相変わらず「男性学」関連の再録(2015/07/24分)なのですが、今回のはちょっと面白いです。
よく言うように以前、「男性学」云々と言われていたのはバブル(のちょっと後)の頃。この頃の男性学の旗手たちの芸風は、「会社人間である男を嘲笑する」という卑しいものでありました。
「男性学が、以前より無価値なものであったこと」。
「男性学は、男たちがどれだけ変わろうとアップデートの覚束ないゾンビであること」。
それらが本稿によって明らかになろうかと思います。
* * *
以前もちょっと採り挙以前もちょっと採り挙げたことがあるのですが、二十年近く前に出た、『この本は怪しい!』というムック本があります。要は『トンデモ本の世界』が当たったので映画秘宝編集部が出したパチモン、という感じです。
が、『トンデモ――』が比較的オカルト本の批判に寄っていたのに対し、『この本は――』は、「昔の本」を引っ張り出してくる傾向が大でした。要するにあんまりクレームのつかない相手を選んでレビューの対象にしていたわけで、どこぞのブロガーさんにも「見習った方がいいよ」と進言して差し上げたいところです。
さてその「昔の本」ですが、例えば「古いエロ本を採り挙げ、その今となっては失笑物のセンスを笑う」とかもあるのですが、見ていくとマドンナ旋風や村山内閣当時の気を吐いていた頃の社会党の本、70年代の学生運動の空気の中で書かれたクーデター待望論など、かつての政治思想を笑い飛ばすものが多い印象でした。いえ、中には警察本を笑い飛ばす左派っぽいレビューもあるのですが。
今回、当ブログで採り上げるのは『現代のエスプリ』別冊、『男性受難時代』。
うわあ、『現代のエスプリ』って知ってます?
個人的には、すごく懐かしい響きです(実は近年まで発行されていたと知り、二度びっくりしました)。やはりフェミニズムのみならず、二十年ほど前は社会学というか人文系の知識を振り回すことに、それなりのご威光があったことの一つの証明かも知れません。当時は『現代思想』の出版社も『Imago』という心理学系の雑誌を出したりしていましたし。てか、『現代思想』ってまだ出てんの? 最近は『ユリイカ』が泣きながらオタク文化の後追いをやってるだけ、という印象ですが。
閑話休題。
とにかく、本書の出版は1992年。
今回これを引っ張り出してきたのは、まさに『この本は怪しい!』方式で古い本を採り挙げ、当時の「メンズリブ」「男性学」界隈の空気感を、今一度思い出してみたいからです。
まずページを開くと
女性からの相次ぐ異議申し立てや「元気印」の女性パワーの台頭の前に、どの世代の男性たちもすっかり押され気味である。「たくましい女性」と「さえない男性」という図式が定着し、時にそれは“男性受難時代”とも言うべき様相すら見せることがある。
といったリード文(?)。
アニメにすら非モテ女性が登場する昨今からすると、まさに隔世の感です。
メイン企画は「男性受難時代を生きる」という座談会。本書の編者である市川孝一師匠を司会に、定年夫を「産業廃棄物」と呼んだことで著名な樋口恵子師匠、『広告批評』の天野祐吉師匠が参加しています。
見出しには「今や男性は自業自得」「男は女らしく、女は男らしく」「アッシー君とツナグ君」、「女性は三高を望み、男性は三低を求める」といったフレーズが立ち並んでいますが……「アッシー君」って言葉、知ってます?
