目下、『Daily WiLL Online』様で韓国大統領選についての記事を連載しております。
そろそろまた新記事が掲載される頃だと思うのですが、詳細未定。どうぞcheckをよろしくお願いします!
さて、というわけで今回(から数回に続けて)は書き下ろし。
去年の年末記事でも言っていた小山田圭吾、サブカル問題についてです。
基本、タイトルにある書のレビューという形を取りますが、読んでいくとサブカル君の悪辣さについてまた、新事実が浮かび上がってきました。
では、そういうことで……。
・いじめ人間ろまんま~ん♪
ロマン優光については、以前も『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』を採り挙げたことがあります。
要するに今までオタクを見下し、不当なバッシングの限りを続け、そのくせ自分たちは「オタクの兄貴分」であると思い込んでいると思しく、いざオタクが社会的成功を収めるといきなり自分こそがオタクであるかのような顔をして、その資産の簒奪を始めた――そうしたサブカル君というマウンティングの権化の悪行の無理筋な擁護がこれでもかと繰り返されているが、その主張は全て思い込みと論理破綻に満ちている……とまあ、そんな感じに評したかと思います。
本書もそれと同様のコア新書であり、タイトルが「サブカル当事者によるサブカル批判」を意図したかのように一見、思わせる点も共通しています。
目次をパラパラめくると「小山田圭吾のいじめ問題」などといった節タイトルが見え、件の騒動を鑑みてのサブカル側の言い訳本だな……と思ったら、出版は2019年の3月。つまり、小山田がオリンピックに関わったことをきっかけに、例の件が全国的に騒がれる以前のモノです。そう考えると「捕まる前に自首した」ようなもので、そこは立派だと言えなくもありません。
というのも以前にもお伝えしたように、オリンピック以降の炎上をきっかけにした、「小山田問題」についてのサブカル側の言い分は、本当に聞くに堪えない無残な自己正当化、エクストリームな詭弁で小山田を擁護するモノばかりでしたから。
では、本書における優光のスタンスは評価できるのかというと――。
まず、先に「サブカル」と繰り返しましたが、本書で批判対象になっているのは「鬼畜系」、「悪趣味系」ブームについて。
もっとも「サブカルチャー」ではなく、単に「サブカル」と称される場合、その範疇に入るのは多くがそうしたカテゴリのモノでした。具体的には、本書から適当に抜粋するなら「死体、殺人、犯罪、フリークス、薬物(14p)」といったところ。
そうした他愛ない「裏モノ」を得意げに振りかざし、「世の真理が見えているボク」というナイーブな自意識を拠りどころにするのがサブカル君であり、その頭の悪さをこそ、ぼくは何よりも軽蔑していました。
しかし優光は90年代当時の社会を象徴するものとして援助交際を採り挙げ、自分たちのやっていたことはそんな社会の欺瞞へのカウンターだったのだ、と言い張るのです。
少女売春は許さないという建前で援交少女たちを社会的に非難しながら、実際に買ってるのは社会的に地位があり金もある大人たち。
(30p)
わかりやすく言うと、こういった社会に対して「そんな風に建前を言っているけど、本当は汚い欲望でいっぱいじゃないか。世界はこんなに汚いもので溢れている。お前らが覆い隠そうとしているような人間だって自分の人生を生きている」という風な意義申し立ての側面があったのが、「鬼畜系」だったのです。
(31p)
もうここだけでサブカル――いえ、その上位概念である左翼思想のダメさの全てが現れているのではないでしょうか。
「援交少女たちを社会的に非難しながら、実際に買ってるのは社会的に地位があり金もある大人たち」と言われたって、非難している者の多くは買春なんかしてなかったでしょう。ことを雑に「大人/子供」の二元論に落とし込んで「大人はよくないと思いま~す」と言ってみせる左翼小児病こそが、ここには現れているわけです。そもそも当時の援交少女って社会的に非難されてたんですかね。いや、「いいこと」と持ち上げていたのは左派だけでしょうが、専ら少女だけを糾弾し、買う側を免責していた大人ってフェミを中心とした左派の脳内にしか存在しないんじゃないでしょうか。
