目下、『WiLL Online』様で書かせていただいた記事が、永らく人気第一位となっております。
松本人志氏の性加害疑惑を糾弾したパオロ・マッツァリーノ師匠のデタラメさに対する批判なのですが、近く『文春』のおかしさについても指摘した第二弾を掲載予定です。
時事ネタに留まらない、ポリコレのヤバさを暴く記事になるかと思いますので、どうぞ応援をよろしくお願いします。
さて、それと関連して「性犯罪冤罪としてのフェミニズム」について考察した動画が上がっております。
ぶっちゃけこのシリーズ、最近全然回転しなくなっているので、ご興味のある方は是非、ごらんください。
さて、今回はそれと関係なく、サブカルのオタクへの加害。それが80年代のオタクコンテンツにおけるニヒリズムと大きく関わっていた……というお話です。
と、そういうことで……。
* * * *
が~んがんが~んがんがんがんが~んがんが~んがんがんがん♪
「おっ、『ゲッターロボ』か、懐かしいな」
「再放送じゃないっっ!」
「でも、今の子は『ゲッター』知らんだろ。笑えるかな」
「パロディじゃないッッ!!」
――というわけで久し振りにやって参りました、『レッドデータコンテンツ図鑑』。
前回、次はタイムボカンシリーズと予告しましたが、ちょっと思いついたことがありまして……いずれも「価値相対化の時代である80年代に生まれた、ある意味あだ花」といった側面がある作品なので、語る内容はいずれにせよいっしょになっちゃうんですが。
さて、数日前、ツイッター上に以下のような書き込みがなされました。
長くなりそうなんで書くのやめてましたが、最近のオタクはウヨったりミソジニーだったりと評判が悪いので、若い人にはオタ創世記?の頃が分からなくなっているらしく、結論を最初に言うと「元々オタクはリベラル寄りであり知的であった」です↓
例えば、円谷特撮で育った当時の子供にものすごい衝撃を与えたのはG・ルーカス『スターウォーズ』77年ですが(日本公開は78年)映画のあとすぐに出たムック本には、黒澤映画の影響(隠し砦~)やエロール・フリンの海賊映画、米国のスペースオペラの系譜(パルプ雑誌)などが↓
作品の裏側にはあるんだよ、ということが縷々説明されていました。これらの解説文を書いていたのは、日本に海外SFを紹介してきた人たちで(野田元帥など)ウルトラシリーズとゴジラくらいしか知らなかった、当時のガキには「そんなもんが外国にゃあるんだホゲー」でした↓
(中略)
つまり雑駁に言えば「創作物を通じて意味を汲み取り、自分が生きている現実を考える姿勢」は、当時の漫画ファン・アニメファン・映画ファン・活字マニアにとって「それは当たり前」でした↓
また、それらサブカルの紹介者もファンも言うまでもなく昔の日本はどんな国だったかはよく知っており、「住んでる世界が軍事独裁になればいい」というグロテスクな妄想は抱かないのが「普通」でした↓
(以下略)
(https://twitter.com/Simizushi/status/1756990126482407911)
――長い長いツイで、できれば略した部分も読んでみて欲しいのですが(よくある、自分の仮想敵としての「ネトウヨ」を妄想し、自己正当化を続ける、気持ちの悪い内容です)、要するにぼくがいつも言っているような、「愚かなサブカル君」を象徴するかのようなツイなわけです。
読んでいくと円谷特撮に対し『スターウォーズ』を優位に見ているし、そもそも語るうちにホンネがまろび出て、当初は「オタク」だった主語が後半では「サブカル」へとすり替わっている辺りが微笑ましいですね。
「サブカル君は左派的価値観を振りかざし、オタクにマウントを取るが、その傲慢さ、古色蒼然さが嫌われている」。
「サブカル君はオタクの上位者を気取り、オタクを侮蔑しきっていたが、オタクがカネになると知るや擦り寄ってきた」。
「サブカル君はオタクを自称するようになったが、実際には上位者であるという醜い勘違いしきった自意識を捨てていない」。
今までぼくが繰り返してきたことが、このツイには非常にコンパクトに実証されています。
それに対し、今までぼくはガイナックスの母体となったDAICONフィルムの自主映画『愛國戰隊大日本』を例に論じていました(これについては少し前に書いた「山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義」を読んでください)。本作は上の世代(ぼくが言うサブカル君)の政治イデオロギーを徹底的に笑い飛ばした作品でした。
ただ……イデオロギーを笑い飛ばす時点でイデオロギーに対するそれなりの知識や感情があるわけで、下々の若きオタクたちは、ぶっちゃけそれすらもなかったわけです。
では、何を笑っていたのか。
はい、答えは「本作を笑っていた」でした。
本作は1983年に放映された作品。
世はガンダムブーム……がちょっと落ち着いてきた頃かな?
