続き楽しみにしておりました! >師匠の『ワンピース』への憎悪はものすごく(戦闘員であっても女性は守られ続けるという図式が露骨だそうで、それに憤るのはわかるのですが)、 確かにワンピースはフェミニズム的な作品ですね。 仲間に危険を及ぼす敵であろうと相手が女性の場合は絶対に手を上げず、「女の嘘は許すのが男」「女の涙は疑わない」などフェミニズム的な発言をする男性キャラがレギュラーで登場するんですが、これはいくらなんでもやり過ぎでしょう! 表現の自由を害さない程度にフェミニズム的なシーンのみを削除、もしくはゾーニングしていくべき作品だと思います(前回も言ったように作品そのものを撲滅すべきだという久米さんのスタンスには反対です)。 このようなフェミニズム的な悪書が全世界累計発行部数4億3000万部を突破しているなんて、まさに本物の悪魔ですら震え上がるであろう吐き気を催すほどの邪悪な「何か」です(逆に言うと、フェミニズムが世界最強の思想であることの証左だと言えます)。 ワンピースはレディースコミックや乙女ゲーにテイストが近い(作風が非常に平成ライダーに酷似している点は実に示唆的です)。 巨人の星にいたっては星一徹の息子に対する扱いは完全に少年虐待(例・激しい体罰、ボールにガソリンをかけて火をつけるetc)であり、父親差別がどうこうなんて言う次元の話ではありません。ワンピースと同様で図書館や一般的な書店に置いていい代物ではないでしょう。 手塚治虫は典型的なオタクを見下すサブカルでしたからオタクdisり作品が非常に多かったイメージがあります。 例えば、手塚治虫による『やけっぱちのマリア』『アポロの歌』『ふしぎなメルモ』などの性教育漫画は偏ってるなあと言いますか、女災を隠蔽して男性のみを悪く描いた作品です。 手塚治虫による『やけっぱちのマリア』は1960年代末から1970年代にかけて巨匠・永井豪による傑作『ハレンチ学園』が社会現象となったのがきっかけでエロ・グロ・ナンセンス漫画ブームが到来した時期に連載された作品なんですが、本作はエロを売りにした商業主義漫画を風刺する作品となっており、当時のオタクを見下すような手塚治虫らしさが溢れた駄作でした。 『アポロの歌』なんかは母親に虐待されて育った非モテの主人公をひたすら悪者にして罵るだけの男性ヘイトを含有した作品でして、主人公の夢の中で女神像が愛を呪った罰を受けなければならないと、非モテの主人公に「女性を愛するが、結ばれる前に自分か相手が死んでしまう」という悲劇的な運命を永遠に体験し続けることを強要するのです! 本作はひたすら『女性=善(男が守って当たり前)』、『男性=悪(男らしくない非モテは生きている価値がない)』というメッセージを発信するゲロ以下の臭いがプンプンする手塚治虫大先生によって紡がれたフェミニズム的名作です。 手塚治虫作品は本来ならば全面的に規制したいところですが、さすがにそれは無理でしょうから最低限ゾーニングするくらいの配慮は欲しいですね。 宮崎駿作品に関してはどうでしょうね? 個人的にはわりと好きなのもあるんですが……。 >本書の分析の全てが無意味だとは全く思いません。しかしそれを実りあるものにするならば、近年の物語(否、言説のレベル)において「ヒーロー」が不在になっていることをこそ、問題とすべきなのです 近年でも物語(否、言説のレベル)の中にはいくらでもヒーローはいるとは思いますよ。ただ、それが女性向けに特化したヒーロー(チンポ騎士)というだけの話です。 今の世の中は前回も言ったように弱者男性を悪者にすることで成り立っているので兵頭さんの「ミサンドリーがあってもいい。しかしオトコスキーがないことが問題だ」という主張はシュレディンガー的と言いますか、抽象的と言いますか……正直あまり根本的な解決にはなっていないような気がします。 リアル社会には女性にモテる男(リア充)がフツーに存在しており、彼らのようなモテ男には世界がオトコスキーに溢れて見えているんじゃないでしょうか? そして彼らのプレミア的価値を高めるために今日も使い捨てにされるためだけにリアルという名のクソゲーをプレイさせられるわけですが、全くもって攻略できる見込みのない弱者男性は永久にガラスの地下室で生きていくしかない状況な訳です。この現状を打破するための明確なビジョンを私も持っている訳ではないですが、まずは現在の高騰し過ぎた女性性の価値を無効化するためにリプロダクションの権利を平等にするところから始めたらどうでしょうか? 「リプロダクションの権利を平等にしたところで我々が非モテであることに変わりはない!」という主張は尤もなんですが、少なくとも今よりはマシになるんじゃないでしょうか? 正直、ミサンドリーが普遍的な世界でオトコスキーになるようなプロパガンダを流布したところで我々が非モテであることに変わりはありません。それならば、いっそマスキュリズムを部分的に肯定し、共同親権を実現し、リプロダクションの権利も平等にした方が可能性があると思います(無論、長い道のりになることは間違いないでしょうけれど……)。 