そもそも(後にも述べますが)優光は当時のサブカル君が鬼畜AVなどを持ち上げてはしゃいでいたことを顧みて、自己批判しています。まあ、反省があるだけ結構ですがそれって要するに、サブカル君はその「援交している大人」の側にいたってことじゃないでしょうか。
もちろん、援交はあくまで一例です。しかし「社会に欺瞞が満ちている」は一般論としては正しいとして、「鬼畜系」とやらにそれを覆す気概があったのでしょうか。ただの悪ふざけを「世間へのカウンターでござい」とイキっていただけではないでしょうか。
人体破壊映画を世の真理を伝えるものであると勘違いしていた高橋ヨシキを見てもわかりますが、サブカル君は徹底して幼稚なマスターベーションに耽っていただけにもかかわらず、「事後」の「賢者タイム」に、おもむろにこうした空疎な理念を振りかざすことで何かを達成した気になっていたのです。
・いじめゴリラよこねりあーす♪
先にも挙げたように、本書では「小山田事件」についても扱われています。果たして、じゃあ、それも「欺瞞に満ちた世間へのカウンター」だったのでしょうか。
いえ、ここで優光はトンデモない裏技を繰り出してきます。
まず、問題になった小山田の振る舞いそのものが、「本書の主旨とは関係ない」とのモノスゴい理由で詳述されません。小山田の鬼畜性、悪趣味性が「本書の主旨とは関係ない」と言われては、もう本書に関係のある事柄など、この世には何一つないでしょう。
そんなわけで、まだ当時、ネットの一部で時々取り沙汰されているだけだった小山田の行状について、(ダウン症を嘲笑った点については避けることができなかったのか、書いていますが)読者は何も知らされないまま、本書を読み進めることになります。
もちろん、だからといって小山田を全肯定しているというわけではないのですが、優光の言い分は「本当のサブカルは一線を踏み越えない、こいつらは勘違いしている」といったもの。
そう、「ボクちんたちは世間の欺瞞をサブカルで相対化しようという高尚な意図を持ってまちたが、わけのわかってないバカが入ってきて安易なブームに堕しまちた~」というのが、本書を貫く優光の主張なのです。
しかし小山田の記事は『ロッキング・オン・ジャパン』や『クイック・ジャパン』に書かれたもの。サブカルの中でもかなりメジャーな雑誌です。これら雑誌ですら勘違いしていたということは、サブカル君のほとんどが勘違いしてた、という結論以外、あり得ないんじゃないでしょうか。
以前採り挙げた新書でも優光は「こいつはサブカルじゃない、こいつはサブカルじゃない」と尻尾切りにばかり奔走していましたが、本書においても同じ手口が使われているわけです。
これは、例えば「宮崎事件」の時になされた、オタクはみな幼女殺人鬼予備軍だ、といった言いがかりに対する「宮崎は俺たちとは違う」という主張とは全く異なります。オタクが愛好するのはコミックやアニメなどあくまで架空のものであり、事実(とされるもの)を嬉々として垂れ流していた『クイック・ジャパン』(や、その他のサブカル誌)とは本質的に違うのですから(ただ一方、この幼女殺人の犯人、宮崎勤はオタク向けの美少女コミック誌を読み、コミケにも出店しており、「宮崎はオタクではなかった」という言説もまた、無理があるでしょう)。
もう一つ、一応書いておきますとそうした「わかっていた鬼畜系」、「真の鬼畜系」もいるぞという具体例として、(という意図があるのだと思います、この人の文章はとにかく本人の意図がどうにも汲みづらいのですが)青山正明という人物が挙げられてはいます。
上品さと、無邪気さ。青山氏の育ちの良さと子供っぽい可愛らしさの表れであり、それは青山氏の美点ではあるのですけど、後の悲劇をもたらした原因となったのかも知れません。
(33p)
何かやたらと青山を持ち上げており、またぼくはこの人を知らんので、否定もできないですが、正直、本書を読んでも青山が他と違ってどれだけ素晴らしかったのかは、どうにも伝わってきません。本書、サブカル批判めいたテーマを掲げつつ、結局本文では言い訳が始まり、しかし自己正当化も適わず、「あの頃熱かったよな! 俺たち!!」との内輪誉め、回顧録に終始しているようにしか見えないんですね。
