現在、『Daily WiLL Online』様で戸定梨香騒動について書かせていただいています。もっとも、この問題には「表現の自由クラスタ」が深くかかわっており、そうなると彼らののおかしさにも言及せざるを得ません。そんなわけで彼らに対しても少々辛辣な記事になりましたし、それは本稿も同様なのですが……。
怪人よくわからない博士とリベフェミスクール
さて、詳しくは前回記事を読んでいただきたいのですが、ツイッターでの議論をきっかけにしてこの忙しい折、またフェミ本と格闘せねばならなくなりました。
まず『女のからだ』から行きましょう。
が、タイトルを見ればわかるとおり、本書のテーマは妊娠だ、中絶だといったこと。
胎児殺害は女の権利だ、女の権利だと繰り返し、反対者は右翼なので悪だ、子供を大切にというお題目の裏には戦争に投入するためという真意が隠れているに決まっているのだ、そうじゃなきゃイヤだ、とお決まりの妄言をただひたすら書き並べているのみ。
例えば中絶手術は母体に危険で云々……といった主張でもあればまだしも頷けるのですが、それはゼロに近い。
以前、『WiLL』様の記事でお伝えした、青い芝の会(伊是名氏も影響を受けている障害者団体)について妙にこと細かに語られていること、ピル反対派らしく中ピ連について批判的なのは笑っちゃいましたが。
もっとも、5p辺りに「リベラルフェミニズム」についての記述もちゃんとあります。といってもそれはリベフェミは60年代に活躍し、法的、制度的な変革を求めた、その意味でラディカルフェミニズムとは対立的であった、というもの。つまりぼくの言っていることをそのまま裏書きするものであるわけです。
後は最後にちらっと以下のような記述も。
アメリカで主流のリベラル・フェミニズムは、男性優位の家父長制社会に対する批判には熱心だが、(中略)むしろそれらを積極的に利用することを通して、男女平等と女性の社会進出を促進してきたという性格が強い。
(229-230p)
なるほど、確かに「リベフェミが主流」といった記述が見て取れます(くどいですがこの点は次回に述べます)。
しかし、これは本当に副次的な記述であり、リベラルフェミについてこれ以上の情報はありません。
大変残念ですが、ツイッター議論における、「珍しく書籍がソースとして挙げられたものの、読むだけムダだった」事例がまた一つ増えたにすぎない、という感じです。
ラディフェミ恐怖学校へ入学せよ!!
さてもう一つ、『ザ・フェミニズム』に行きましょう。
先にも述べた通り、日本を代表する二大フェミニスト、上野千鶴子師匠と小倉千加子師匠の対談本なのですが、冒頭から延々延々、フェミ仲間へのグチを並べ立て、「あんなヤツはフェミニストじゃない」の何のと繰り返され、どっと読む気が減退。基本は行政寄りの、マスコミ寄りのフェミを持ち出しては叩いています。上野師匠、この時点で東大教授をやってたんだから、自分はどうなんだという感じなんですが。
小倉―だから、立候補するフェミニストと立候補しないフェミニストっていうのがいてですねえ、私は、立候補するっていう時点でフェミニストではない、とさえ思っていますよ。
上野―まあ、人種が違うかもしれませんね。
(26p)
もうこの時点で本書が学問上のフェミニズムの定義について述べる上で、根拠に使える本ではないことが明らかになってしまいました。だってこの理屈では田嶋陽子師匠もフェミニストではないことになる。当然、これは対談という本の中での(感情に任せた)暴論であり、まあ、言葉のアヤというヤツです。対談という本の性質を鑑みればわかることなのですが、そこを斟酌しなくていい、というのが平安氏の考えなのですね。
他にも田中真紀子や大阪の女性府知事の名を挙げ、「こんなヤツらが正解で活躍したところでフェミの勝利と言えるのか云々」と、固有名詞を「高市早苗」に入れ替えたら今回の総裁選への文句に使えそうな物言いが繰り返されます。もっとも、女性とは言え自民の保守的な政治家がフェミに好かれないのは、当たり前のことではありますが。
以降も(動画で述べたことなので簡単に済ませますが)主婦や女子大生たちが自分たちの思想に傾倒してくれないことへの嘆きが続きます。
「結婚しているフェミは結婚制度を擁護するフェミであり、セクシュアリティを語れない(小倉・大意・94p)」
