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 まず、お報せから。
 今月十日、LGBT関連のイベントを予定しています。
 実はいまだ、準備ができてないんですが……。

●タイトル:しょ~と・ぴ~すの会「日本におけるLGBT(Q)問題理解のために」
●発言者 : 但馬オサム・兵頭新児・宙みつき(司会)由紀草一 
●日 時 : 令和5年9月10日(日) 午後2時~6時
●場 所 : ルノアール四谷店3階会議室A
      東京都新宿区四谷1-3-22 ℡.03-3351-1052
     四ツ谷駅四谷口より新道通りに入ってすぐ左手
●会 費 : 1,700円(当日徴収)
●連絡先:由紀草一 luna2156@mtf.biglobe.ne.jp
 詳しくは(https://funinifu2156.wixsite.com/shortpieace/blank-2)まで。
 皆さまのご参加をお待ちしております!

*     *     *

 さて、「弱者男性」論を続けましょう。
 動画において、ぼくは「昭和の弱者男性」たるダメおやじ、「令和の弱者男性」たるずんだもんを紹介しました。



 さて、しかし目下公開中の劇場版『クレヨンしんちゃん』もまた、弱者男性を扱った問題作であると話題となって(炎上して)います。
 そんなこんなで普段、観に行かない『クレしん』映画を観に行くことになりました。
 最初に自分の感想を書いておくと、なかなか楽しめた……というか、感嘆しながら観ました。
 では何故、ネットでは酷評が飛び交っているのか――まずは簡単に、プロットをご紹介しましょう。特にどんでん返しなどないので、オチまで全部書いてしまいます。

 宇宙から正義と悪のエネルギーが飛来、正義のエネルギーはしんのすけに、悪のエネルギーは今回のゲスト、非理谷充(ひりや・みつる)へと照射され、それぞれ正義と悪の超能力者になるというのが導入部。
 この非理谷充、もうネーミングだけで全てが理解できる、絵に描いた非リア充。ティッシュ配りのバイトをしているところをリーマンにいじめられ、また、唯一信じていたネットアイドル(?)が結婚したことに失意。超能力を得て、そのアイドルが配偶者であろう、ヤンエグっぽい茶髪といちゃついているところを見て、茶髪の外車を破壊します。
 そんな充はしんのすけの幼稚園の側を通りかかり、ふと吉永先生を目にし、彼女がアイドルに似ていたがため、幼稚園に上がり込み、籠城。
 しかし――何だか妙なのです。
 劇中登場する、充を失意させたアイドルはそもそも、(アニメなんだからそっくりに描けばいいのに)吉永先生とさほど似ているとは思えない。そして充は幼稚園に上がり込んでも吉永先生に言い寄るでもなく、ただ園児を人質にとって立て籠もるばかり。
 要するに目的がはっきりしない。吉永先生を間近で見て、アイドルとは違うと気づき、しかし今更後には引けず……ということなのかも知れませんが、そうした説明が一切、ないのです。
 こうした謎の説明不足はここに留まりません。まず冒頭、(まだ普通の青年に過ぎない)充は凶悪犯と誤認されて、警官に追われることになるのですが、追いつめられたところを悪のエネルギーが照射され、そこから暴走が始まる。ところがこの、「凶悪犯との誤認」というシークエンス自体、ここ以降、一切語られないのです!
 それと、これ以降の悪事を悪のエネルギーの仕業と解釈するならば、実は充は何も悪いことをしていないとも言えるんですね。
 純粋に物語作りが下手という気がしないでもないですが……いえ、ここでは別な解釈をとりましょう。
 というのもこれは、ぼくには「罠」であり、「批評」であると読めたからなのです。
 近年の「弱者男性」論は「弱者男性」を「非モテ」と読み替えることで成り立っています。クリッツァー師匠や藤田直哉師匠のそうした卑劣なトリックに、小山晃弘氏が怒りを表明していたのは記憶に新しいところです*1
 それら流れを鑑みると、ぼくにはこの作りは、藤田師匠たちのトリックに対し、「あ、非モテ問題はこの辺で」と華麗にスルーして見せたように見えたのです。
 そう、作り手は「あなた方、弱者男性というと非モテを持ち出すけど、その辺のこと、関係ねーし」とでも言いたげなのです。
 だからこそ、充は「(悪人と誤認されただけで)実は落ち度がない」と描写された。
 さらに言うと、充の執着していたアイドルは、何だか知らないけど充とプライベートで仲のよかったらしい(ツーショット写真などを多く撮っている)描写があり、ここで「商売でやっているアイドルに、狂った男が勘違いした愛情を抱き、ストーキングした」という世間の咀嚼しやすい解釈に歯止めをかけている。
 作り手は「充、悪くねーよ」と念押ししているように見えるのです。

