女が男を虐殺するのも、その逆も別に「そんな事珍しくも無い」「ニンゲンはニンゲンを殺す様にできてるナマモノなんだから不思議でもなんでもない」と、余程理不尽な事でもない限り基本スルーする性質なんですが、やっぱり「幼児や動物(或いは発達障碍者)」=「人間社会で権利を主張する事が不可能であるが故に、社会から保護されるべき絶対弱者」が「既に出来上がった、手前のケツはテメエで拭くのが当たり前のニンゲン」の都合で雑に扱われるのはどうしても看過できないんですよね… 一方で「子供の権利(保護ではなく権利だ、と彼等は言う。)」を主張する筈の、子供には独立した人格が在る、と言っている筈の連中が、なぜにこうまで「子供の人格なぞ親の都合のいいように解釈すればいい」と言うトンデモねぇ主張に「共感」するんでしょうかね。 これは明らかに「子供を独立した他者とは見ていない」。「何があっても自分を盲目的に愛し、裏切らない、絶対の隷属を誓う人形」であってくれ、と願っている。連中がいう所の「古臭い母性神話」なぞ引き合いに出すつもりもありませんが、これはほかならぬ連中がいう所の「子供の権利」を完全に踏みにじり、「子供を他者ではなく自分に隷属して当たり前の物」と見なすって話でしょうにね。「そういう絶対服従する、自分が支配できる相手」でなければ「愛せない」「わたしの人形になれば愛してやる。でなければゴミだ」と自ら間接的に宣言してしまっている訳です。 赤ん坊や幼児も、犬や猫も、ちび共はみーんな自己中です。彼等は心を持って生きているのだからそれで当たり前だし、その自己中を愛することが親や飼い主の喜びだった筈ですがね。それが「親に求められる」絶対の資格の筈だった。でありながら… 何故、幼児にまで自己犠牲を求める?そうまで「無条件に愛されなければ」こんな小さな者達すら大事にできないってのか? どこまでおぞましいんだよ(嘲)
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兵頭新児の女災対策的随想
(ID:13257395)
女が男を虐殺するのも、その逆も別に「そんな事珍しくも無い」「ニンゲンはニンゲンを殺す様にできてるナマモノなんだから不思議でもなんでもない」と、余程理不尽な事でもない限り基本スルーする性質なんですが、やっぱり「幼児や動物(或いは発達障碍者)」=「人間社会で権利を主張する事が不可能であるが故に、社会から保護されるべき絶対弱者」が「既に出来上がった、手前のケツはテメエで拭くのが当たり前のニンゲン」の都合で雑に扱われるのはどうしても看過できないんですよね…
一方で「子供の権利(保護ではなく権利だ、と彼等は言う。)」を主張する筈の、子供には独立した人格が在る、と言っている筈の連中が、なぜにこうまで「子供の人格なぞ親の都合のいいように解釈すればいい」と言うトンデモねぇ主張に「共感」するんでしょうかね。
これは明らかに「子供を独立した他者とは見ていない」。「何があっても自分を盲目的に愛し、裏切らない、絶対の隷属を誓う人形」であってくれ、と願っている。連中がいう所の「古臭い母性神話」なぞ引き合いに出すつもりもありませんが、これはほかならぬ連中がいう所の「子供の権利」を完全に踏みにじり、「子供を他者ではなく自分に隷属して当たり前の物」と見なすって話でしょうにね。「そういう絶対服従する、自分が支配できる相手」でなければ「愛せない」「わたしの人形になれば愛してやる。でなければゴミだ」と自ら間接的に宣言してしまっている訳です。
赤ん坊や幼児も、犬や猫も、ちび共はみーんな自己中です。彼等は心を持って生きているのだからそれで当たり前だし、その自己中を愛することが親や飼い主の喜びだった筈ですがね。それが「親に求められる」絶対の資格の筈だった。でありながら…
何故、幼児にまで自己犠牲を求める?そうまで「無条件に愛されなければ」こんな小さな者達すら大事にできないってのか?
どこまでおぞましいんだよ(嘲)