結城浩の「コミュニケーションの心がけ」

Vol.214 結城浩/ソシャゲと確率/手抜きをしない/

2016/05/03 07:00 投稿

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Vol.214 結城浩/ソシャゲと確率/手抜きをしない/

結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2016年5月3日 Vol.214

はじめに

おはようございます。

いつも結城メルマガをご愛読ありがとうございます。

早いもので、もう五月ですね! 今年の三分の一がすでに終わってしまったなんて驚きです。

今日は、多くの方は連休後半を楽しんでいらっしゃると思いますが、 結城は通常営業でふつうに原稿を書いているはずです。

今年は何としても『数学ガール6』を仕上げたいと思っています。 何とか四月中に第4章に形を付けたいと思っていたのですが、 結局は間に合っていませんね(しょぼん)。

でも、停滞していた原稿も少しずつ動き出しているので、 何とかじわじわ進めていきたいと思っています(前向き)。

 * * *

会計の話。

四月といえば新しい季節。新年度。 新しい場所でそれぞれの活動が始まる月です。

それはけっこうなのですが、 家族持ちからすると、出費がかさむ月でもありました。 たまたま大きな出費が重なったところに、 学費やら何やらがまとまってやってきて、 やりくりがなかなか大変でした。

タイミング良く出版社からの入金があり、 たいへん助かりました。

春ですね……(ひー)

 * * *

『作家の収支』の話。

会計といえば、 森博嗣さんの『作家の収支』という本を読みました。

 ◆『作家の収支』(森博嗣)
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B018FT9OLI/hyam-22/

最近はあまり読んでいませんが、 数年前は森さんの作品をよく読んでいました。 おそらく続けて数十冊は読んだと思います。

この『作家の収支』は、タイトルの通り、 森さんの収入と支出について書かれている一冊です。 十五億円の収入を自慢をするわけでもなく、 もちろん卑下するわけでもなく、 持論を得意げに語るわけでもない。 研究会で発表するような淡々としたトーンで、 データが並べられていきます。

森さんの考えはエッセーなどでもよく見ていましたから、 『作家の収支』というタイトルから、 恐らくは率直にデータが展開される本だろうと想像していましたが、 果たしてその通りの本でした。

森博嗣さんの文章は読みやすいですね。 文章として読みやすいだけではなく、 そこに書かれているものの「含み」を推し量る労力が少なくて済むと感じます。 書かれていることをそのまま受け取っていい、という感覚は心地よいものです。

興味深いのは、そのような淡々とした文章でありながら (いや、淡々としているからこそ?)、 きちんと本人の考えが伝わってくるということです 声高に「自分の考え」を主張しなくても、 自然と伝わってくるというのがおもしろい。 そもそも文章ってそういうものなのかもしれませんけれど。

森さんは合理的な考え方をする人ですから、 出版社のビジネスのありかたにも疑問を投げかけます。 原稿料があまりにも一律であることや、 思い切った販売施策を打たないこと、 作家のプロモーションに力を入れないことなどですね。

この『作家の収支』の中では、原稿用紙一枚でいくらになるか、 本一冊を書いたらいつの時点でどれだけのお金が入ってくるか、 そういう話を具体的な書名と年つきで語っていきます。 もちろん、森さんと結城とでは収入の桁がいくつも違うので、 直接の参考にはなりません。でも考え方は参考にできます。

森さんが提示している考え方でたいへん共感するのは、 作家の仕事の基本は、

 「常に新作を出すこと」

という点です。たった一作を書いて、 その評判が上がるのをじっと待つのではない。 そんな暇があったら、次の作品を出す。それは、 読者に忘れられないようにするため……というのは、 きっとそうあるべきなのだな、と結城も思います。