*1 わかり手小山氏と藤田直哉氏の弱者男性を巡る議論「黒人については、それがいけないことだというコンセンサスがあるが“弱者男性”はそうではない」

わかり手小山氏と藤田直哉氏の弱者男性を巡る議論「黒人については、それがいけないことだというコンセンサスがあるが“弱者男性”はそうではない」


 ともあれ、しんのすけも超能力に開眼、充を撃退。そんな彼の前に超能力研究所的な組織の博士とお姉さんが現れ、以降、行動を共にします。
 一方、充もカルト的テロ組織に身を寄せることに。その組織は廃墟と化した遊園地をアジトにし(無残に老朽化した観覧車などはまさに、日本の凋落の象徴であると共に、大人になれなかったぼくたちのカリカチュアです)、まるで漫画喫茶のブースのように仕切られた部屋に恵まれない若者を集めています。ブース内は子供部屋風になっており、若者たちは引きこもったまま、ルサンチマンを精神エネルギーに変えて供給。
 そう、そのエネルギーによって政府を転覆するのが、このカルトの計画なのです。
 この廃墟と化した遊園地で、しんのすけが操るカンタムロボ(『クレしん』内におけるアニメのロボットを模したもので、彼の念力で動く)と、充が変化した(?)怪物との戦いが開始されます。
 しんのすけは怪物に呑み込まれ、その体内で「幼児期の充」と出会います。
 幼い日の充とテレビで『カンタムロボ』を観ながら意気投合。
 しかし充は(この精神世界内で)年をとっていき、幾度もいじめっ子にいじめられる描写が続きます。
 幼稚園児のままのしんのすけと既に中高生であろう充は、同様に中高生であろういじめっ子に立ち向かい、勝利します。
 ここで秘密兵器として登場するのが、(外界から父ちゃんの投げた)父ちゃんの靴下。
 父ちゃんの靴下はすごい匂いがする、というのはベタな下ネタのギャグであると同時に「家族のために働く父親」の象徴でもあり、『クレしん』映画の中でも名作と名高い『オトナ帝国』でも「家族の絆」の象徴として描かれています。
 本作はそれへのリスペクトとして、靴下を勝利の鍵としてみせたのです。

 確かに、映画としてはあまり整っていないかとは思います。
 まず、タイトルになっている「手巻き寿司」。
 これは本作では「家庭団欒」の象徴として描かれ、しんのすけ一家が手巻き寿司を楽しむ描写もあり、正義の博士もその相伴に預かりつつ、充もこうした温かな経験があれば悪には堕ちなかったかも知れない……とも言います。
 実のところ充の家庭は、両親が離婚しており、精神世界内でもその様子が描かれるのですが、それが(しんのすけを活躍させる都合でか)「いじめっ子とのバトル」へと話がすり替わってしまっているわけですね。
 また、ここで別れる両親が充と共に最後の晩餐として手巻き寿司を食べるというシーンが入るのですが、それじゃあ充にとっては手巻き寿司が嫌な思い出の象徴になっているんじゃないでしょうか。
 また、そこでしんのすけが充をいきなり「仲間」と呼び、我が身を省みず助けようとするのはいかにも唐突です。例えばですがぼくならば「冒頭の幼稚園でのバトルの時に、充お兄さんがカンタム好きであることを知って、しんのすけが彼のことを気に入っていた」とするでしょう。
 この種の「精神世界で幼児期のトラウマを再現し、そこを癒やす」というのは、よくあるパターンだと思うのですが、そこでセラピストの役割を担うしんのすけもまた、「現在の充(の、まだ悪ではない善なる部分)に触れて、彼のことを好きになったからこそ、助けてやろうとしたのだ」とすれば、きれいな円環になるのではと。
 また、最終兵器となる父ちゃんの靴下ですが、これもしんのすけと充が靴下を握りしめ、いじめっ子の顔面に押しつけて攻撃するというヘンな絵面。『オトナ帝国』をオマージュしようとして失敗、という感じがしないでもありません(これは丁度、『シン仮面ライダー』のラスボスとのどつきあいが、『クウガ』最終回の下手な真似に見えるのに近い……と言えるでしょうか)。