ガラスの地下室からの完全脱出は難しいとは思いますが、そこからの脱出を可能にするカギを握った存在こそ我々オタクなのです。そのためにもアカデミズムの力を多少利用するのも悪くないと思います。 いずれにせよ何かしらの後ろ盾がなければ、非モテの地位向上は不可能でしょうし、現在のフェミニズムによる蛮行を防ぐことも不可能です。これは安全保障の問題と一緒で男女のパワーバランスを維持するためには男性側も何かしらの力を持たなければいけない訳です。例えるならナチスドイツの成立を平和会談では防止できなかったように、政治思想の葛藤を放棄しない相手には、軍事的な圧力や威嚇が最も有効的であるという現実とパラレルな訳ですね。 ミサンドリーが溢れる社会で女性のワルモノ性を説いたところでほとんどの人間は耳を傾けることはないでしょう。だからこそ、最終的には権威に縋るしかありません。 togetterにまとめられていた「フェミニズムを拗らせた結果、レイプものや売春もの等しか受け付けなくなった人達(と、百合しか受け付けなくなった人達)」というのを何年か前に読んだとき思ったんですが、私や兵頭さんのように金、権力、外見以外のもので男女が恋愛するのを不可能だと悟った人間が増加しているみたいですね。 もはや歴史、伝統、文化、宗教、国家、家庭、血は全く関係ない。男女が恋愛するには金、権力、外見が必須という身もふたもない現実がある訳です! ならば、我々はフェミニズムを滅ぼせるだけの核兵器を持つしか生きる方法はありません……。 そのために兵頭さんの女災理論に新兵器の追加や弱点の克服といったロボアニメによくある感じのパワーアップが必要な時期に迫ってるんじゃないでしょうか。
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兵頭新児の女災対策的随想
(ID:63064431)
続き楽しみにしておりました!
>師匠の『ワンピース』への憎悪はものすごく(戦闘員であっても女性は守られ続けるという図式が露骨だそうで、それに憤るのはわかるのですが)、
確かにワンピースはフェミニズム的な作品ですね。
仲間に危険を及ぼす敵であろうと相手が女性の場合は絶対に手を上げず、「女の嘘は許すのが男」「女の涙は疑わない」などフェミニズム的な発言をする男性キャラがレギュラーで登場するんですが、これはいくらなんでもやり過ぎでしょう!
表現の自由を害さない程度にフェミニズム的なシーンのみを削除、もしくはゾーニングしていくべき作品だと思います(前回も言ったように作品そのものを撲滅すべきだという久米さんのスタンスには反対です)。
このようなフェミニズム的な悪書が全世界累計発行部数4億3000万部を突破しているなんて、まさに本物の悪魔ですら震え上がるであろう吐き気を催すほどの邪悪な「何か」です(逆に言うと、フェミニズムが世界最強の思想であることの証左だと言えます)。
ワンピースはレディースコミックや乙女ゲーにテイストが近い(作風が非常に平成ライダーに酷似している点は実に示唆的です)。
巨人の星にいたっては星一徹の息子に対する扱いは完全に少年虐待(例・激しい体罰、ボールにガソリンをかけて火をつけるetc)であり、父親差別がどうこうなんて言う次元の話ではありません。ワンピースと同様で図書館や一般的な書店に置いていい代物ではないでしょう。
手塚治虫は典型的なオタクを見下すサブカルでしたからオタクdisり作品が非常に多かったイメージがあります。
例えば、手塚治虫による『やけっぱちのマリア』『アポロの歌』『ふしぎなメルモ』などの性教育漫画は偏ってるなあと言いますか、女災を隠蔽して男性のみを悪く描いた作品です。
手塚治虫による『やけっぱちのマリア』は1960年代末から1970年代にかけて巨匠・永井豪による傑作『ハレンチ学園』が社会現象となったのがきっかけでエロ・グロ・ナンセンス漫画ブームが到来した時期に連載された作品なんですが、本作はエロを売りにした商業主義漫画を風刺する作品となっており、当時のオタクを見下すような手塚治虫らしさが溢れた駄作でした。
『アポロの歌』なんかは母親に虐待されて育った非モテの主人公をひたすら悪者にして罵るだけの男性ヘイトを含有した作品でして、主人公の夢の中で女神像が愛を呪った罰を受けなければならないと、非モテの主人公に「女性を愛するが、結ばれる前に自分か相手が死んでしまう」という悲劇的な運命を永遠に体験し続けることを強要するのです! 本作はひたすら『女性=善(男が守って当たり前)』、『男性=悪(男らしくない非モテは生きている価値がない)』というメッセージを発信するゲロ以下の臭いがプンプンする手塚治虫大先生によって紡がれたフェミニズム的名作です。
手塚治虫作品は本来ならば全面的に規制したいところですが、さすがにそれは無理でしょうから最低限ゾーニングするくらいの配慮は欲しいですね。
宮崎駿作品に関してはどうでしょうね?