「点」として作品を発表するけれど、 それだけでは注目してくれる人は少ない。 点を繋いで線とし、さらには面にしていく。 そのような努力が必要なのだと感じます。

作家の(他の職業に対する)強みは、 何も仕入れることなく、たった一人で作品を生み出す点にあります。 他のほとんどの職業はたくさんの人が必要になってしまうのに。 森さんはそのことを、こんなふうに表現します。

 ----
 思ったのは、「よほど大きく当らないかぎり、
 ゲームでは元が取れないだろう」ということだった。
 つい自分一人だけで作れてしまう小説と比較をしてしまう。
 (略)
 小説は、1万人が買えば商売として成立する。
 10万人が買えばベストセラである。
 しかし、映画は100万人が見ても、
 成功とはいえない。もう1桁上なのだ。
 ----

そして森さんは「小説のマイナさは、ここが強みだということ」と結ぶ。

なるほど。

森さんが淡々と書いている話を読みながら、 そのひとつひとつに対して、 「この点について、私としてはどう思うか。 自分はどのように対処しているか」 と考えを広げ、たいへん勉強になりました。

知的生産物を作り出して生計を立てようとする人には、 なかなか参考になる本だと思います。

 ◆『作家の収支』(森博嗣)
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B018FT9OLI/hyam-22/

 * * *

ものを探す話。

結城は「探し物をする」というトラブルがあまりありません。 何かがどこにあるかわからない。 あっちかな、こっちかな、どこにもないぞ…… そんな状況に陥ることは多くありません。

何がどこにあるかを覚えている記憶力が特にいい、 というわけではありません(妻に言わせると、 「あなたは記憶力が異常にいい」らしいですが)。

ものの場所をすべて記憶しているというわけでもありません。 私が探し物をしないで済むのは、ものを片付けるときに、

 「次回自分がコレを探すとしたら、
  どういう発想に立って、どこを探そうとするだろう」

と考えることが多いからだと思います。

 ・コレが必要になるのはいつだろう。
 ・コレを必要とするとき、どこを探そうとするだろう。
 ・コレは、いっしょに使うもののそばに置いておこう。

そんなふうに考えて片付けるのです。

自分で勝手なルールを作って整理をしても、 いざ探すときになってみるとそんなルールはとうに忘れているはず。 だから、整理して片付けた場所がわからなくなるのです。

たとえば、たまにしか着ない礼服用のハンカチと靴下。 きれいにしたあと、ハンカチは礼服のポケットに、 靴下は、この礼服を着るときに履くであろう革靴のところに置きます。 そうすれば、次回礼服を着るタイミングですべて見つかるはずです。

と、ここまで話してきて思ったのですが、 「自分がコレを探すとしたら、 どこを探そうとするだろう」という問いかけでうまく行くのは、 私の中に「一貫した行動を取りたい」 という気持ちがもともとあるからかもしれません。

ところで今度は何かを探す状況になったときの話。 何かを探す状況のときに私が考えるのは、

 「アレを片付けたときの過去の私は、
  現在の私の気持ちをわかってくれていただろうか」

と考えます。つまり、

 「『アレを探そう』としている現在の自分は、どこを探そうとするか。
  それを、過去の自分は推測できていただろうか」

と考えるのです(ややこしいですね)。

過去の自分と現在の自分では、行動原理は同じかしら。 もしそうならば、探し物はすぐに見つかるでしょう。 それは、過去の自分と現在の自分が遠隔通信をしているようなものですね。 うまく周波数が合えば、探し物はすぐに見つかるのです。

あなたはしょっちゅう探し物をする方ですか?

