>う~ん、ある意味ではぼくの考えはこの本に(一部分は)似ていて、「女災を根治するために必要なのは、女も男と同程度に悪者だとみんなが知ること」だと思うんですよ。 ぼくの頭が抽象的にできているからでしょうが、まあ、観念的な物言いに留まってしまいますが。 そういえば前にも同様のことを仰っておりましたね(確かUnknownさんとのコメント欄でのやり取りの時でした)。 Unknownさんは、 『フェミたちが後生大事に抱えている「ワタシたちだけはサベツされているカワイソウな人たち」という観念(これがつまりマクガフィンということなんだと理解しましたが)を打ち破る、つまり「差別」という語を男性にも適用することで連中の権力意識を揺さぶることが有効だと思っているんですが、兵頭さんはより先鋭的というか、理想主義的ですね。被差別者の立場という「まんじゅう」を受け取る事自体を拒否するというのは、差別と闘うのが絶対正義なこの世の中ではなかなか難しい気がします』 と仰っておりましたが、それに対して兵頭さんは、 『そうですね。というのも、根底を揺るがさないことには、どうしても「新たなワルモノ探し」が始まるだけだと思うからです』 と答えました。 正直、兵頭さんの言うところの『新たなワルモノ探し』が始まるのは弱者男性の人権を守るためには必要悪なんじゃないでしょうか。 どのみち社会というものは常にワルモノを必要とするのです。 その理由はデュルケーム及びその影響を受けた社会学者、人類学者たちの考えによると、いかなる社会も人々の不安、傷つき、怒りを鎮めるための破壊すべき想像上のシンボルを必要とし、その役割を社会の内部で担う者こそが、社会によって作り出されたワルモノな訳です。 近代以前ですと、戦争、自然災害、失政の元凶とされた支配者(王殺しや革命)、妖術師(魔女裁判)、動物(動物裁判)、物が破壊すべき想像上のシンボルに選ばれ、公衆の面前で裁かれ、破壊されました。近代刑法が成立してからは、犯罪及び事故の責任者と目された人物だけを破壊すべき想像上のシンボルに選ぶことが認められ、公開裁判と処罰の対象となりました。さらに現代に近づくと、裁判も処罰も広くは公開されなくなり、処罰は密室で行なわれる傾向が強まりましたが、犯罪者が破壊すべき想像上のシンボルとして社会において不可欠な役割を果たしていることには変わりありません。 しかし、現代の傾向としては既存の処罰のみで犯罪者を破壊するだけでは、集合意識を鎮めることは難しくなりました。そのために社会が取った2つの戦略が、犯罪の厳罰化と新たな『ワルモノ』の創造です。 今日において『ワルモノ』に選ばれたのは弱者男性(非モテ、非正規、無職、童貞、オタクetc)であり、社会の内部で非難及び再教育の対象とされることで、社会不安を鎮めるのに大きな役割を果たしている状況です。 弱者男性を治安悪化の元凶となる想像上のシンボルに仕立て上げ、バッシングを繰り広げることにより、それ以外の人々の不安や憤激を鎮める役割にすることで「治安悪化は『一般人』とは異なる文化を持つ他者(オタク)によって引き起こされている」と世間に吹き込む役割をフェミニズムは果たしていると言えるでしょう。 競争における結果が、何らかの観点から見た不公平さにより、ある程度固定化してしまうことは珍しくありません。しかし、平等という価値感を知り、それを大切にするようになった人々には、もはやそのことに納得することはできなくなってしまう。このことをトクヴィルは以下のように考察しています。 『一国の人民がどんなに努力しても、その中で境遇を完全に平等にするには至らぬであろう。そして、仮にも不幸にもこの絶対的で完全な平等に達したとしても、なお知力の不平等は残り、これは直接神に由来するだけに、つねに法の規制の外に出るだろう。(中略) 不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目に入らない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。平等が大きくなればなるほど、常に、平等の欲求が一層飽くことなき欲求になるのはこのためである。(岩波文庫本)』 このトクヴィルの考察を、格差病論のように、「我々は些細な不平等に必要以上に敏感になってしまったのだから、必要以上に騒ぎ立てる必要はない」と解釈してしまうことも可能です。しかし、トクヴィルの階級固定論を読めば、この不平等感は心性だけに根ざしたものではなく、社会の現実に裏打ちされた不平等感であることが分かるはずです。 競争社会では、競争の結果による不平等の発生と顕在化は不可避であるにも関わらず、競争社会の住人たちは不平等に対してより鋭敏になる。競争による社会的地位の獲得という枠組を維持しつつ、人々が抱く強い不平等感を鎮める方法は1つしかない。公平に見える競争が実は不公平だったということを隠蔽して、「敗北の原因はあなた自身の弱さにある(例・『男らしさ』を内面化しているからだ、女性を性的モノ化しているからだ、女性に対して弱者を自称するとはミソニジーだ)」という言説を垂れ流していくことです。 そして、弱者男性個人の弱さだけに焦点を当てて競争の敗者の物語を作り上げていくと、そこで作り上げられるのはオタクの人々が持つ弱さとの類似性、つまりオタク文化との類似性です。 