個人的にはわりと好きなのもあるんですが……。
>本書の分析の全てが無意味だとは全く思いません。しかしそれを実りあるものにするならば、近年の物語(否、言説のレベル)において「ヒーロー」が不在になっていることをこそ、問題とすべきなのです
近年でも物語(否、言説のレベル)の中にはいくらでもヒーローはいるとは思いますよ。ただ、それが女性向けに特化したヒーロー(チンポ騎士)というだけの話です。
今の世の中は前回も言ったように弱者男性を悪者にすることで成り立っているので兵頭さんの「ミサンドリーがあってもいい。しかしオトコスキーがないことが問題だ」という主張はシュレディンガー的と言いますか、抽象的と言いますか……正直あまり根本的な解決にはなっていないような気がします。
リアル社会には女性にモテる男(リア充)がフツーに存在しており、彼らのようなモテ男には世界がオトコスキーに溢れて見えているんじゃないでしょうか?
そして彼らのプレミア的価値を高めるために今日も使い捨てにされるためだけにリアルという名のクソゲーをプレイさせられるわけですが、全くもって攻略できる見込みのない弱者男性は永久にガラスの地下室で生きていくしかない状況な訳です。この現状を打破するための明確なビジョンを私も持っている訳ではないですが、まずは現在の高騰し過ぎた女性性の価値を無効化するためにリプロダクションの権利を平等にするところから始めたらどうでしょうか?
「リプロダクションの権利を平等にしたところで我々が非モテであることに変わりはない!」という主張は尤もなんですが、少なくとも今よりはマシになるんじゃないでしょうか?
正直、ミサンドリーが普遍的な世界でオトコスキーになるようなプロパガンダを流布したところで我々が非モテであることに変わりはありません。それならば、いっそマスキュリズムを部分的に肯定し、共同親権を実現し、リプロダクションの権利も平等にした方が可能性があると思います(無論、長い道のりになることは間違いないでしょうけれど……)。
ガラスの地下室からの完全脱出は難しいとは思いますが、そこからの脱出を可能にするカギを握った存在こそ我々オタクなのです。そのためにもアカデミズムの力を多少利用するのも悪くないと思います。
いずれにせよ何かしらの後ろ盾がなければ、非モテの地位向上は不可能でしょうし、現在のフェミニズムによる蛮行を防ぐことも不可能です。これは安全保障の問題と一緒で男女のパワーバランスを維持するためには男性側も何かしらの力を持たなければいけない訳です。例えるならナチスドイツの成立を平和会談では防止できなかったように、政治思想の葛藤を放棄しない相手には、軍事的な圧力や威嚇が最も有効的であるという現実とパラレルな訳ですね。
ミサンドリーが溢れる社会で女性のワルモノ性を説いたところでほとんどの人間は耳を傾けることはないでしょう。だからこそ、最終的には権威に縋るしかありません。
togetterにまとめられていた「フェミニズムを拗らせた結果、レイプものや売春もの等しか受け付けなくなった人達(と、百合しか受け付けなくなった人達)」というのを何年か前に読んだとき思ったんですが、私や兵頭さんのように金、権力、外見以外のもので男女が恋愛するのを不可能だと悟った人間が増加しているみたいですね。
もはや歴史、伝統、文化、宗教、国家、家庭、血は全く関係ない。男女が恋愛するには金、権力、外見が必須という身もふたもない現実がある訳です!
ならば、我々はフェミニズムを滅ぼせるだけの核兵器を持つしか生きる方法はありません……。
そのために兵頭さんの女災理論に新兵器の追加や弱点の克服といったロボアニメによくある感じのパワーアップが必要な時期に迫ってるんじゃないでしょうか。