Vol.249 結城浩/文章読解力/書くという仕事/会話の心がけ/

結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2017年1月3日 Vol.249

はじめに

あけましておめでとうございます。

いつも結城メルマガをご愛読ありがとうございます。

今回が2017年最初の配信となります。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 ◆今年もよろしく!(イラスト)

2017-01-01_newyear.jpg

 * * *

数学ガール6の話。

昨年2016年末にもがいていた第2章は、 大晦日にようやくレビューアさんに送ることができました。

現在は第3章へ進み、 レビューアさんに送れる段階まで磨いているところです。 これが第10章まで続けば脱稿になる……のですが、 まだまだ道は遠いですね。

何とか2017年には刊行したい。 地道に一歩一歩進みます。

 * * *

理解の話。

ある先生からこんなエピソードを聞きました。

勉強がよくできる中学生が「確率」で引っかかり、 どうしても納得がいかず、前に進めなくなり、次第に成績も落ちてきた。 先生に勧められて『数学ガールの秘密ノート/場合の数』を読んだあと、 急に理解が進み、結果的に成績も回復した。 うまく説明できないけど、何かを悟ったらしいです。

もちろん、著者としてそういうエピソードはうれしいですが、 この話を聞いたとき結城は別のことを考えていました。 それは、

 いくら成績が良い生徒でも、
 何かに引っかかって理解が進まなくなる

という現象はよくあるということです。

何かに引っかかり、理解が進まなくなるというのは、 必ずしも本人が悪いわけではありません。 能力が低いわけでも、そのときの教師が悪いわけでも、 教え方や課題が悪いわけでもないことがあるのです。

まじめに数学に向かう人や、ほんとうに理解したいと願う人の場合は特に、 理解が進まなくなるという現象がありそうです。

人間の理解は、コンピュータにデータをダウンロードするのとは違います。 ボタンを押して時間が過ぎれば理解完了!とは行かないのです。

大事なところで引っかかったなら、できれば……

 疑問点の周りを散歩したり、
 問題と一緒にダンスを踊ったり、
 数式と一緒にコタツに入ったり……

謎とともに時間を過ごすのがいいのです。できれば。

「こんなの、理解できるだろう!」と怒鳴っても、 理解が進むわけではありません。 「あと三時間で理解すること。用意スタート!」という要求は、 いささかナンセンスです。

理解とは、複雑なプロセスなのです。

理解のためには忍耐が必要なことも多いでしょう。 「数学は魅力的である」と感じている人は、忍耐しやすいものです。 「数学には何かしらホンモノの匂いがする」と感じている人もまた、 忍耐強くいられるでしょう。

教師の真摯な態度や、学ぶ仲間の誠実さ、 それらは理解とは無関係に見えるかもしれませんが、 数学の学びを底支えしていると思います。

 * * *

執筆の悩みの話。

結城の場合、執筆のために勉強をしていると、 以下のような現象がよく起きます。

 勉強する。
 ↓
 理解が進む。
 ↓
 自分が書いているものの不備に気付く。
 ↓
 さらに勉強する。
 ↓
 さらに理解が進む。
 ↓
 さらに、自分が書いているものの不備に気付く。
 ↓
 嫌になってくる。

つまり、勉強すればするほど、理解が進めば進むほど、 自分が書いているものの不備に気付いていやになるという現象です。 これはなかなかつらいです。 だって、まるで、自分の不備に気付くために努力しているように思えるからです (まあ、それは、まちがっているわけじゃないですが)。

本というものは、 著者が理解した範囲でしか書くことができません。 ですから、勉強して理解を広げる必要があります。 でも、時間的な限界や、能力的な限界がありますので、 どこかで「落としどころ」を決める必要があります。

落としどころというのは、 次のような場所のことです。

 もう少し勉強して深い話にした方が、
 数学的にはおもしろい読み物になりそうだけれど、
 それをやるためには膨大な時間が必要になるし、
 自分の能力を超えてしまうために生煮えになってしまう。
 だから「この場所」で踏みとどまって、まとめよう。

その判断は、私の場合とても難しいです。 なまじっか勉強した断片が頭に残っているために、 「もうちょっと深みに行けるのではないか?」 という迷い(色気)が生じてしまうのです。

