『ワンピース』はかなりえげつない作品みたいですね。 今時珍しいとも言えるし、だからこそ売れているとも言えるのでしょうか。 ただ、これも(本書の用語を援用すれば)「男性向けジェップス」なんですよ。 本書の著者の誤りは「ジェップスは女性向けの作品である」というポストが赤いくらいに自明なことに首をひねっていることですが、同様に久米師匠は『ワンピース』を男性向けと認められずに陰謀論に走ってしまっている。それは丁度、ポルノの作り手、或いは出演者の女性の存在を理解することができず、「男性に騙されているのだ」と解釈してしまうフェミニストといっしょです。 その意味で、『ワンピース』にせよ『巨人の星』にせよ「道徳的に問題」、「教育に悪い」という設問を立てることは(ぼくがそう思うかは置くとして)可能ですが、やはり「男性を貶めている」というのは違うんじゃないかと思います。 >近年でも物語(否、言説のレベル)の中にはいくらでもヒーローはいるとは思いますよ。ただ、それが女性向けに特化したヒーロー(チンポ騎士)というだけの話です。 言説のレベルのヒーローとなるともう、東浩紀とか宇野常寛とかしか思いつきません。しかしまさにおっしゃるチンポ騎士でしかないわけで、「オトコスキー」な価値観を提示する人たちではないでしょう。 >リアル社会には女性にモテる男(リア充)がフツーに存在しており、彼らのようなモテ男には世界がオトコスキーに溢れて見えているんじゃないでしょうか? 上の仮定を前提すると、そうした人たちも「オトコスキー」な価値観を享受できているわけでは、ないのではと思います。 これも抽象的な物言いになりますが、社会が右肩上がりであった時は、彼らはオトコスキー度100であった。中間層も70くらいは享受できていた。 しかし今は少ないオトコスキーを彼らが独占し、50ほどを享受し、我々は10くらいになってしまっている……。 数字は適当ですが、いつものように非現実的な数字を出さないのは(ヤツらは一億独占しているが、我々は1だ、とか言わないのは)、「オトコスキー格差の偏在」よりは「社会全体の男性価値の低落」の方が顕著だと思うからです。 >まずは現在の高騰し過ぎた女性性の価値を無効化するためにリプロダクションの権利を平等にするところから始めたらどうでしょうか? とおっしゃっていますが、そう考える前提として、「女性性の価値が高騰しすぎている」とお考えのわけで、それは「男性性の価値の急落」という考えを導入しないと説明できないわけです。 (もっとも、「女性性」の価値の高さは歴然ですが、「女性」そのものはそこまで幸福そうなわけでもありません。しかしこれって「オトコスキー」がないからだ、と思います) 前に「キモカネおっさん」という用語に対してぼくは、「おっさんはフェミによって無理からに(カネを奪われたのは自明だが、さらに)キモくされたのだ」と主張しました。 こうしたことはなかなか説明困難ですが、例えば「キレンジャー」が戦隊にいなくなったこと、かつては「キレンジャー」そのものが主役のドラマが作られていたことなど(例えば『どっこい大作』)を、例に挙げたかと思います。 ぼく自身、偉そうに言えるほど知識があるわけでも、それを開陳して説明できるだけの表現力があるわけでもないのですが、ひと昔前には、今となっては思い出すことが困難なほどに、しかし空気のように「オトコスキー」が溢れていた、わけなのです。
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兵頭新児の女災対策的随想
(著者)
『ワンピース』はかなりえげつない作品みたいですね。
今時珍しいとも言えるし、だからこそ売れているとも言えるのでしょうか。
ただ、これも(本書の用語を援用すれば)「男性向けジェップス」なんですよ。
本書の著者の誤りは「ジェップスは女性向けの作品である」というポストが赤いくらいに自明なことに首をひねっていることですが、同様に久米師匠は『ワンピース』を男性向けと認められずに陰謀論に走ってしまっている。それは丁度、ポルノの作り手、或いは出演者の女性の存在を理解することができず、「男性に騙されているのだ」と解釈してしまうフェミニストといっしょです。
その意味で、『ワンピース』にせよ『巨人の星』にせよ「道徳的に問題」、「教育に悪い」という設問を立てることは(ぼくがそう思うかは置くとして)可能ですが、やはり「男性を貶めている」というのは違うんじゃないかと思います。
>近年でも物語(否、言説のレベル)の中にはいくらでもヒーローはいるとは思いますよ。ただ、それが女性向けに特化したヒーロー(チンポ騎士)というだけの話です。
言説のレベルのヒーローとなるともう、東浩紀とか宇野常寛とかしか思いつきません。しかしまさにおっしゃるチンポ騎士でしかないわけで、「オトコスキー」な価値観を提示する人たちではないでしょう。
>リアル社会には女性にモテる男(リア充)がフツーに存在しており、彼らのようなモテ男には世界がオトコスキーに溢れて見えているんじゃないでしょうか?
上の仮定を前提すると、そうした人たちも「オトコスキー」な価値観を享受できているわけでは、ないのではと思います。
これも抽象的な物言いになりますが、社会が右肩上がりであった時は、彼らはオトコスキー度100であった。中間層も70くらいは享受できていた。
しかし今は少ないオトコスキーを彼らが独占し、50ほどを享受し、我々は10くらいになってしまっている……。
数字は適当ですが、いつものように非現実的な数字を出さないのは(ヤツらは一億独占しているが、我々は1だ、とか言わないのは)、「オトコスキー格差の偏在」よりは「社会全体の男性価値の低落」の方が顕著だと思うからです。
>まずは現在の高騰し過ぎた女性性の価値を無効化するためにリプロダクションの権利を平等にするところから始めたらどうでしょうか?
とおっしゃっていますが、そう考える前提として、「女性性の価値が高騰しすぎている」とお考えのわけで、それは「男性性の価値の急落」という考えを導入しないと説明できないわけです。
(もっとも、「女性性」の価値の高さは歴然ですが、「女性」そのものはそこまで幸福そうなわけでもありません。しかしこれって「オトコスキー」がないからだ、と思います)
前に「キモカネおっさん」という用語に対してぼくは、「おっさんはフェミによって無理からに(カネを奪われたのは自明だが、さらに)キモくされたのだ」と主張しました。
こうしたことはなかなか説明困難ですが、例えば「キレンジャー」が戦隊にいなくなったこと、かつては「キレンジャー」そのものが主役のドラマが作られていたことなど(例えば『どっこい大作』)を、例に挙げたかと思います。
ぼく自身、偉そうに言えるほど知識があるわけでも、それを開陳して説明できるだけの表現力があるわけでもないのですが、ひと昔前には、今となっては思い出すことが困難なほどに、しかし空気のように「オトコスキー」が溢れていた、わけなのです。