するつもり
でした。そして、二月四日にレストランで徳田議員と会うことが決まったんで
すが、当日午後になって、約束が急にキャンセルになったんです。
○田原○ なぜ?
○猪瀬○ 週刊新潮が徳田議員の女性スキャンダルの取材に来たというんです。
そしてこの日、議員は国交省の政務官を辞任。会食どころではなくなったとい
うことでした。その記事は実際にその週発売の号で大きく掲載されていました。
○田原○ この二月四日に徳田議員に会えていれば、猪瀬さんは知事を辞めな
くてもよかったかもしれない。その後、なぜすぐに会うことができなかったん
ですか。
○猪瀬○ 安倍内閣最初の政府高官辞任ですからね。徳田議員の周囲は大騒ぎ
で、とても近づけない状態でした。しばらく時間を置こうと思っているうちに、
予算議会やオリンピック招致活動などに忙殺されてしまいました。三月にはI
OC評価委員会が来日し、彼らを案内して東京の施設や開催能力の高さをプレ
ゼンテーションしていましたし、四月にはニューヨークに出張もしました。こ
の時のニューヨークタイムズ紙のインタビューで、僕が「イスラムは喧嘩ばか
りしている」という発言をしたと騒ぎになりました。
○田原○ ああ、あの時。
○猪瀬○ 引っかけ質問にやられた僕も脇が甘かったんですが、また身動きが
取れなくなってしまった。それでも機会があったときにお金を返しやすく出来
るようにと、生活の拠点のあった郊外の自宅近くの銀行の貸金庫に移したんで
す。
○田原○ それはいつごろ?
○猪瀬○ 五月の初旬ですね。
○田原○ 奥さんに指示して。
○猪瀬○ そうです。そうしたら、五月下旬に妻の病気が判明しました。悪性
の脳腫瘍でした。
○田原○ ……予兆のようなものはあったんですか?
○猪瀬○ 体重が減ったり、テニスのボールが当たらなくなったり、言葉に言
い間違いがでたりして、軽い脳梗塞かもしれないと思って病院に連れて行った
んです。それがまさか……。五月二十六日、僕が大相撲五月場所で優勝した白
鵬に都知事杯を手渡し、国技館を出た時に医師から電話がかかってきて、余命
数カ月と伝えられました。
○田原○ まったく突然だったんですね。
○猪瀬○ ええ、まったく思いもよりませんでした。翌日夜に僕はロシアのサ
ンクトペテルブルクに発ち、多くのIOC委員の前でプレゼンテーションをし
なければならなかったのですが、病院のベッドに妻を残したまま出発するのは
本当に後ろ髪を引かれる思いでした。
○田原○ 奥さんの状況は誰にも言わなかった?
○猪瀬○ 言っても、周囲を動揺させるだけですからね。メディアも知りませ
ん。僕がロシアから帰国した後の六月十二日、妻は五時間余に及ぶ手術を受け
ました。延命効果はあると聞き、期待していましたが、術後四日で意識がなく
なり、九日で容体が急変、昏睡状態に陥りました。
○田原○ しかし、また海外に行かなければならなかったんでしょう?
○猪瀬○ ええ、七月初めにスイスのローザンヌです。その時にはもう、危篤
でした。結局、七月二十一日に息を引き取りました。
○田原○ あまりにもあっという間ですね。
○猪瀬○ 急展開過ぎて、心が追いつきませんでした。
○田原○ 僕にも経験があるけれど、女房が死ぬと、どこに何があるのかまっ
たく分からない。
○猪瀬○ 情けないけれど、預金通帳ひとつ、どこにあるか分からなかった。
五千万円の現金を入れてある貸金庫の鍵は見つかりましたが、銀行に聞くと、
名義が妻のものなので、夫の僕でもそのまま開けることはできないというんで
す。
○田原○ 名義変更は大変でしょう。
○猪瀬○ 正式な相続人だと証明するために、二十種類近い書類が必要でした。
結局、金庫が空いたのは八月二十四日になってからでした。特別秘書に事情を
説明していたので、彼に返却を頼みました。彼は木村さんに貸した五百万円を
返してもらった上で、九月二十五日に徳田議員の母親に五千万円を返却、借用
証を受け取ってきてくれました。
○田原○ 金庫が空いてから、どうして一カ月もかかったんですか。
○猪瀬○ 九月七日にブエノスアイレスでIOC総会が開かれ、二〇二〇年東
京開催が決定しましたが、そこに彼も同行していましたから、なかなか時間が
とれなかったのだと思います。
○田原○ そこに大きな問題がありますね。その間、九月十七日に選挙違反事
件で、東京地検特捜部が徳洲会を強制捜査しているわけです。普通の人は、猪
瀬さんは強制捜査があったから、慌てて五千万円を返したんだ、でなけりゃ返
すつもりはなかったんじゃないかと思ったんですよ。
○猪瀬○ そう思われるのは仕方ないですが、実際には先ほど説明した通りな
んです。もっと早く返したかったが、なかなかその機会を持てなかった。
○田原○ それは決定的な失敗だった。五千万円が後ろ暗い金ではないかと疑
われる余地ができましたから。
○猪瀬○ そこは後に、特捜部の調べに対して、預金通帳など資料も提出し、
また聴取も受けましたが、個人の借入であり、選挙に使ってはいないことや、
返却をめぐる経過も明確になっています。
○田原○ その結果、今年(二〇一四年)の三月に収支報告書の不記載で略式
起訴されたわけですね。
○猪瀬○ はい。
○田原○ この問題が発覚してからの猪瀬さんの言動が二転三転したのも残念
だった。最初は朝日新聞のスクープで、五千万円を返してから約二カ月後の昨
年十一月二十二日付の報道だった。今年、この報道が新聞協会賞を受賞して、
朝日は取材経過について記事を書いています(九月四日付)。それによると、
報道前日に朝日の社会部の記者が猪瀬さんに直撃すると、「知らないといった
ら知らないんだ」と言ったという。これはどういうことなんですか。
○猪瀬○ 気が動顛してとっさに否定的に反応してしまいました。
○田原○ 突然で?
