結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2016年11月22日 Vol.243
はじめに
おはようございます。
いつも結城メルマガをご愛読ありがとうございます。
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新刊の話。
先月末に刊行した『数学ガールの秘密ノート/やさしい統計』は、 ありがたいことに売れ行きが好調のようです。
書泉グランデさんでは、2016年10月16日〜11月15日までの月刊ランキングで、 『数学ガールの秘密ノート/やさしい統計』が数学・物理で第1位でした! みなさん、ありがとうございます!
◆書泉グランデMATHさんのツイート
https://twitter.com/rikoushonotana/status/800157996387069952
また、有隣堂藤沢店さんでは、理工学書の週間ランキングで、 『数学ガールの秘密ノート/やさしい統計』が第3位とのこと。 感謝です!
出版社の営業さんから、 あちこちの書店さんでの展開の写真が送られてきました。
◆埼京線の北与野、ブックデポ書楽さん(@BD_syoraku)
へんな話ですが、このようにあちこちの書店さんの写真を見ると、 「ああ、ほんとうに書店さんで売られているんだなあ〜」 と実感しますね。いつもありがとうございます!
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LINEブログの話。
LINEブログが一般ユーザでも開設できるようになっていました。 さっそく、結城も開設。
◆結城浩のLINEブログ
http://lineblog.me/hyuki/
おもしろいと思ったのは、 書き込みはスマートフォンからしかできない点。 PCからは書き込みができないのです(閲覧はできます)。
え、不便じゃないの? と思ったのは一瞬でした。 考えてみると、文章を書くのでも写真を貼り付けるのでも、 スマートフォンから作業してもそれほど不便じゃありません。
もちろん長い文章を書くならばPCの方がずっといいのですが、 ちょっとした気持ちを書くだけなら、スマートフォンで十分。 むしろ、いちいちコンピュータを起動しなくていいので、 自分の気持ちをさっと書ける時代なのですね。
まだ数個しか記事しか書いていないのですが、 感覚的には「ツイートよりも少し長いくらいの文章」 を書くのにいいみたいです。
よろしければフォローしてみてください。
◆結城浩のLINEブログ
http://lineblog.me/hyuki/
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正論と悪態の話。
私は、たとえ「みんなに拡散したい正論」であっても、 「他人への悪態」が混じっているツイートを拡散するのはためらいます。 たとえば、こういうの(あくまで、たとえば)。
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電車で老人に席をゆずるのは当然のことですよ。
そんなこともできないなんて、
あなた、××××じゃないの?
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上記の××××には聞くに堪えない悪態が書かれていると思ってください。 悪いことをした相手を非難したり、 品質が悪いものに対して低い評価を下すことは悪ではありません。 でも「低い評価を下す」のと「悪態をつく」のは異なります。
正論に悪態が混じるツイートをする人は、 よっぽど腹に据えかねる気持ちがあるのかもしれませんし、 あるいは単に悪態をつきたいだけかもしれません。
と、ここまでイイコチャンで書いてきましたが、自分自身を振り返ります。 結城はTwitterで悪態をつくことは多くはないと認識していますが、 絶対につかないかと言われると、あまり自信はありません。
「腹に据えかねている」ことがあって正論を振りかざす場合はありそうですし、 あるいはまた「悪態をついている自分に酔っている」場合もあるでしょうね。 どちらの場合でも、 ツイートを読んでいる人の存在を忘れかけている可能性は高いと思います。 自分のツイートを読んでいる人のことを考えると、 悪態を読ませたいとは思わないので、自制が働きそう……かな?