ともかくリアルロボットが流行し、オタク世代、中高生のアニメファンが増えてきた頃です。
そんな中、一昔前のスーパーロボットの復権を狙って作られたのが本作。
三体のロボットが合体し、悪の軍団デリンジャーに戦いを挑む――という『ゲッターロボ』(74)を露骨に意識した作品でした。
冒頭に書いた会話は当時のアニメ雑誌で若き日のゆうきまさみが描いていたもの。『ゲッター』そっくりだな、しかしもうちょっと何かプラスアルファがあってもいいんじゃないの、というこれ自体が本作への鋭い批評となっていました。
もっとも独自性が全くなかったわけでもなく、主人公たちは青葉学園の生徒であり、学校の課題として作ったロボで敵に戦いを挑むという、近未来のテクノロジーの進歩を、そして『ガンダム』のニュータイプにも通ずるような若者たちが新たな技術を使いこなし、新たな時代を築くのだとの楽観性が、そこにはありました(何しろ次回作の『ビデオ戦士レザリオン』(84)ではコンピュータ少年がロボを「何か、作って」しまいます!)。
当時は『3年B組金八先生』(79~)を考えてもわかるようにティーンエイジャーの多かった時代です。アニメの主人公がそうなるのも必然だし、また『ガンダム』(79)がそうであるように、この設定もオタク世代の視聴者を意識してのものだったと思えます。
ところが……ゆうきまさみの評でもわかるように、本作は必ずしも「俺たちの作品」として迎えられたわけではありません。
脚本(おそらくシリーズ構成めいたことも担当していたと想像できます)は上原正三。以前にも採り挙げたことのある、ぼくも尊敬する脚本家です。ウルトラシリーズから戦隊シリーズまで、そして本家『ゲッター』までも担当していた特撮、アニメ脚本の帝王なのですが、そして当時も宇宙刑事シリーズ(82~)を執筆し、何度目かの黄金期を迎えていたのですが……本作に関しては「外していた」と感じます。
えぇとですね、主人公は円条寺大作。声は古川登志夫。
同氏は80年代アニメを語るに外せない、『ガンダム』ではカイ・シデンを、『うる星やつら』(81)では諸星あたるを演じた、ある意味では当時の「ニヒリズム」を強く体現する声優なのですが……例えば本作ではこんなシーンがありました。
「来るなら来い、デリンジャー! どんな卑劣な手を使おうとも、俺たちが必ず叩き潰してやる!!」
勇ましく拳を固め、決意する大作――ところがカメラが引いていくと、その後ろ姿は尻を丸出しにしている。風呂上がりで、シャツだけ着てパンツを穿いていなかったのだ……すみません、記憶で書いているので厳密には差異もあるでしょうが、何かそんなんです。
『超魔術合体ロボギンガイザー』(77)でも主人公が敵の前にギターを弾いて現れるという(つまり、ヒーローが前時代的なヒーローを演じ、それが笑えるという)ギャグをやっていましたし、そうしたセンスは別に80年代になって始まったものではないはずです。
上原正三自身、以前にも書いたように『ゴレンジャー』(75)、『ジャッカー』(77)で先進的なギャグを書いておりました。
が、上のギャグは申し訳ないけど「寒い」。
先にも書いた次回作『レザリオン』は本作に比べシリアスな作風なのですが、たまに入るギャグが微妙でした(もっとも上原は後期からの執筆なので、下の全てが彼の手によるものかはわかりませんが……)。
・主人公・香取敬が寝坊なのを母ちゃんに叩き起こされるが、その時、怒った母ちゃんがゴジラと化す。
・敬を演じたのは古谷徹。「父ちゃん、俺はやるぜ!」、「敬、行きま~す」などと言う。「行きま~す」の後には「いけね、昔のクセが出ちまった」などと自己突っ込みが入る!
・敵に惑わされるレザリオン。味方の博士が周囲に解説し、「SF的に解釈するなら、異次元空間に取り込まれたのじゃ」などと言う!