 * * *

講演の話。

先日、とある学校から講演の依頼が来ました。

夏休み期間中に行われる特別授業的な位置づけということで、 現在、お引き受けする方向で進めているところです。

結城は基本的に本を書くのが仕事で、 積極的に講演は行っていないのですが、 うまく条件が合えばお引き受けすることがあります。

これまでにお引き受けしたのは、ほとんどが学校関係ですね。 一度、出版&数学関係者向けにお話させていただいたこともあります。 不特定多数へ向けての講演会のようなものは基本的にお断りしています。

最近引き受けた講演については、文字起こしと加筆修正をし、 「数学ガールの特別授業」と銘打って、 この結城メルマガでも配信してきました。

 ◆「数学ガールの特別授業」
 http://www.hyuki.com/girl/lesson.html

当然のことながら、特別授業のためには準備が必要です。 スライドはLaTeXで書き、PDFを準備します。 そして、話すことをすべて書いた原稿を前もって作ります。 アドリブで講演ができるほど、結城は能力が高くないからです。

どのページでどういうジョークを言うかまで考え、 文章として書きます。 また、時間が余ったときのための予備スライドも作ります。 生徒さんに問題を出して、 それがあまりにもあっけなく解かれたときのために、 予備の問題も用意します。 講演はリアルタイムで進行するので、 不測の事態にできるだけスムーズに対処するためです。

原稿を書きながら、脳内で講演のリハーサルをします。 当日しゃべっている自分のようすを想像し、 そのときの生徒の反応を想像します。 このスライドを見た生徒は、 どういうことを考え、次に何を見たいと思うだろうか。 そんなことを想像するのです。

スライドが完成したら、実際に声を出して練習をします。 原稿を見ながら練習をしますが、 その時点ではすでに話の流れは頭に入っています。 余裕があれば、家族に聞いてもらいます。 講演の当日も、朝からスライドを見直して、 全体の流れを復習します。

しかし、実際の講演本番では、 原稿は極力見ません(見る余裕もありません)。 それよりも生徒さんの方をよく見ます。 そして、みんなが話について来ているようならば、 テンポや難易度やトーンを少し上げます。 いま一つ反応が鈍かったら、 テンポを落とし、例の解説を少していねいにします。 場合によっては難易度の高いスライドは飛ばします。

前もって講演の原稿を文章として作っておくのは、 そのように臨機応変な動きをするためです。 「この通り話せばぐだぐだになることはない」 という最低ラインが保証されている安心感を前もって持ちたい。 それがあれば、生徒さんの反応を感じる方に、 自分のCPUパワーを使うことができるからです。

さて、この夏の講演会(特別授業)はどんなものになるでしょう。 とっても楽しみです。

この時のスライドもまた、 結城メルマガで配信していきますね。 どうぞお楽しみに!

 * * *

校正の話。

毎日新聞・校閲グループさん(@mainichi_kotoba) のツイートを楽しんでいます。

先日「オンラインゲームに課金する」という表現が話題になっていました。

 https://twitter.com/mainichi_kotoba/status/724408351996563456

「課金する」という用語の本来の意味を考えると、 ゲームの運営者が、ユーザに対して「課金する」わけなので、 お金を支払う側のユーザが「課金する」という表現は引っかかるというのです。 毎日新聞・校閲グループさんは「課金する」を「お金を使う」 に直していました。

恥ずかしながら、このツイートを見るまで、 そのような発想はまったくありませんでした。 でも確かに言われてみれば「課金」というのは、 お金の支払いを相手に課すということですね。

でも、もう一度あらためて考えると、 「オンラインゲームに課金する」という表現は、 ユーザ側でも、非常によく使われていますよね。 そしてまた「課金する」と「お金を使う」というのは、 ニュアンスが多少異なるような気もします。

「課金する」の方が、「お金を使う」よりも、 ゲームへの《のめり込み感》をよく表現しているように感じるのです。 「課金勢」や「課金兵」などという表現も、 単にお金を使っているというニュアンスよりも、 ゲームへのめり込んでいる感じ、 あるいは逆にそれを勲章にする感じがあります。 おそらく「課金」という簡潔な熟語が新しい意味を獲得しているのでしょう。