○猪瀬○ 深夜にパーティーを終えたところで……。
■政治家として認識が甘すぎた
○田原○ それから都議会でいろいろ突っ込まれますよね。しかし猪瀬さんが
借用書を提出したのが二十六日になってから。四日も空いているから、あれは
偽造したんじゃないかと言われてしまった。
○猪瀬○ はい。でも僕としては借用証も書き借金であることは明らかで、徳
田毅議員に聞いてもらえればすぐわかると高を括っていたんです。すぐに出せ
ばよかったんですが……。しかも徳洲会が鹿児島二区の公選法違反事件で強制
捜査を受けていて、なかなか徳田議員が公の場に姿を見せなかった。結局、徳
田議員が借用証を認めたのは、選挙違反問題がすべて終わった翌年(二〇一四
年)の二月になってからでした。
○田原○ 東電病院の問題も言われましたね。猪瀬さんは東電病院は売却すべ
きだと言っていて、徳洲会は買いたいと思っていた。それで猪瀬さんが東電と
徳洲会の間に入って斡旋し、この五千万円を謝礼として得たという疑惑が出ま
したね。そこはどうなんですか。
○猪瀬○ 徳洲会の徳田虎雄理事長や毅議員からも何らの依頼を受けた事実も
便宜をはかった事実もいっさいありません。東電病院は社員だけの診療をして
いて、赤字なんですね。僕は副知事時代、料金値上げを発表した東電に対し、
その前にコストカットを、と提案していましたから、当然それは売却すべきだ
と言いました。売却となると、これは公募になります。何十社もが手を挙げる
でしょう。そういう中に徳洲会が手を挙げていたとしても、僕が何か働きかけ
られる余地はありません。東京地検特捜部は徳洲会側の資金の流れを追う中で、
僕の件も調べたわけですが、その中で二〇一四年になってから僕自身は一度も
徳洲会側と接触していないということが確認されています。
○田原○ 結局、昨年十二月十九日に知事を辞任されたわけですが、何を思っ
て辞められたんですか。
○猪瀬○ ……やはり、徳洲会にお金を借りたことは、僕が政治家としてあま
りにも軽率過ぎたということだったんです。何も便宜は図っていませんが、利
害関係者からお金を借りたこと自体、政治家としての認識が甘かった。僕は道
路公団の時でも副知事の時でも、政策を作ってきたんです。しかし、政治家と
しての自覚が乏しかった。選挙で付託を受けた立場になっているのだという認
識が、足りなかったと反省しています。そしてこれ以上、僕のことで都政やオ
リンピックの準備に停滞をもたらせないと思いました。
○田原○ 猪瀬さんは傲慢とか威張りん坊と言われてきたけれど、さすがにこ
の一年は堪えたでしょう。しかし、表舞台から姿を消して蟄居されている間に
書かれた『さようならと言ってなかった』(http://goo.gl/Rjm9TB )が今度
出版されますが、読んで文章の見事さに僕は驚きました。
今日はいろいろ訊きましたが、作家・猪瀬直樹の今後には、僕は期待してい
ます。
○猪瀬○ ありがとうございました。
(週刊文春2014年11月6日号)
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猪瀬直樹の最新刊『さようならと言ってなかった わが愛 わが罪』(マガジ
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2014/11/06(木) 15:00 [MM日本国の研究821]「妻がたしかに存在して時間を共有して生きてきたという証しを残したい」
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