別の点から話を続けます。 こんなツイートをしたらあの人からはこう思われるだろうな、 と考えることは悪くありません。 でも、あの人やこの人やその人……と考えすぎて配慮しすぎると、 なにも言えなくなってしまいます。 結局のところ、なにをどこまで考えて、 なにを言うか、いつ言うか、どういう言葉を使うかは、 話者の個性や性格になってくるのだと思います。
結城は頻繁に《読者のことを考える》という話をしますが、 単純に読者のことを考えるだけではなく、 自分と読者の「境目」に注意を払うのもいい方法です。 「境目」といってもいいですし「境界線」といってもいいです。
このツイートをしたという行為は自分の話。 このツイートでどう感じるかは相手の話。 ここに「境界線」があるのはわかりますか。 《自分の行為》と《相手の感じ方》はイコールではなく、 あいだに境界線があるのです。
自分は相手ではないのだから、 相手がどう感じるかをコントロールするわけにはいきません。 相手が不愉快に感じないように配慮することと、 絶対に不愉快に感じないようにすることとは違います。 相手はロボットではないのですから、 フルコントロールすることはできないのです。
読んでいる人のことを想像して、 ことさらに不愉快に受け取られる言い方をしないというのは良いことです。 でもあくまでそれは話者の側の考えに過ぎません。 相手がどう思うか、それは相手の自由です。
人と人とのコミュニケーションは、そこが面白く、 また恐ろしく難しいのでしょう。 つながっているようで、つながっていない。 境界線がある。 相手のことを考えるのは意味があるけれど、 相手のことを考えるのは意味がない。
その面白さと難しさが、 コミュニケーションの魅力ではないかと思っています。
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時計を巻き戻す話。
先日我が家で「もう一度、十代に戻りたいか」という話題になりました。 結城は即座に「もうあんなめんどくさい時代を繰り返したくない」 と思いました。十代ってややこしいパズルのような、 暴風雨のような時代だと思いませんか。
人生をだいぶ過ぎると、 自分は若いときにこういうことをやればよかったんだな、 ということがちょっぴりわかってきます。 なので、つい自分の子供にも「こういうことをやればいいぞ」 と言いたくなります。 でもそれがどれだけ正しいかは判断が難しいところです。
自分の経験を子供に適用できるかというと、 自分と子供は別の人間だから興味も適性も違う。 社会も大きく変化しているから、うまくいくとは限りません。
そもそも自分を振り返って、 「ああ、自分はこういうことやればよかった」 という判断もどれだけ信用できるかわかりませんしね。
自分の成功体験をもとにして子供に何かを伝えたくなりますが、 そこには危険性があります。子供に自慢げに言いたいために、 自分の過去の成功体験を武勇伝にしがちだからです。 自己の記憶は容易に改竄されます。 改竄しているのは自分自身。
子供に何をどう伝えるかは、難しいです。 せいぜい、お父さんはこういうふうに考えて生きてきたけれど、 あなたはあなたでがんばりなさい。 くらいになってしまうんでしょうか。
時計を巻き戻す話は、後ほどまた出てきます。
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文章のライブ感の話。
私にとって「おもしろい文章」というのは「何らかの発見がある文章」です。 ですから「文章の題材を見つけること」は「発見する題材を見つけること」 に似ています。
けれど、何を発見するかは、発見するまでわからないものですね。 何が見つかるかはわからないけれど、 きっと何かは見つかるはずと思って進む。 文章が生み出すライブ感はそこにあるのではないでしょうか。
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機械に負けないようにする話。
以下のオピニオンペーパーをざっと読みました。
◆AI時代の人間の強み・経営のあり方
http://nira.or.jp/president/opinion/entry/n161102_831.html
興味深かったのは、PDFの中ほどに書かれていた
「(日本企業は)AIではなく外国企業に負ける」
という観点です。以下引用。
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特に日本のホワイトカラーの職務は、全般的に、
入出力が明確ではなく、成果の評価軸も必ずしも明確ではない。
そのため、上記の定義に従えば、ホワイトカラーの職務は、
AI で代替されにくいようにみえる。しかし、これは正しくない。
非効率的な形で明確化がされていないために、
AIを使わず人を活用している場合、当然のことながら、
より効率的にAIを活用して、
より低コストで生産やサービス提供を行う外国企業等に競争で負けてしまう。
その意味では、日本では AI に直接仕事を奪われるというよりは、
AIを活用する外国企業や新規参入企業に負けるという形で、
間接的にAIに仕事を奪われる局面のほうが多いのかもしれない。