・いじめ天才あいだく~ん♪
一方、会田誠は批判的に書かれます。そう、オタク的な萌え絵を模倣し、美少女キャラを食べたり四肢を切断したりする胸糞イラストを芸術と称して掲げていたオッサンですね。
この御仁、ある雑誌で女子高生のトイレ覗きが趣味であると誇らしげに語っていたことがあるそうなのです。
優光はそれに対し、性犯罪を誇るなど考えられない、と憤ります。
アーティストとしてエキセントリックな自分を演出しようとしたのか? 本当にただ考えてなかったのか? どちらにしてもバカなんですが、会田氏の場合は後者のような気がします。ただ、伝わってくるのは、それが社会への挑戦みたいな大いなる覚悟を持って行った行為ではないんだろうなということです。
(136p)
いや、まあ、ご当人は「寺山修司みたいで格好いい」とか思ってたんじゃないでしょうか。どちらにしてもバカなんですが。
この優光の会田評は、もちろん全くの正論なのですが、しかしそれは同時にサブカル君全体にこそ当てはまるものなのではないかと、ぼくには思えます。
一応、実際に覗きをやっている会田の方が悪質とは言えるけれども、例えば死体写真を見て喜んでいる連中が、それとそこまで違うものでしょうか(その死体に生前、お前の死体を面白半分で晒し者にする、と合意を取っているのならば別ですが)。
以前にも近いことは書いていますが、そもそも左派には「社会への挑戦」といった理念があった。当初は「体制への挑戦」だったのでしょうが、社会が豊かになるにつれ、社会の中のマイノリティを担ぎ上げ、それを大衆へとぶつけるという戦略が定番化した。
しかしソ連が閉店したためか、社会がいよいよ豊かになったためか、昭和が終わる頃にはその理念は完全に欠落して、「何か、暴れ回る」という仕草だけが、捨てられることなく残った。
そこで暴力性を、弱い者へと向けざるを得なくなる。
それに「エキセントリックな自分」という拙いキャラづけをしてドヤっていたのがサブカル君で、そこには許より覚悟などなかった。
そこを、優光は会田をスケープゴートにして「しかし俺たちは高い意識があったのだ」と言い訳をしているわけですが、その「高い意識」が誰の持つどのようなものだったか、読んでいてもよくわからないのです。
・いじめマンガだねもとにゃー♪
終章となる第八章では漫画家の根本敬が丸々主題となっています。
根本は異端の者、社会の底辺にいる、おかしな人物についてレポートする漫画を描いていた人物です。
優光も根本については肯定的に述べたいご様子なのですが、その筆致はぼくの目からは、どこまでも苦し紛れなものに見えます。
現代の視点から見ると、根本氏の人権意識の低さに怒りを覚える人も多いでしょうが、あの時代は世間一般の人の方が、普通と違う人たちを露骨にバカにしたり、忌み嫌ったりしていたとも思うのです。(中略)やみくもに嫌ったり、腫れ物に触るように扱いながら都合のいい善なるイメージを押し付けるよりは、あるがままの姿で受け入れようとしていたということです。
(166p)
はい、どっかで聞いたリクツですね。
そう、小山田を「障害者と友だちになってやっていたからエラい、他のヤツらは障害者なんかスルーしているだけなのに」と強弁していた当時の『クイック・ジャパン』の編集者、北尾修一や赤田祐一と「完全に一致」しています。
また、ここでは徹底して根本の人権意識の低さを「当時は世間もそうだったのだ」と強弁していますが、根本のやっていたことは本人に許可もなく、弱者のプライバシーを晒し、嘲笑い、また猟奇殺人鬼の佐川一政を軽薄に採り挙げたり(この佐川、当時の「鬼畜ブーム」では引く手数多の「人気アイドル」でした)といったこと。
この、自分たちだけが異常なことをしていたのに、「当時はそういうことの許される土壌があった」と強弁するのが、本書を貫く優光の戦略です。まあ、彼の主観では「許されていた」のでしょうが。
驚いたことに上に続き、こんなことも言っています。