ある方は「『募金する』という表現も似ている」 と主張していました。確かに「募金」という言葉も、 「お金を募っている」わけですから、運営側の言葉ですよね。 けれど「震災のために募金しましょう!」という表現は、 新たな募金を運営開始するという意味ではなく、 お金を支払うという意味で使います。 ここでも「募金」という簡潔な熟語が、 新しい意味を獲得しているように思います。

言葉って面白いですね。

 * * *

ちょっとした、言葉の話。

 「ありがとうございます」

って言うたびに、うれしさが倍増します。

感謝の言葉を口に出すことは、 毎日を幸福で満たす秘訣ですね。

 * * *

初任給の話。

四月末近くに「初任給」の話題を見かけました。

社会人一年生の方は、もしも親御さんがご存命ならば、 初任給から親御さんへ何かプレゼントをなさることをおすすめいたします。

「プレゼントといってもなあ……」 という方は、たとえばお給料から一万円を送るのでもいいですね。 私の親の世代なら「給料袋の一番上のお札を」というところですが、 いまは銀行振込でしょうからね。

「うちの親とはそういう間柄じゃない」 という方は、プレゼントなど送らなくても、 親御さんへせめてご報告を……

できれば「ありがとう」の一言を添えて……

 * * *

敬体と常体の話。

日本語の文には、 「です・ます」で終わらせる敬体と、 「だ・である」で終わらせる常体とがあります (たとえばいまの文は「〜あります」で終わっているので敬体になります)。

先日「結城メルマガでは敬体と常体が混じってますが、使い分けの基準は?」 という主旨の質問をいただきました。

敬体は親しみやすく、優しい印象を読者に与えます。 その一方で、感情や意図が過多に感じられる場合もあり、 客観的な文章には向かないこともあります。

常体はその逆ですね。事実を端的に述べたり、 率直に語っている印象を与える反面、 ぶっきらぼうで冷たい印象を与えます。

それから大事なこととして、 敬体は、常体に比べて文が長くなる傾向がありますので、 まどろっこしい感じを与えることも多いです。 実際に、たくさんの情報を伝えるのに敬体は向きません。

基本的に、一つの文章の中で敬体と常体を混ぜて使うことはありません。 これは日本語の文章を書く上での基礎になります。 結城も、書籍ではどちらかに揃えます。

ただ、こういうルールはときどきやぶると面白い効果があります。

たとえば結城は、敬体で書いている書籍であっても、 「箇条書き」の部分に限って常体にすることがあります。 それは、

 ・箇条書きは、情報を端的に伝えるためにある。
 ・箇条書きは、本文とは独立している。

という理由からです。 そして実際、敬体の文章中で箇条書きの部分だけが常体になっていても、 それほど違和感は感じないものです。

それから、かなり実験的な試みではありますが、 読者に強く訴えるような文章では、 優しい敬体の中に強い常体を混ぜるのもおもしろいものです。 敬体でずっと文章を書いてくる。 「ここぞ」という箇所に来る。 敬体から常体に切り換える。 短い文で畳みかける。 一つの文章で敬体と常体を混ぜて使うと、 そのような緩急を作り出すことができるのです。 使える場面は限られているかもしれませんが、 なかなかおもしろい方法だと私は思います。

 * * *

チャレンジとは。

チャレンジとは、実は「壮大なこと」ではないのかもしれない。

いつもいつも、

 「これやらなくちゃな。やったほうがいいな」

と気に掛けていたけれど、ずっとできなかったこと。

でも、あるとき、それを思い切ってやってみる。

なぜかずっとできなかったことを、ふと、始めてみる。

それこそ「チャレンジ」なのかもしれない。

いつもの自分と比べたら、少しだけ違う自分になる。

あなたの今日の「チャレンジ」は何ですか。

 * * *

では、今週の結城メルマガを始めましょう。

どうぞ、ごゆっくりお読みください!

目次

  • はじめに
  • 『ソシャゲと確率』 - 結城浩ミニ文庫
  • 手抜きをしない - 本を書く心がけ
  • おわりに
 

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