最初の母ちゃんがゴジラと化す、こういうのは当時、やたら多かったのです。ちょっと好例が思いつきませんが、例えば『マカロニほうれん荘』でキャラクターたちが次々変身していくような、そんなギャグを狙ったものだと思われます。
が、それがやはり、申し訳ないけど寒い。
古谷徹の声優ネタもそうで、(こういうのは同人誌など、オタクの間で確かに流行していたのだけれども)やり過ぎだろうと嘲笑されてしまいました。
博士のセリフもそうで、いわゆる「メタ」的なギャグを狙ったわけでしょうが、シリアスな場面でいきなり発せられたため、「ポカーン(゚Д゚)」という感じでした。
ちなみにこの三つ目のもの、「敵のジャーク星人が巨大ロボを操り、レザリオンを追い詰めていく様を、自ら琵琶法師の姿となって実況する」といったヘンな話で、同時期の『宇宙刑事』の敵が宇宙刑事を異空間に取り込むという演出を再現したものだと思えますが、正直、成功していません。
一方、『アルベガス』の大作のケツ丸出しですが、シリアスな『レザリオン』に比べれば作風も明るく、大作自身二枚目半として描かれていたため、そこまで唐突感はないはずなのですが、それでも寒い。
「ヒーローに道化を演じさせる」というのはこの時期の流行りでした。
しかしそこには正義と悪との戦いの相対化、という状況がありました。タイムボカンシリーズではそのため正義の味方が徹底的に道化とされたわけです。
また、島本和彦作品は実のところこの当時の作品の中では例外に属し、これらとは逆に、「現代においては正義が道化とならざるを得ない」切なさのようなものが、根底に流れていました。
そこを上のシーンは「あくまで正義のために戦っている、肯定的に描かれるべき主人公」に、「何か、流行りだから」という理由でギャグを演じさせ、しかしならば必要であるはずの「切なさ」も、そこでは描かれていない。竹に木を継いだだけであるために、「寒い」という印象しか与えないのです。
上にも書いたように『ゴレンジャー』では先進的ギャグを、また同時期に『宇宙刑事』で時代の先端を走っていた上原正三がことここでだけうまくいっていないのは何故か、わからないのですが、やはりそれは「アニメが若者文化」だから、なのでしょう。
上原にしてみれば普通に肯定されるべき正義の味方を描き、ただ、その後ちょっとギャグをつけ加えれば受けてくれるのかなと思っていたが、そうではない。オタク文化はそれまでの正義を根本から否定していたのです。一方、『宇宙刑事』は、オタクの間でも評価されていました(その中で描かれた正義をどこまで受け入れていたは措くとしても)が、それはやはり上原が媚びることなく自分の信念をぶつけていたからでしょう。
翻ってこれら作品はロートルなおっちゃんが一生懸命一生懸命若者に媚びようとして失敗、という感じなんですね。
――さて、ちょっとサブカル君のツイートに戻ってみましょう。
サブカルチャーは本来、「下位文化」ですが、「下位文化」であるが故にそこでヒエラルキーを作ってしまいがちです。だから彼らは「権威主義」なんですね。
しかし何も生み出せず、だからこそ権威に媚びへつらい続けるしかなかったサブカル君に対し、オタクは文化を生み出しました。
『マクロス』(82)は当時まだ二十代だったオタク世代による作で、『ガンダム』の数年後にはそうしたものが生まれていたわけです。
先のツイにも円谷だ何だとあるように、サブカルは「上の世代(の、左派的感覚)」を専ら称揚します。そして円谷作品も『ガンダム』もオタク文化の範疇に入りましょうが、上の世代の作ったものであり、オタク世代の純正作品ではない。
『マクロス』以降、言うならオタクがオタクによるコンテンツを持つようになった辺りから、サブカルはオタクを批判し始めるんですね。「権威」がありませんから。
つまり彼らは「上位者へのカウンター」という理念を掲げつつ実際には「上位者に平伏」しつつ「下位者を見下す」という残念な矛盾を、ずっとはらんできた。
一方、『アルベガス』は「上の世代がオタクに向けて作ろうとして、上手くいかなかった作品」、つまり失敗した『ガンダム』であり、オタク文化になれなかった『ガンダム』なのです。
何故なれなかったかというと――オタク文化には上に縷々書いた細かい細かい「文脈」、まあ「お約束」みたいなことがあったからで、そしてそれが生まれるには「正義の喪失」と言っても「価値相対主義」と言っても「ニヒリズム」と言っても「男性原理の失墜」と言ってもいいのですが、それなりの必然があった。
オタクは「上位者の依って立つイデオロギー」を無為だと知り、それを拒絶した(ここも詳しくは「山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義」を読んでください)。この当時のオタク文化は先代文化の否定(パロディ)という形でこそ、現れました。
そしてだからこそ皮肉にも、オタクはサブカル君が喉から手が出るほど欲っしていた「新たな表現」を、それも驚くべき高クオリティと呆れるべき量とをもって生み出すことができた。
しかしそれは、まさにサブカル側のイデオロギーを嘲笑し、無化するニヒリズムが本質であった。
もうちょっと経つとオタク文化は「萌え」として結実するのですが、それもまたイデオロギーの敗北からの、恋愛などの「個人主義」の肯定という面を持っていました。
一方、サブカル君は、依って立つイデオロギーによって自分たちで何かを生み出し、既存の社会にモノを申すことを欲していた存在だったが、しかしイデオロギーが終焉を迎えてしまったがため、何も生み出すことができなかった。
だからこそ、サブカル君にはオタクが(何しろオタク君には自分たちの政治の駒になってもらおうというのが、彼らの目論見でしたから)絶対に許せなかった。
そして『アルベガス』から四〇年。サブカル君は、いまだ「お前らよりも俺の方が、俺の方が」とつぶやきつつけているのです。
コメント
コメントを書く