「あなたたちはあの忌まわしいオタクの人々と同じ生き方(二次元萌え)を選択したから競争に勝てなかったのだ、敗北はあなたの自己責任であり、社会や女性のあり方が問題なのではない」というフェミニズム的には理に適った主張が可能になる訳ですね。「フェミニズム批判をするからモテないのだ」「強者男性に勝てないから女性を攻撃するのだ」と言った論理が、フェミニズムとマッチョイズムの親和性が高いことを何よりも証明している。 まとめると、 ①社会の治安悪化及び堕落の主犯格(例・ポルノ規制etc)を作り出し、人々の不安を鎮めること ②競争社会の敗者(オタクや非モテetc)をフェミニズムに取り込むこと ③競争から生じる敗者の不平等感を鎮め、敗北は全て自らの責任であったと思い込ませること 以上が、オタクに与えられた社会に不可欠な役割だったんですね。 兵頭さんが仰るように「女災を根治するために必要なのは、女も男と同程度に悪者だとみんなが知ること」が大切なことだと思いますし、大変理解はできるんですが、到底無理でしょう。 仮に「みんなが知った」ところで弱者男性の境遇が完璧に改善される訳ではありませんし、今まで通り弱者男性がアンダークラスに位置付けられることに変わりありません(要するに非モテであることに変わらない)。 だからこそ、こちら側もスケープゴートを用意する必要がある訳です。 『女を優遇できない男は淘汰されるべき=女尊男卑』の思想を持つ全てのフェミニストないしはそれに準ずる女性や男性を思想犯として逮捕する勢いで徹底的に排除することを推し進めるしかありません(無論、表現の自由を害さない程度のマイルドな抑制という意味です)。 私は一般リベよりも多様性を認める寛容な人間なのでフェミニズム的言論全てを封殺すべきだとは思いませんが、明らかに許容範囲を著しく超えたものに関してはそれが表に出ないよう社会に働きかけられるリミッター回路が必要だと考えます。 何も私は女性の社会進出やら仕事での自己実現まで否定する気はありませんし、最大限女性に対して譲歩しているつもりです。 だからこそ、せめて家庭を築ける見込みのない男性にもリプロダクションの権利だけでも認めたらどうかと思うんです。 仮に結婚したとしても、すぐに離婚した場合を想定すると、金だけではなく子供まで取られるような社会なんて男性にとってディストピアでしかないでしょう。 大学から上野千鶴子レベルのフェミニストを追い出せば、なんとか実現可能な領域だとは思うんですが、いかがでしょうか?
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兵頭新児の女災対策的随想
(ID:63064431)
>う~ん、ある意味ではぼくの考えはこの本に(一部分は)似ていて、「女災を根治するために必要なのは、女も男と同程度に悪者だとみんなが知ること」だと思うんですよ。
ぼくの頭が抽象的にできているからでしょうが、まあ、観念的な物言いに留まってしまいますが。
そういえば前にも同様のことを仰っておりましたね(確かUnknownさんとのコメント欄でのやり取りの時でした)。
Unknownさんは、
『フェミたちが後生大事に抱えている「ワタシたちだけはサベツされているカワイソウな人たち」という観念(これがつまりマクガフィンということなんだと理解しましたが)を打ち破る、つまり「差別」という語を男性にも適用することで連中の権力意識を揺さぶることが有効だと思っているんですが、兵頭さんはより先鋭的というか、理想主義的ですね。被差別者の立場という「まんじゅう」を受け取る事自体を拒否するというのは、差別と闘うのが絶対正義なこの世の中ではなかなか難しい気がします』
と仰っておりましたが、それに対して兵頭さんは、
『そうですね。というのも、根底を揺るがさないことには、どうしても「新たなワルモノ探し」が始まるだけだと思うからです』
と答えました。
正直、兵頭さんの言うところの『新たなワルモノ探し』が始まるのは弱者男性の人権を守るためには必要悪なんじゃないでしょうか。
どのみち社会というものは常にワルモノを必要とするのです。
その理由はデュルケーム及びその影響を受けた社会学者、人類学者たちの考えによると、いかなる社会も人々の不安、傷つき、怒りを鎮めるための破壊すべき想像上のシンボルを必要とし、その役割を社会の内部で担う者こそが、社会によって作り出されたワルモノな訳です。
近代以前ですと、戦争、自然災害、失政の元凶とされた支配者(王殺しや革命)、妖術師(魔女裁判)、動物(動物裁判)、物が破壊すべき想像上のシンボルに選ばれ、公衆の面前で裁かれ、破壊されました。近代刑法が成立してからは、犯罪及び事故の責任者と目された人物だけを破壊すべき想像上のシンボルに選ぶことが認められ、公開裁判と処罰の対象となりました。さらに現代に近づくと、裁判も処罰も広くは公開されなくなり、処罰は密室で行なわれる傾向が強まりましたが、犯罪者が破壊すべき想像上のシンボルとして社会において不可欠な役割を果たしていることには変わりありません。
しかし、現代の傾向としては既存の処罰のみで犯罪者を破壊するだけでは、集合意識を鎮めることは難しくなりました。そのために社会が取った2つの戦略が、犯罪の厳罰化と新たな『ワルモノ』の創造です。