同書の「男を使い分ける時代!?」*1との記事でも詳述されているのですが、要するに当時盛んに喧伝された、「足代わりになってくれる男の子」。つまり「本命の彼氏とデートした帰りアッシー君に電話をすると、単なる無料タクシーとしての役割を果たすためだけに高級車に乗って迎えに来てくれる」のです。他にもプレゼントをするだけの、「ミツグ君」、あくまで滑り止めの「キープ君」、単にメシをたかる相手、「メッシー君」、ただの便利屋「ベンリー君」など、女は何人もの男の子を使い分けていたのです。週刊誌や女性誌に盛んに書かれていたので、当時は本当にそうであったことは、疑う余地がありません。
ちなみに上の「ツナグ君」、ぼくは当時から全く聞いたことがなかったのですが、AV機器のコードつなぎ係だそうです。女ってそんなこともできないのか……と思いつつ記事を読むと、天野師匠は「これも女の人のせいではなくて、まさに社会の空気そのものが、女の子とパソコンの間に壁を作っている。」女の子がファミコンをやらないのも「親が誘導しているとしか思えない。」と主張。なるほど、全ては男社会の陰謀なのですから、ツナグ君は女性様のために滅私奉公をして当たり前ですな! いえ、繰り返すように、本書以外では見たことのない言葉ではありますが。
「三高」も今となっては懐かしい言葉で、要は女性が結婚相手に「高身長高収入高学歴」を望む傾向を指した言葉です。「男は三低を求める」とあるのはそうした通念に対し「どっちもどっちだ」との反論を試みたものであり、この種の主張は女性の「保守性」を誤魔化すために繰り返しなされますが、当たっていません。結婚相談所の板本洋子氏によると、なかなか結婚できない男性ほど、「結婚すれば家事もやります」とアピールする割合が多く、また、家事をやる男性だからといって、結婚しようとする女性もまずいないそうなんですね。
以降の記事を見ていくと「男はなぜ結婚できないか」「女はなぜ結婚しないか」「男性結婚難時代」「結婚しない女たちの素顔」などといったタイトルが続きます。
何というか、ため息が漏れますね。ちなみにこの「男はなぜ結婚できないか」と言う記事を執筆したのは先に挙げた結婚相談所の板本氏。記事の中では「家父長制から抜け出した女たち/そうした古い価値観に縛られ続ける男たち」といった描写がなされていますが、先のご当人自身の指摘を鑑みるに、実態はその逆だったわけです。
先の座談会に戻ると、「パンツ論争の総括」といった見出しも見られます。当時のフェミニズムの論調は、「男たちが女に家事を強いている」ことを糾弾する、というモノが多く、そのため「男性学」界隈では「我こそはススンだ男性なり」とドヤ顔のオッサンが得意の絶頂で家事をする姿がやたらと目立ちました。以前採り挙げた『男性学入門』もそうでしたよね。
事実、座談では樋口師匠が
女性の社会参加などというが、よく考えてみると、男だってちっとも社会参加していない。家庭の中をねぐらとして、仕事以外のことは全部、パンツの在り方から健康状態までみな妻に預けて、会社という一つの囲いの中でずっと生きてきて、本当に個人として社会に裸で晒されたことなどまったくない。
などと主張しています。「生活者」として自立している女、実は全然自立していない男、といった詭弁がこの頃のお約束でした。
ツナグ君(ボソ)。
もう一度記事に立ち返ると、後半には「おじさんはなぜダメか」「オヤジの秘密」などといったタイトルが並んでいます。「オヤジの秘密」は「女のコから見た」「女のコが社会に出て」「女のコにとって」と「自分が女のコである」ことを再三強調する梶原葉月師匠の、「会社のオヤジ」への罵倒集。ゴルフの話題ばかりでウザいの、着ている服がダサいのと、世にもどうでもいいことにいちいち文句をつける「お局様」なセンスに、いささか辟易とさせられます。お前ら、要は家庭でも会社でも、とにかく女であることを担保に男に文句を言えれば何でもええんかい、という感じですね。
先の座談会に戻ると「会社主義という障壁」といった見出しも見られ、市川師匠の発言からは「会社人間である男への疑問」が、まず本書を編むモチベーションになっているようなフシが見受けられます。考えればこの当時のフェミニスト信者たちには、「女性が進出してくることで、非人間的な会社社会が人間らしいものへと“解放”される」という、一種のメシア待望論が強固に信じられていたように思えます。
