⌘ 2014年10月02日発行 第0816号 特別
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■■■ 日本国の研究
■■■ 不安との訣別/再生のカルテ
■■■ 編集長 猪瀬直樹
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「昭和天皇実録のピンポイント(3)」
ピンポイント(1)(2)は、昭和八年の二月に昭和天皇が統帥権という大権を発
動して軍部の熱河攻略を抑え込む可能性があった、という点について触れた。
しかし、それはできなかった。しなかったのか、できなかったのか、そのあた
りは立憲君主制という制度の問題、及び、三十一歳という若い昭和天皇の力量、
経験や考え方、側近たちの言動など、さまざな要因があるだろう。
要因の大きなひとつは世論である。熱河攻略により日本は国際連盟からの脱
退の道を選択した。世論はメディアによって鼓舞される。
それでもまだ昭和天皇は、熱河攻略が一段落したので国際連盟を脱退しなく
てもよいのではないか、と牧野伸顕内大臣に言うのだが、それは無理な話であ
った。すでに二月二十日の閣議で、国際連盟の対日勧告案が可決されたら脱退
すると決めている。二十四日には対日勧告案採択を受けて松岡洋右以下日本全
権団が決然と連盟議場を退席してから十日以上経過している。熱河作戦を開始
すれば国際連盟の規約違反で除名され経済制裁を蒙るおそれがあるので、除名
される前に脱退を、ということだった。その閣議決定を昭和天皇は手続きとし
て承認している。
たしかに正式な脱退通告はこれからだが、昭和天皇から国際連盟を脱退した
くない、といまさら言われても閣議決定をやり直すわけにはいかない、そう牧
野内大臣は考えていた。
「三月八日水曜日 内大臣牧野伸顕をお召しになり、国際連盟脱退の手続きに
関し御下問になる。引き続き外務大臣内田康哉に謁を賜い、連盟脱退に際して
は通告文を交付するとともに、詔書渙発を奉請予定である旨の言上を受けられ
る。その後、侍従長鈴木貫太郎を通じ、詔書の文言に関する御希望を、内閣総
理大臣と外務大臣に伝えられる」
ここの「実録」の記述では、牧野内大臣に「国際連盟脱退の手続きに関し御
下問」とあるが、記述は中身をあえて避けているようだ。『牧野伸顕日記』は
(昭和天皇が)「脱退に付き更に一応の再考を加ふる余地なきや」と発言した
と記されている。
昭和天皇は牧野内大臣に、閣議決定をくつがえすことはできないか、と言う
いっぽうで脱退を前提にして詔書を出す場合には、脱退を遺憾とし親善協調の
気持ちを表わした文章をつくるよう指示した。
「実録」では、昭和天皇のこころの揺れ、あきらめ、迷いをあえて記述してい
ない。
脱退の閣議決定はくつがえすことができない。では詔書の文言によって国際
協調路線を示そうとするのがつぎの記述である。
「三月二十四日金曜日 正午前、内大臣牧野伸顕に謁を賜う。国際連盟脱退の
際に渙発する詔書につき、従来の詔書では武の宣揚については充分その功を挙
げたが、文についてもこの際督励の意味を顕す要ありと述べられる」「天皇は、
この文言と『東亜ニ偏シテ友邦ノ誼(よしみ)ヲ疎カニスルモノニアラス』と
の文言は変更しないよう御注意になる」
こうして三月二十七日、国際連盟に脱退の通告が正式になされ国際連盟脱退
の詔書が発表された。
「国際平和ノ確立ハ朕常ニ之ヲ冀(き)求シテ止マス。是ヲ以テ平和各般ノ企
図ハ向後亦協力シテ渝(かわ)ルナシ。今ヤ連盟ト手ヲ分チ帝国ノ所信ニ是従
フト雖(いえども)固ヨリ東亜ニ偏シテ友邦ノ誼ヲ疎カニスルモノニアラス」
「爾(なんじ)臣民克ク朕カ意ヲ体シ文武互ニ其ノ職分ニ恪循シ衆庶各其ノ業
務ニ淬励(さいれい)シ……」
昭和天皇は国際平和を希求している。日本国民もまたそのために努力する、
という趣旨である。
東京朝日新聞は翌日夕刊の一面トップで「国際連盟脱退!」と見出しを打ち、
詔書を載せた。
「実録」ではその翌日、昭和天皇が、荒木貞夫陸軍大臣の訓示が詔書に触れな
いことに不満を述べたうえで「事変に対する世論」について、奈良武次侍従武
官長と話し合った様子が記述されている。
「三月二十九日水曜日 午前十一時三十五分、侍従武官長奈良武次をお召しに
なる。国際連盟脱退に関する一昨二十七日の陸軍大臣荒木貞夫の陸軍全軍に対
する訓示が詔書に言及なきことにつき御下問になる。午後一時十五分、再び奈
良をお召しになり、約一時間にわたり、事変に対する世論のこと等につき御対
話になる」
奈良武官長の日記によると、世論は熱河攻略と国際連盟脱退に肯定的である
ことに昭和天皇は不満であった。脱退直後の東京朝日新聞の記事「不当なる勧
告」(昭和8年2月26日付)などがその代表的なものであった。
「不当かつ不条理なる叙述と勧告をもって作成せる連盟報告案はついに総会に
より正式に可決採決せられた。したがって帝国政府は去る二十日の緊急閣議に
おいて決定せる大方針に基づき、いよいよ連盟脱退の最終的決意を断行すべき
時期に到達した。けだし満州政策、ひいて東洋平和の確立に対する根本義にお
いて帝国政府の所信が連盟の見解とまったく相対立するものなることが明瞭と
なりし以上、もはや連盟にとどまることはまったく不可能となったのである」
こういう論調が「空気」だった。 (了)
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