 その一方、幼稚園を占拠した充は子供たちの「しょうらいのゆめ」の絵を踏みにじり、「お前らに未来はない」と言っています。
 先の「子供部屋」を集めたかのようなカルトのアジトで、ボスも同様のことを語ります。「少子高齢化、エネルギーの奪いあい、社会保障の崩壊、この国に未来はない。ならば自分たちで破壊してしまおう」。この「少子高齢化」については本当にセリフとして出てきたか記憶にないのですが、YouTuberで言っていた人がいるので、恐らく言及されていたはず。
 つまり本作においては「弱者男性」の生じた原因としての、「日本のシビアな現状」が前提されているわけです。それはまるで、「男の自己責任だ」と泣き叫ぶ藤田師匠やクリッツァー師匠を、嘲笑うかのごとく。
 ただ、それに対して本作が誠実な回答を提示し得たかとなると、それは疑問です。確かに本作は「家庭(の崩壊)」、「日本の未来(の貧困)」、「弱者男性(の非モテ)」など、様々な密接したテーマを扱いながら、いずれもが上手くまとめられないまま、空中分解したかのような、そんな印象も持ちます。
 何よりネット界隈で糾弾されているのは、最後の最後、野原ひろしたちが充へと「がんばれ」の声援を繰り返すこと。
 つまりまず、野原ひろしはバブル期の勝ち組の象徴としてまずそこにおり、それが令和の若者にただ「がんばれ」と精神論をぶつけるのではどうしようもない、というわけです。
 もう一つ、本作の監督・脚本の大根仁は『モテキ』の映像化を手がけた人物。そんなことからも大根氏自身を非リアの敵と位置づけ、敵愾心を燃やすYouTuberなども目につきました。
 しかし、とは言え、そうは言っても、充の問題はしんのすけという「仲間」を得ることで一応の解決を見てもいるのです。
 本作を酷評したねとらぼの「こんな野原ひろしは見たくなかった 「しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE」のあまりに間違った社会的弱者への「がんばれ!」」によれば、野原ひろしは充に対し、「誰かを幸せにすれば自分も幸せになれるんだ。がんばれ!」と激励したと言います。
 評者は怒り狂っているのですが、これは(ぼく自身、不覚にも記憶から欠落させていたのですが)なかなかいいセリフなのではないでしょうか。
 充は今まで、誰からも認められることなく生きてきた。
 しかしながら、しんのすけによって認められることで、「闇落ち」から回復することができた。
 それならば、次は「誰かを幸せにする番」なのではないでしょうか。
 それはあの靴下の主である、野原ひろしの口から言わせる必要が、どうしてもあったのです。

 小山氏と左派論者たちの「弱者男性」論に戻りましょう。
 ここで問題とされたのは左派がことを「非モテ」論に矮小化していることであり、本作はそれへの見事な「論破」になっていると、先に述べました。
 ただ、幾度か指摘するように、ゼロ年代には「非モテ論壇」というものがちょっとだけ流行り、言うならそれこそがゼロ年代の弱者男性論である、といった捉え方は、そこまで外したものではないように思います。
 また、そもそも左派の主張も、単に彼らが教祖であるフェミ様の色眼鏡を通してしか弱者男性を見ていないから、という程度のことのようにぼくには思われるのですが、いや、それは彼らに対する過小評価であり、彼らがもっと深い計算の上で発言をしているとしたら、いかがでしょうか。
 つまり、確かに十年前までは弱者男性の抱える問題は「非モテ」であった。
 しかしこの十年で日本の衰退にはいよいよ拍車がかかり、もはやそれどころではない。弱者男性の抱える問題はまず職が、住が、食がないといったレベルのことになりつつある。
 しかし左派にしてみれば、それだけは認めるわけにはいかない。彼らには例えば「女性様」のような「真の弱者」に寄り添うことで利を得るルートができていますし、もし弱者男性を救おうとしたら、その利権を徹底的に破壊せねばならないことは自明です。
 つまり彼らは確信犯で、「見えない、見えない」と泣き叫びながら、現実を否定し続ける他ないのだと考えては、どうでしょうか。