そういった社会的モラルと表現の関係というのは個々で判断するしかないと思っています。
(167p)
そりゃ全ては個々で判断するしかないわけで、こんな何も言っていないに等しいことを書かねばならぬほど、優光は刀折れ矢尽きているのです。
さらには根本の作風を以下のように形容します。
「でも、やるんだよ」というところにいるんですよ、あの人。それは、もうやるしかないということになってしまってるんだと思います。
(173p)
えぇと、何を言っているのかおわかりにならないかと思いますが、もちろんぼくにもわかりません。おそらく書いている優光も刀折れ矢尽き、わけがわからないまま筆を進めているんだと思います。
ただ、気持ちはわかります。
例えば、ロリコン犯罪者。
いえ、「ロリコン」という言葉は止め、真性の「ペドファイル」という言い方をしましょう。
幾度逮捕されようとも、実在の幼女への性犯罪を止められない人間。そうした人間も、世の中にはいます。
「でも、やるんだよ」というところにいるんですね、あの人たちは。
優光の評は、根本はそうした人間と同種だとの極めて鋭い指摘なのです。
そうした人間に対し、例えば親などならば上のようなリクツでもって擁護し、最後まで寄り添ってやるしかないのかも知れません。
が、優光は根本の親ではない。
むしろ、根本(という、ペドファイルのような病的な人間)に自己を重ねてしまっているというのが近いように思います。
本書に横溢する優光の、「自分たちを上っ面だけ真似た、わかっていないバカども」への憎悪は、例えるならば「真性ペドファイル」が単にアニメの美少女に萌えているだけの「(小学生の少女というキャラのファンだけれども、別に真性のペドファイルではない)萌えオタ」へ「軽々しく俺たちを真似しやがって」と憎悪の念を抱いているような、そんな心情なのではないでしょうか。
確かに本当に幼女でなければ欲情できない人物の苦しみというのは相当のものだろうと思いますが、憎悪をぶつけられた側も、「そんな異常者に恨まれる筋あいはない」としか言いようがないんじゃないでしょう。
優光は「一線を越えないのがサブカル」と繰り返しますが、ここへ至ってそれが「本物(或いは本物を知る自分)の特権意識に縋り、わかっていないミーハーを見下す」というものにすり替わっています。
しかしその「本物」は「本物の異常者」であり、決して許してはならぬような人物ばかり。
つまり、当初していた主張がいつの間にか「俺たち(の支持する根本は)は本物だから(こそ一線を越えてるけれど)赦して」に変わってしまっているのです。
これは「ホモという清浄にして神聖なマイノリティを理解する私」という自意識に陶酔し、小学生の少年をレイプするペドファイルを擁護する左派、フェミニストの振る舞いに、本当にそっくりです。
・いじめ鬼畜だなんにもない♪
本書の最後の節には「意識をアップデートしよう」というタイトルが冠せられています(大爆笑)。この、全体のまとめとも言うべき箇所を引用してみましょう。
90年代サブカルの問題点というのは、90年代の時代性が反映されている場合が多く、全般的な人権意識の低さ、メディアリテラシーのなさ、男尊女卑性といった部分はそこだと思っています。だからといってサブカル無罪というのではなく、今から見ればサブカル含め90年代のもの全部有罪になるでしょう。そこを踏まえながら個別のケースごとに検証していくことは必要ですが、過去の文化に対する糾弾や断罪は、あまり意味がないと思います。(中略)そんなのは、ある民族出身の殺人者がいたとして、その民族全体を彼の罪で裁こうとするのと変わりませんよ。
(186p)
またしても自分たちだけの罪を他人になすりつけ、「連帯責任だ」と泣き叫んでいます。
が、ここまでくればそれが拙い詐術であることはもう、おわかりでしょう。
――さて、しかしまだ、「小山田問題」と「根本敬」の関連性、それと「サブカル女子の言い訳」というテーマで語らねばならないので、もう少しおつきあいいただければ幸いです。
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