しかし先に挙げた樋口師匠、そして上野師匠たちフェミニストはこの当時、会社人間である男性たちに対して「粗大ゴミ」「産業廃棄物」「濡れ落ち葉」と酸鼻を極める凄惨な攻撃を繰り返しておりました。それを何をどう間違うことで、「フェミニスト様がボクたちを助けてくれる」などというあり得ない勘違いをすることができるのか、ぼくにはさっぱりわかりません。
*1 この記事は編者の市川師匠によるもので、文中で師匠のゼミの参加者である女子大生たちとの座談会が挟まれます。この頃、あらゆるメディアで女子大生なり女子高生なりOLなり匿名の女性を集めてはその声を拾うことが、ある種の神聖な儀式のごとく、飽きもせずに繰り返されていました。
今更確認するまでもありませんが、当時は均等法が施行されて数年、またバブルの残り香がまだまだ濃厚な時期でした。この時期は一般的な総合誌でもフェミニズム特集が組まれたりするフェミバブルであった、ということは幾度も指摘しているかと思います。
しかしこうして当時の記事を見ていくと、当時は「女の変化に戸惑う男」というフィクションにリアリティがあったのだなと感じずにはおれません。変化したのは社会の方であり、女性では全くなかったのですが。
これは最近時々指摘する、80年代SFに登場する「超越的な異邦人としての美少女」というモチーフと、全く同じです。そこからはまさに思春期まっただ中だったオタクたちの、「女性」というマレビトに対する憧憬が感じられました。
それと同様に本書から感じるのは、豊かさを実現したが故の「会社人間からの脱却」を志向する男たちの目に映った、「家庭」という未知の世界の「先住者」としての女性の姿であり、「会社社会へとやってきたマレビト」としての女性の姿。そうした女性たちへの過度で非現実な幻想です。
ひるがって幼年期を終えた現代のオタク文化は、「現実の、冴えない女の子の日常」を描くまでに、よくも悪くも成熟してしまいました。同様に現代の、ある種の「男女共同参画」を成し得たぼくたちは、女性への「信心」を失ってしまっています。
それは結局、彼女らが「日常生活の先輩としてぼくたちを導くメンター」にも「会社社会の革命者」にもなり得るだけのヴィジョンを提示できなかったからでしょう。
本書が繰り返し「アッシー君」「ツナグ君」を持ち出していることからも、また梶原師匠の記事からも見て取れるように、彼女らの「言説」は実は、彼女らの「女のコ」としての価値によって担保されていたものだったのです。事実、ぼくがこの「アッシー君」といった一連の流行語を知ったのは、フェミニストたちが深夜番組で大はしゃぎしながら紹介しているのを見て、のことでした。
本書には、全編に渡って印象的なイラストが挿入されます。お世辞にも上手とは言えない、言っては悪いですが女子中学生が描いたような稚拙さの、ただひたすら男をバカにする内容のイラストが延々延々と並んでいるのを見ていると、何だか胸焼けしそうになります。絵師さんの名前でググってもそれらしい人がヒットしませんし、正直プロとは思えないので、それこそ市川師匠がゼミの学生さんにでも描いてもらったのではないでしょうか。
■こういうのが延々並びます。
ぼくには何だか、この当時のフェミニズムそのものが、やはり同様に「若い女のコによって描かれた、稚拙だが可愛らしいイラスト」だったのではないかと思えてなりません。
しかしそんなイラストは、(当時の性を描くことで売れていった女流漫画家たちがおわコン化したように)既に萌え絵に取って代わられてしまった。
何度も例に出しますが、山下悦子氏は『女を幸せにしない「男女共同参画社会」』において、フェミニズムの敗北を「男性が結婚しなくなったからだ」としています。
そう、彼女らは最初から「AVギャル」だったのです。そして目先のあぶく銭を稼ぐため、「ご開帳」してしまった。学術用語で言うところの「くぱぁ」をしすぎた、そのために頼みであった「性的価値」すらも手放してしまったのです。
一方、ネットの世界ではやはり女性たちがエロ動画で「くぱぁ」しすぎ、またツイッターでもフェミニストたちが(脳を)「くぱぁ」しすぎているのでした。
終わり。