 しかるに非理谷充はよりにもよって国民的コンテンツの中で、そうした「弱者男性」のリアルを暴き立ててしまった。
 今回、YouTuberでも本作を酷評し、「自民党推薦アニメではないか」などと評していた方がいました(政治関連ではなく普通の映画評をしている方です)。
 確かにその通りです。もし本作が共産推薦、民主推薦アニメであったなら、充はただ「死ね!」と罵られて終わったことでしょうから。
 左派によれば「弱者男性」とはただ単に、自らの下駄を履かされた境遇も理解できず、真の弱者である女性様に対してテロを企てるミソジニストのことでしかないのだから、開幕のアイドルに失意しているシーンで既に、充は徹底的に断罪されて話は終わっていたことでしょう。
 そのYouTuberは本作を「保守的な価値観に貫かれている」とも評していました。
 それもまた、その通りでしょう。本作で描かれたのは充を救うことができるのがホモソーシャル的な少年同士の友情であり、そして父ちゃんの靴下――温かな家庭、そしてそれを背負う男の覚悟であると明らかにしてしまったのですから。
 父ちゃんの「誰かを幸せにすれば自分も幸せになれるんだ。がんばれ!」というセリフは何のことはない、「結婚して嫁を養え」ということです。
 もし本作が「革新的な価値観に貫かれてい」たとしたら、「結婚を望むなどとはけしからぬ、結婚や経済的成功を幸福だと思うな」などと充を罵って終わっていたでしょう。
 そのYouTuberは「がんばれと言うべきは上の世代のおじさんたち、政治家たちだろう」とも言っていました。しかしそれは充が身を寄せたテロ組織のボスの発想ですよね。彼らは弱者男性による日本の転覆を企んでいたのですから。
 ところが充自身が怪物化して暴走を始めた時点でこのテロ組織のボスは命からがら逃げ出してきます。他にもアジトに大勢いたはずの弱者男性がどうなったかは描かれず、考えてみればここが一番、この映画の非道いところなのですが、それは措くとして何だか思い出さないでしょうか。
 そう、杉田俊介師匠は『男がつらい!』においてテロを礼賛、非モテに「インセルレフト(大爆笑)になれ」などと煽っていました*2。どう考えてもこのテロ組織のボスは杉田師匠がモデルだとしか思えないのです。

*2 風流間唯人の女災対策的読書・第39回『男がつらい!』



 もちろん、本作に酷評を与えた人はひろしの「誰かを幸せにすれば自分も幸せになれる」との言葉に、「その嫁を養うカネは、職はどっから湧いてくるのだ」と言いたかったことでしょう。
 それは確かにそうなのですが、左派は今まで弱者男性にただ「ミソジニスト」とのレッテルを貼り、自らの政治的野望の捨て駒にしようという、本作のテロ組織のボスのような振る舞いを続けて来ました。そこを、本作は「実は、アイドルとも仲よくしていたので、一方的に裏切られていたとの身勝手な妄想を抱いているとも言い難い」、「しかも女にばかりかまけているわけではなく、まずまともな職にもありつけないことが問題である」と弱者男性の真実を暴いてしまいました。(確かに悪役ではあるが、同時に)純然たる被害者である充に、思わず声援を送らずにおれないような作りにしてしまったのです。
 今回、「頑張れとは何ごと」と憤った人たちの中で、左派的なスタンスに立っている人たちへは、その声がブーメランとなって自分へと跳ね返ってくる仕掛けが、この映画は施されていた。
 そう、藤田、クリッツァー、杉田各師匠を斬首する目的を持って、この映画は最初から、作られていたのです。