このような迷い、落としどころを見つける悩みは、 本を書くたびに発生します。必ずです。

 ここで踏みとどまって、安定させる?
 でも、それだと、陳腐でつまらない本にならないか。

 もう一歩、踏み込んで、深い内容にする?
 でも、それだと、生煮えの題材を扱う本にならないか。

この判断は、とても難しいものです。正解はありません。

しかしながら、このように悩むことそのものは、 決して無駄ではありません。自分の理解の最前線を探ることは、 最終的には書籍の品質を上げることに貢献します。

本を上梓して数年が経ち、自分の本を読み返すと、 とってもおもしろい本になっていることがわかります。 それは単純な自画自賛というわけではなく、 私という人間の変化による現象です。

つまり、当時勉強したことの多くの部分を忘れてしまっているので、 書かれているものをベースにして楽しむことができるということです。

自分の理解の最前線で、あれこれ悩み、落としどころを考える。 それはつらいですが、大事なステップなのですね。

 * * *

決まり文句による言葉遊びの話。

「決まり文句あるある」というのを考えていました。 以下、列挙してみます。主にネットでよく見られるフレーズです。

誤解を恐れずあえて言うと、誤解される。

「最後に一言だけ言わせてもらうけど」と言ったくせに、 最後の一言にならない。

「あなたは私の書いたものをちゃんと読んでないですよね」と言う人も、 相手の書いたものをちゃんと読んでない。

「それもまたレッテル貼りだよね」もまたレッテル貼りだよね。

「あんたは、いつもそう言う」と言う人は、 いつも「あんたは、いつもそう言う」と言う。

「□□は悪いと言うくせに○○を悪いと言わないのは片手落ち!」 と言うくせに 「■■は悪いと言うくせに●●を悪いと言わないのは片手落ち!」 と言わないのは片手落ち!

 * * *

コトとヒトの話。

○○について批判するとき、

 「〇〇をするのは悪いコトだ」

という言い方と、

 「〇〇をするお前は悪いヒトだ」

という言い方があります。でも、この二つは異なるものです。 「悪い」を「愚か」に変えてもいいですし、 別の批判的な単語に変えてもいいでしょう。 ともかく「コト」と「ヒト」を批判するのは違うと思います。

コトとヒトが一致する場合もあります。でも、 一致しない場合もよくあります。 何かを主張するとき(特に批判するとき)には、 自分はどちらを主張したいのかなと考えるのはいいことだと思います。 コトを批判したいのか、ヒトを批判したいのか。

コトを批判すれば済むところでヒトを批判すると、 無用な軋轢を生む場合があります。 その一方で、コトを批判するのは的外れで、 ヒトを批判すべきこともあるでしょう。

そのヒトが何度も何度も同じコトを繰り返すならば、 やがて、そのヒトとコトは分かち難いほど一体になるでしょう。 よいコトであれ、わるいコトであれ。

罪を憎んで、人を憎まず。

タバコの煙を憎んで、喫煙者を憎まず。

 * * *

数学の本の難しさの話。

数学の本の難しさの一つに、 「書かれていることをそのまま受け取る難しさ」 があります。 書かれていることをそのまま受け取りさえすれば正しい理解になるのに、 自分で勝手な解釈や類推をしてしまって、 かえって誤解するまちがいが多いのです。 少なくとも私はそういうまちがいがよくあります。

自分の心理をモノローグふうに書けばこうです。

 「む? これはどういう意味だろう」
 「これは、○○と似てるな……」
 「ははーん、これは○○について書いてあるんだな!」

文章には「○○のことです」とはまったく書いてないのに、 表面的な類似だけをもとに解釈してしまう。 運良くその解釈が合っていればいいのですが、 まちがってしまえば、迷宮に足を踏み入れることになります。

数学の本の場合、書かれていることを文字通りに過不足なく受け取るのが、 結局は一番の近道だったりするのです。 論理の本を読むときには特に、そう感じます。

自分で一生懸命「考えて」しまうと失敗するというのはなかなか悲しいです。 文章として書かれていることをそのまま受け取るというのは難しいこと。

『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』のp.133で、 ミルカさんはこんなことを言いました。

