すみません。書き込んだコメントを間違えて消してしまいました。 消してしまったコメントを以下で再現させていただきたいと思います。 と、その前に、丁寧な返信をいただき、ありがとうございます。 内容についてはまだ消化できていないので、末尾の「コメントが二件あります」の件についてだけ。 実は一度、推敲前のコメントを書き込んだのですが、それは削除しまして、推敲後のコメントを投稿させていただきました。兵頭さんが読まれたのが推敲後のコメントだと思います。兵頭さんの返信がコメント№3になっていますが、私が書いた推敲後のコメントがコメント№2で、削除した推敲前のコメントがコメント№1です。コメント№2も間違えて消してしまいましたが…。ブログの仕様として、コメントを削除しても、コメントがあったという事実は消えないようです。 以下、コメント№2の再現 はじめまして、最近こちらのブログを見つけまして、大変感銘を受けまして、旧ブログの最初からと、『ぼくたちの女災社会』を読ませていただきました。これからもブログの更新を楽しみにしてます。 とはいえ、今回の記事には、ちょっと首をかしげてしまいました。 私はサブカルにはあまり詳しくないので的外れかもしれませんが…。 『さよなら絶望先生』の万世橋わたるや『ダンガンロンパ』の山田一二三は、外見上男前には描かれていない、というか醜化されている(=外見上醜く描かれている)と言っていいように思います。ところが『となりの801ちゃん』や『絶望先生』の藤吉さん(や『ダンガンロンパ』の腐川冬子)は醜化されてはいない、むしろ美化されている(=外見上かわいく描かれている)と言っていいように思います。 醜化された男オタクキャラを好意的に受け入れる男オタクと、美化された女オタクキャラを好意的に受け入れる女オタクを同列に論じるのはおかしいのではないでしょうか。 同列に論じるのなら、醜化された女オタクキャラと思われる『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の黒木智子(もこっちに快哉を叫ぶ女オタクがいるかどうかは知りません)や、美化された男オタクキャラ(該当例思いつかず)を取り上げるべきなのではないでしょうか。 『さよなら絶望先生』で万世橋わたるが醜化されているのに藤吉さんは醜化されていない、『ダンガンロンパ』の山田一二三は醜化されているのに腐川冬子は醜化されていないというのは、これらの作品の作者が東浩紀師匠同様に「男オタクは叩いていい、女オタクは叩いてはいけない」という、男オタクを「プア・ファット・ホワイトマン=差別の許された最後の聖域」扱いするような偏見にまみれている証拠なのではないでしょうか。 また、記事の終盤で 「山田君、万世橋君のファンの方には念を押しておきますが、ぼくはこの二人やそのファンをdisってるわけではありません。ただ、このキャラの作り手たちはオタクに対しての冷静な目も失っておらず、そうした視点も大事だよね、というお話をしているわけです。」 と書かれています。「冷静な」という言葉には「ある程度の正しさが含まれる」といったニュアンスがあるように、私は感じました。 ですが、記事の中盤ではこの視点には「冷静な」ではなく「揶揄」「自虐」といった言葉がつけられています。しかし「冷静」と「揶揄」「自虐」は全く別のものですし、自虐的であることが冷静さを保証するわけでもありません。(もちろん正しさを保証するわけでもありません。例としては歴史認識問題における自虐史観が挙げられると思います) 「揶揄」「自虐」を「冷静な」と言い換えるのは、論理の飛躍なのではないでしょうか。 むしろ私の見立てにのっとって言うなら、『さよなら絶望先生』や『ダンガンロンパ』の作者の頭の中は東浩紀師匠ばりの偏見にまみれているのだから、彼らの意見が「冷静な」ものであるとはとても思えないのですが。 (応援してます、という内容のコメントを書こうと思っていたのに、…どうしてこうなった) 以上、コメント№2の再現終わり
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兵頭新児の女災対策的随想
(ID:4423581)
すみません。書き込んだコメントを間違えて消してしまいました。
消してしまったコメントを以下で再現させていただきたいと思います。
と、その前に、丁寧な返信をいただき、ありがとうございます。
内容についてはまだ消化できていないので、末尾の「コメントが二件あります」の件についてだけ。
実は一度、推敲前のコメントを書き込んだのですが、それは削除しまして、推敲後のコメントを投稿させていただきました。兵頭さんが読まれたのが推敲後のコメントだと思います。兵頭さんの返信がコメント№3になっていますが、私が書いた推敲後のコメントがコメント№2で、削除した推敲前のコメントがコメント№1です。コメント№2も間違えて消してしまいましたが…。ブログの仕様として、コメントを削除しても、コメントがあったという事実は消えないようです。
以下、コメント№2の再現
はじめまして、最近こちらのブログを見つけまして、大変感銘を受けまして、旧ブログの最初からと、『ぼくたちの女災社会』を読ませていただきました。これからもブログの更新を楽しみにしてます。
とはいえ、今回の記事には、ちょっと首をかしげてしまいました。
私はサブカルにはあまり詳しくないので的外れかもしれませんが…。
『さよなら絶望先生』の万世橋わたるや『ダンガンロンパ』の山田一二三は、外見上男前には描かれていない、というか醜化されている(=外見上醜く描かれている)と言っていいように思います。ところが『となりの801ちゃん』や『絶望先生』の藤吉さん(や『ダンガンロンパ』の腐川冬子)は醜化されてはいない、むしろ美化されている(=外見上かわいく描かれている)と言っていいように思います。
醜化された男オタクキャラを好意的に受け入れる男オタクと、美化された女オタクキャラを好意的に受け入れる女オタクを同列に論じるのはおかしいのではないでしょうか。
同列に論じるのなら、醜化された女オタクキャラと思われる『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の黒木智子(もこっちに快哉を叫ぶ女オタクがいるかどうかは知りません)や、美化された男オタクキャラ(該当例思いつかず)を取り上げるべきなのではないでしょうか。
『さよなら絶望先生』で万世橋わたるが醜化されているのに藤吉さんは醜化されていない、『ダンガンロンパ』の山田一二三は醜化されているのに腐川冬子は醜化されていないというのは、これらの作品の作者が東浩紀師匠同様に「男オタクは叩いていい、女オタクは叩いてはいけない」という、男オタクを「プア・ファット・ホワイトマン=差別の許された最後の聖域」扱いするような偏見にまみれている証拠なのではないでしょうか。
また、記事の終盤で
「山田君、万世橋君のファンの方には念を押しておきますが、ぼくはこの二人やそのファンをdisってるわけではありません。ただ、このキャラの作り手たちはオタクに対しての冷静な目も失っておらず、そうした視点も大事だよね、というお話をしているわけです。」
と書かれています。「冷静な」という言葉には「ある程度の正しさが含まれる」といったニュアンスがあるように、私は感じました。
ですが、記事の中盤ではこの視点には「冷静な」ではなく「揶揄」「自虐」といった言葉がつけられています。しかし「冷静」と「揶揄」「自虐」は全く別のものですし、自虐的であることが冷静さを保証するわけでもありません。(もちろん正しさを保証するわけでもありません。例としては歴史認識問題における自虐史観が挙げられると思います)
「揶揄」「自虐」を「冷静な」と言い換えるのは、論理の飛躍なのではないでしょうか。
むしろ私の見立てにのっとって言うなら、『さよなら絶望先生』や『ダンガンロンパ』の作者の頭の中は東浩紀師匠ばりの偏見にまみれているのだから、彼らの意見が「冷静な」ものであるとはとても思えないのですが。
(応援してます、という内容のコメントを書こうと思っていたのに、…どうしてこうなった)
以上、コメント№2の再現終わり