「専業主婦を選択した上でフェミだと名乗るのは論理矛盾(上野・大意・113p)」
「結婚とフェミニズムは相容れない(上野・大意・132p)」
など、まさにフェミという感じの会話。
そろそろ本も終わろうという200pを超えた辺りで、ようやっと「リベラルフェミニズム」という言葉が出てきますが、これは前回にリンクを張ったツイに貼られた画像の辺りです(ただし、画像は文庫版と思しく、ソフトカバー版を元にしたぼくとではページ数は異なっています)。
ここは先に書いた通り、小倉師匠の「リベフェミは敗退し、ラディフェミが勝利した」との主張に対し、上野師匠が異を唱えるという内容。
しかし「リベフェミが体制の中に生き残った」という考えは両者が共有しており、要するにここでの小倉師匠の言い分は「思想としてはリベフェミは形骸化した」という(ぼくと同じで、まあ、客観的に見て妥当と思われる)もの。
ただ、「体制側に行った」というのは恐らく、乱暴に言えば田中真紀子ブーム的なものをも包括してのことであり、しかも上野師匠も東大教授であることを思うと、「ひがみ」であると同時に、その「ひがみ」の根拠すらもが薄い、当を得ない物言いという他はありません。
彼女らにとっては「夫婦別姓」推進派もリベフェミのようで、確かに「法改正による男女平等」を目指しているという点ではリベフェミ的とも言えますが、しかしこの「夫婦別姓」には明らかに家族解体、結婚解体の思想がある。となると、理念としてはラディフェミとも思える。
正直、「夫婦別姓」というのがどの辺りから出てきたのか(リベフェミとラディフェミ、どちらを出どころと考えるのが妥当か)はわからないのですが、「ラディフェミ」側のものではないか……とぼくには思える。
つまり、両師匠の「ラディ/リベフェミ定義」が今一、判然としないのです。
ただ、読み進めると両師匠はリベラルフェミニズムを「保守」だと言い募り、
小倉――(前略)したがって、リベラル・フェミニズムとラディカル・フェミニズムの違いは、保守か破壊か、となる。
(中略)
上野――保守が悪くて、破壊が正しいかということよりも、近代の枠組みを与件として認めるか、認めないかという違いです。
(211p)
などと言っています。
要するに、主婦や女子大生への嘆きと同様、そもそも結婚など解体すべきとの前提を持つ両師匠にとっては「夫婦別姓」など「まだぬるい」「過激さが足りぬ」という苛立ちを「リベフェミ」にぶつけていると言えるんですね。敢えて二人の主張から演繹するならば、「リベフェミとはぬるいフェミ」というのが定義であるようです。
さて、(動画を観た方にはもうおわかりのことなのですが)「では、厳密なリベラルフェミニズムの定義はいかなるものか?」という疑問への回答は次回へと取っておくとして、せっかくなのでもうちょっとだけ本書のレビューを続けましょう。
リベラル墓場 よみがえるフェミニストたち
さて、ここで朗報です。
朗報と言っても青識亜論とか表現の自由クラスタのみなさんに対する朗報です。
というのも、本書の後半になると、上野師匠が「援交」を肯定する発言をし出すのです。
え? どこが朗報だかわからない?
要するに上野師匠にとって「援交」は女子高生が自主的に、自律的にやっていることだから好ましいということなのです(念のために言っておきますが「自立」じゃなく「自律」です。自分をコントロールしてるってことですね)。
援交JKたちはボーイフレンドにはただでやらせている(必ずそうなのかは知りませんが、上野師匠にとってはそうなのです)。つまり「金を取るセックス/取らないセックス」を設定している。それは「家父長制の裏をかく」ことだから素晴らしいのです(もっとも、その一方では「裏をかいているだけで家父長制そのものを全否定していないという意味で、一種のリベフェミだ」とも言っており、もうこうなるとよくわかりませんが)。
師匠はまた、東電OL殺人事件の被害者も家父長制に挑んだ英雄のごとく称揚します。『女ぎらい』にもやはり同じ被害者をやたら持ち上げる箇所があるのですが、いや、彼女は男を、女であることを求めていた(言ってよければフェミニズムの犠牲者である)ただの哀れな女ではないでしょうか?