今日において『ワルモノ』に選ばれたのは弱者男性(非モテ、非正規、無職、童貞、オタクetc)であり、社会の内部で非難及び再教育の対象とされることで、社会不安を鎮めるのに大きな役割を果たしている状況です。
弱者男性を治安悪化の元凶となる想像上のシンボルに仕立て上げ、バッシングを繰り広げることにより、それ以外の人々の不安や憤激を鎮める役割にすることで「治安悪化は『一般人』とは異なる文化を持つ他者(オタク)によって引き起こされている」と世間に吹き込む役割をフェミニズムは果たしていると言えるでしょう。
競争における結果が、何らかの観点から見た不公平さにより、ある程度固定化してしまうことは珍しくありません。しかし、平等という価値感を知り、それを大切にするようになった人々には、もはやそのことに納得することはできなくなってしまう。このことをトクヴィルは以下のように考察しています。
『一国の人民がどんなに努力しても、その中で境遇を完全に平等にするには至らぬであろう。そして、仮にも不幸にもこの絶対的で完全な平等に達したとしても、なお知力の不平等は残り、これは直接神に由来するだけに、つねに法の規制の外に出るだろう。(中略)
不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目に入らない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。平等が大きくなればなるほど、常に、平等の欲求が一層飽くことなき欲求になるのはこのためである。(岩波文庫本)』
このトクヴィルの考察を、格差病論のように、「我々は些細な不平等に必要以上に敏感になってしまったのだから、必要以上に騒ぎ立てる必要はない」と解釈してしまうことも可能です。しかし、トクヴィルの階級固定論を読めば、この不平等感は心性だけに根ざしたものではなく、社会の現実に裏打ちされた不平等感であることが分かるはずです。
競争社会では、競争の結果による不平等の発生と顕在化は不可避であるにも関わらず、競争社会の住人たちは不平等に対してより鋭敏になる。競争による社会的地位の獲得という枠組を維持しつつ、人々が抱く強い不平等感を鎮める方法は1つしかない。公平に見える競争が実は不公平だったということを隠蔽して、「敗北の原因はあなた自身の弱さにある(例・『男らしさ』を内面化しているからだ、女性を性的モノ化しているからだ、女性に対して弱者を自称するとはミソニジーだ)」という言説を垂れ流していくことです。
そして、弱者男性個人の弱さだけに焦点を当てて競争の敗者の物語を作り上げていくと、そこで作り上げられるのはオタクの人々が持つ弱さとの類似性、つまりオタク文化との類似性です。
「あなたたちはあの忌まわしいオタクの人々と同じ生き方(二次元萌え)を選択したから競争に勝てなかったのだ、敗北はあなたの自己責任であり、社会や女性のあり方が問題なのではない」というフェミニズム的には理に適った主張が可能になる訳ですね。「フェミニズム批判をするからモテないのだ」「強者男性に勝てないから女性を攻撃するのだ」と言った論理が、フェミニズムとマッチョイズムの親和性が高いことを何よりも証明している。
まとめると、
①社会の治安悪化及び堕落の主犯格(例・ポルノ規制etc)を作り出し、人々の不安を鎮めること
②競争社会の敗者(オタクや非モテetc)をフェミニズムに取り込むこと
③競争から生じる敗者の不平等感を鎮め、敗北は全て自らの責任であったと思い込ませること
以上が、オタクに与えられた社会に不可欠な役割だったんですね。
兵頭さんが仰るように「女災を根治するために必要なのは、女も男と同程度に悪者だとみんなが知ること」が大切なことだと思いますし、大変理解はできるんですが、到底無理でしょう。
仮に「みんなが知った」ところで弱者男性の境遇が完璧に改善される訳ではありませんし、今まで通り弱者男性がアンダークラスに位置付けられることに変わりありません(要するに非モテであることに変わらない)。
だからこそ、こちら側もスケープゴートを用意する必要がある訳です。
『女を優遇できない男は淘汰されるべき=女尊男卑』の思想を持つ全てのフェミニストないしはそれに準ずる女性や男性を思想犯として逮捕する勢いで徹底的に排除することを推し進めるしかありません(無論、表現の自由を害さない程度のマイルドな抑制という意味です)。
私は一般リベよりも多様性を認める寛容な人間なのでフェミニズム的言論全てを封殺すべきだとは思いませんが、明らかに許容範囲を著しく超えたものに関してはそれが表に出ないよう社会に働きかけられるリミッター回路が必要だと考えます。
何も私は女性の社会進出やら仕事での自己実現まで否定する気はありませんし、最大限女性に対して譲歩しているつもりです。
だからこそ、せめて家庭を築ける見込みのない男性にもリプロダクションの権利だけでも認めたらどうかと思うんです。
仮に結婚したとしても、すぐに離婚した場合を想定すると、金だけではなく子供まで取られるような社会なんて男性にとってディストピアでしかないでしょう。
大学から上野千鶴子レベルのフェミニストを追い出せば、なんとか実現可能な領域だとは思うんですが、いかがでしょうか?