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なるほど、と言わざるをえません。AIと人間が直接勝負するのではなく、 AIを活用できている企業と活用できていない企業が勝負するのだと。
作業のどの部分が機械化できて、 どの部分が機械化できないかをよく考えて、 的確に機械化を進めていかないと競争力は落ちてしまうでしょう。 それは企業でも個人でも変わりはありません。
企業と同じように個々人も、 AIに仕事を奪われないように頭を使う必要があるでしょう。 いったいどのような仕事が将来もAIで代替できないのかを考える。 そのためにはAIでできることとできないことを弁別する必要があります。
自分が機械に置き換えられないようにと考えて、 自分の作業を機械化しにくくしようと考えるのはたぶんまちがい。
そうじゃなくて、自分の作業のうち「機械にできること」を真剣に探し、 それをどんどん機械化していく。 そして残った部分に自分の時間を注ぎ品質を上げる。 それが正しい対策だと思います。
要するに自分の作業を積極的に機械化していく人ほど、 機械に負けないのではないでしょうか。 とても逆説的ですけれど。
そういえば、Google翻訳の精度が上がったという話題がありました。 もちろんそれだけで翻訳者が仕事を失うわけではありません。 でも「自分の作業のどこかにGoogle翻訳を活用できないだろうか」 と考える翻訳者がいてもおかしくはありませんね。
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人工知能関係でもう一つ、読む力の話。
「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトの関連記事で、 湯浅誠さんによる以下のものは短くてわかりやすいものでした。
◆AI研究者が問う
ロボットは文章を読めない
では子どもたちは「読めて」いるのか?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20161114-00064079/
ここで紹介されている新井紀子さんの話は、 十分考える必要があると感じます。
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「文章の意味を理解できない東ロボよりも、
得点の低い高校生がいるのは、
どういうことだ?」
「この高校生たちは、
文章の意味を理解できているのだろうか?」
「義務教育で、
教科書の文章を読める力は本当についているのだろうか?」
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このような「着目する問題の切り換え」は、 非常に重要な意味を持つと思います。 コンピュータが人間にいつ追いつけるかどころか、 コンピュータほども文章を読めていない子供たちがいるのではないか、と。 その後で、リーディングスキルテストの予備調査の話が出てきます。
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本調査の結果が出ないかぎり、確定的なことは言えないが、
これまでのところ、テストを受験した公立中学校生340人のうち、
約5割が、教科書の内容を読み取れておらず、
約2割は、基礎的な読解もできていない
ことが明らかになってしまった。
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これは確かにショッキングな内容でしょう。
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国民の少なからぬ人たちが、
矛盾していたり、
センセーショナルなだけで中身のない発言の意味を吟味し、
その矛盾を見抜いたり、
実現可能性や妥当性を評価できる読解力を身につけていなかったら、
世の中は大変なことになってしまうのではないか、と。
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若い人たちが、コンピュータほどの読解力もないとしたら、 学ぶことができず、話が通じず、科学的な知見が生かせず、 理屈も通らない社会が誕生するでしょう。 社会が成り立たなくなりますね。
ところで、自分はどうだろう。 キーワードのパターンマッチング以上のことを、 しっかり考えているだろうか。
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と、いうことで、そろそろ、 今週の結城メルマガを始めましょう。
今回は久しぶりに「結城浩ミニ文庫」をお送りします。
『和算書「算法少女」を読む』(小寺裕)
という数学書の書評記事です。それから、 いささかセンチメンタルな読み物をいくつか。
どうぞ、ごゆっくりお読みくださいね!
目次
- はじめに
- 『和算書「算法少女」を読む』を読む - 結城浩ミニ文庫
- 恋について、愛について
- 帰省の話、母の話
- 精細な解説図つき、すごい問題解決手法
- おわりに
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