しかしです、これって以前にお伝えした牟田和恵師匠『実践するフェミニズム』の内容と「完全に一致」してはいないでしょうか?
青識亜論、白饅頭といった「真のオタクの味方」たちが絶賛するこの書においても、「売買春の否定は女性の自己決定の否定だ」、「一律に禁じるのは女性の自己決定を妨げる」とやたらに援交JKに対して肯定的でした。
そう、同様に援交JKを肯定する上野師匠こそ、性に寛容な、ぼくたちオタクの味方だったのです!!
上野―(前略)援交を実際にやっていた女の子の話を聞いたことがあるんですが、みごとな発言をしてました。男から金を取るのはなぜか。「金を払ってない間は、私はあなたのものではないよ」ということをはっきりさせるためだ、と。
(中略)
上野―配分ですよね。「私はあなたの所有物ではない」ことを思い知らせるために金を取るんだ、と彼女は言うんです。
(中略)
小倉―それなら、援交も別に悪いことではないじゃないですか。
(中略)
上野―援交の女の子は悪くない。けど援交男は悪い。援交そのものは気に入らん。
(231~232p)
え……?
ま……まあ、青識亜論や白饅頭が絶賛する牟田師匠の本もあそこまで援交を肯定しながら一方では
セクハラを生み出している背景と売買春とには、通底するものがあるのだ。
(194p)
と言っているし、まあ、何か知りませんが疑問を感じてはならんのですよ、きっと。
結局、宮台師匠の「援交JKage」は、「女子高生のケツに隠れての、大人という権威への投石」という他愛ない、学生運動のしょぼいしょぼい「最終回」でした。
宮台師匠がそうであるように、当時(というのは「パパ活」などではなく「援交」という言葉の流行った90年代ですが)援交JKを語るフェミニストの表情は、どこまでも欲情に潤みきっていました。
それはこの「援交」において、「オヤジ」という「買春」の主体がもう、哀れなまでに惨めな生物として描かれるコンセンサスがあったからでしょう。そう、フェミニストたちはJKに自己を投影し、「負のポルノ」を楽しんでいたのです。
町田ひらく先生の真性ペド漫画が女性に人気があるのもそれと同じ原因ですよね。彼が評価されるきっかけは「幼女が何だか妙に男に対して上から目線で宣いつつ股を開く」という漫画でした。
一方、小倉師匠はどういうわけかクィア理論に批判的。
クィアの手法は「パッシング」だからダメなのだそうです(216p)。
この「パッシング」、「マジョリティに紛れ込む」との意だそうで、トランスがよく言う「パス度(=世間に女に見られる度)」と同じ意味あいかと思います。即ち【Passing】ということですね。性的マイノリティたるもの、マジョリティとうまくつきあっていこうなどと思わず、この異性愛強制社会を変革せよ! というわけです。
しかし、動画では両師匠が「何故女子大生は革命戦士にならない」と嘆いている、と書きましたが、これこそ、「ホモども、オカマども、私たちのための革命戦士となれ!」と言っているのと変わらないのではないでしょうか。
(不思議なことに、上野師匠はこの小倉師匠の言い分には否定的です。ただ、考えると坂爪真吾師匠がやたらとクィアを叩いていたところを見ると、後に否定派に回ったんじゃ……と邪推もしてしまうのですが)
さらに小倉師匠、「新・専業志向(「夫は仕事と家事、妻は家事と趣味的仕事」という主婦像だそうです……)」は実現しないと主張し、
小倉―(前略)だから私は、どんどん女性偏差値を上げてリッチな男をゲットせよ、と学生にそそのかしてます。
(234p)
と言います。この「だから」がつながってないとお思いでしょうが、これは「女に高望みさせて婚期を逃させよう」と言っているのです!
革命戦士どころではない。「戦線に人間爆弾として投入するのだ」との宣言をいただきました。
フェミはまさに、悪魔なのです。
……というわけで、本筋からは逸れましたが、二冊のフェミ本の簡単なレビューを済ませました。
次回は感動の最終回、「リベラルフェミニズム」の真実がいよいよ明らかになります!