「形式的体系の話をするときには、体温を落とし、機械の気持ちになる。 意味に引きずられてはいけない」

このアドバイスは、著者である私自身に大きな助けとなっています。 数学の本の内容を勝手に解釈し、 実際とは異なる意味を引き出さないように注意するということ。

数学の本の難しさにはもう一つ、 「人間の誤解について書かれていない難しさ」 があります。

数学の本には「これはこうなる」のような形で、 数学のことが書かれています。当然ですね。

数学の本には「これはこうなる、と考えがちであるが、 それはよくあるまちがいだ」のように、 人間の誤解について書かれる場合は少ないのです。

実は、

 ・書かれていることをそのまま受け取る難しさ
 ・人間の誤解について書かれていない難しさ

という二点は相互に関連しています。 書かれていることをそのまま受け取るのは難しくて、 つい勝手な解釈をして誤解しがち。 それに加えて、本を読み進めてもその誤解を正すチャンスがなかなかない。 これは確かに読むのが難しそうです。 まちがえやすい道になっていて、 しかも道しるべがないようなものだからです。

数学の入門書や啓蒙書を書くときには、 「読者がよく陥る誤解」をうまく拾って解説できれば、 読者の助けになるでしょう。 でも、そんな誤解をしない人にとっては、 かえって読みにくくなる可能性もありますね。

そんなんばっかりや! 本を書くときって、 そういう矛盾とトレードオフばっかり起きるんですよ!

 * * *

意思疎通の話。

ネットでの言い合いで、

 「そんなこと自分は言ってない」

や、

 「そんな意味で言ったわけじゃない」

というフレーズをよく見かけます。

よく知らない相手との対話で、 このような言い回しが多く出てくるようになったら、 対話の終わりを検討した方がいいかもしれません (要するに、話を切り上げる潮時ですよという意味)。

それはなぜかというと、 「そうは言ってない」や「そんな意味じゃない」 というレベルで議論のすりあわせをするのは、 ネットではたいへん難しいからです。

議論において、言葉の意味を確認することは大事です。 でも、お互いに共通の土台をまったく持たない状態から、 意味のある議論を展開することは困難なことも多いでしょう。

ましてやネットという制約がかかった状態では、 リアルでは対話することのない相手との対話も多く発生します。 すると「これは言わなくても伝わる」とか、 「この言葉にはこういうニュアンスがつく」 といった認識からずれが発生するので、すりあわせは大変です。

「そうは言っても、この論争で相手に一矢報いないことには、 腹の虫がおさまらない」という人には、こんなセリフをお届けします。

 「私たちは、ここで出会うべきではなかったのだ…」

心の中でこんなナレーションをつけると、楽しくスルーできます。

話は少し離れますが、結城はよく、

 「言った言わないの議論が多いプロジェクトは失敗」

だと思っています。

 「おまえ、そんなこと言ってなかったじゃないか」
 「いやいや、ちゃんと言ったよ。ほら前回の会議で」

のような議論が多いプロジェクトは、 意思疎通において大きな欠陥を抱えています。 その根本原因はいろいろあるでしょうけれど、 基本的な意思疎通ができないのに成功するプロジェクトはありません。

ですから、 「言った言わないの議論が多いプロジェクトは失敗」 だと思うのです。

 * * *

父の話。

小学生のころ、父のすすめでアマチュア無線の国家試験を受けました。

「混信にはどんな種類があるか例を挙げよ」という問題が出て「混変調」 と答えて正解しました。試験が終わってその話をしたら、 父から、

 「よく答えられたな!」

と手放しでほめられました。 それから何十年も時は過ぎ、父もすでに亡くなりました。 でも、私は、父からほめられたことをまだ覚えています。 胸の奥がぐっと温まるような思いと共に。

ほめられることは、学びにおいて、とても大事です。 もしかすると、子に対する父の仕事というのは、 ここぞというときに褒めることではないか、などと思うこともあります。

記憶を探ってみても、 私は父から「悪意のこもった言葉」を受けたことがありません。 怒られたことはあるけれど「罵倒」されたことはありませんし、 理不尽なことを要求されたこともありません。たった一度も。 もちろん母親からもありません。

もしかすると、そのことは、 私が両親からもらった、とてつもなく貴重な財産なのかもしれません。

 * * *

それでは、今回の結城メルマガを始めましょう。

どうぞ、ごゆっくりお読みください!

目次

  • はじめに
  • 数学の問題を出す楽しみ(問題編)
  • 文章読解力
  • 書くという仕事
  • 会話するときには何を意識すればいいですか? - Q&A
  • 数学の問題を出す楽しみ(解答編)
  • おわりに