連日の猛暑の中、こんな評論を汗水垂らして分析して本当にお疲れ様です兵頭さん。 ここ最近は兵頭さんのブロマガでさえも長文書くのしんどいので短めに述べさせていただきますが、 稲田シショーは『ドラえもん』と『セーラームーン』をダシにして、自分の色眼鏡とご都合主義で通したトンデモ評を 人様からお金とって大っぴらに垂れ流しただけというのが結論ですね。 >セーラー戦士たちは放課後、ファミレスに集っては、地球の平和について(彼氏が欲しいというガールズトークの合間に)語りあいます。当時、『セラムン』評論で著名な志水一夫氏が彼女らについて「汗一つかかず正義を守る」とちくりと揶揄していた記憶があります。 >師匠はタキシード仮面について、「実はセーラームーンに依存している」などと腐していますが、実際はセーラームーンが危機に陥ると、タキシード仮面は率先して楯になるんですね。そして、肉弾戦を展開する(『セラムン』の女児向けリファインとも呼ぶべき)『プリキュア』の戦士たちとは異なり、ムーンは実質的には相手にエネルギーを照射してヒーリングするだけの、「キレイな戦い」しかしない。 >実のところ、『プリキュア』に慣れた後、『セラムン』を観るとかなり驚かされます。肉弾戦の有無もそうですが、先のガールズトークに見られる(今の感覚で言うと)ビッチぶりと、そして、戦いの「不真面目」さ。 要は「少女から母として次世代を紡いでいく成長過程」として母性が象徴する安定性、 即ち「日常性」がセーラームーンには大部分のウェイトを占めていたと思います。 だからこそ「やる時はやる」というある種の男性ジェンダーに根ざす英雄性を発揮すると同時に、 女性であってもセーラー戦士達が死んでいくのは至極当然のことであって、 幼い女の子達が絶句したのもそりゃあ自明の理なのです。 仰る様に「『セーラームーン』とは女性性の原理原則を尊んだ作品」だったのですね、 >「女子の欲望すべて」。これほどまでに『セーラームーン』という作品の魅力をひと言で言い表した言葉はない。 それまで、「男性受け」を念頭に置いたお仕着せの「かわいい」をまとっていた女子たちが、「誰かがいいと思うもの」ではなく「私がいいと思うもの」に価値観をシフトさせた。それがコギャルであり、セーラームーンだった。(175-176p) >『セラムン』は『ゴレンジャー』のパロディであり――そしてまた、オタク男子たちがOVAなどで描いていた「戦闘美少女」もののパロディでもありました。ようやっとアニメが若者文化として根づき、作り手にも若手が育ちつつあったこの頃、オタク男子の、オタク男子による、オタク男子のための「強い美少女が戦う」OVA(テレビメディアなどには乗らない、ビデオとして販売されるアニメ)が佃煮にするほど作られました。『セラムン』は明らかに、その延長線上に存在しているのです。 >そう、ぼくたちが女の子に「男性受け」を念頭に置いたお仕着せの「かわいい」をまとわせていたところに、セーラームーンは現れて、こう言ったのです。「それいいじゃん」と。「キミがいいと思うもの」を「私もいいと思ったよ」と。 もうなんか稲田シショーは本当にアニメのセーラームーンを支えた男性クリエイター達という 出木杉くんの威を借る狐ですね、しかも彼らの真意は自説に不都合だからスルーしておられるし。 その理屈なら「恋バナ」なんて言葉は死語になってるだろ… …というか、実際にリアルタイムで視聴していた女の子達の阿鼻叫喚の地獄絵図を知っていても「『セーラームーン』は女性の解放を描いた革新的作品だった」とかドラえもんの作品コンセプトといい、一体今まで何を観ていたんだ稲田シショーは? 美麗なビジュアルとは裏腹にセーラームーンって非常にコミカルなんですよね、それこそドラえもんが連載されていたコロコロコミックにある様な男の子向け児童漫画の本質と通じている。 男の子のとってのび太くんがいるように、女の子にはうさぎちゃんがいた。 この両者はある種の相対的な均衡関係であって、一方だけを卑下し、もう一方を礼賛するアンバランスが理屈として通用する訳ないじゃん(呆)むしろ兵頭さんの仰る説明聞くまでもなく、誰がどう見たってうさぎちゃんこそ「白馬の王子様」願望の持ち主だろーが! しかし、ここまで稲田シショーの言説を読み解いていくと先の北田シショーと同じく一種の方向性が読み取れます。 この人たちは小手先の馬鹿げた理屈と傲慢に満ちた偏見でジェンダーの原理原則に沿った作品達を只管に捻じ曲げ、 捏造して、自説に都合のいい方向へと印象…いや本質を操作しようと目論み、自分達の見当違いな結論ありきで「アレが論拠だ、コレも証拠だ」と卑劣なバッシングと後出しジャンケンを平気で繰り返す。 北田シショーの時も似た様なこと話しましたけど、きっとドラえもんを幼い女の子達が読んでいた場合では まるで辻褄の合わない理屈を平気でひけらかしますよ、こういう手合いは。 何度も書くけど、そこまでジャイアンを持ち上げるなら「武くんを見習って強い者にはひれ伏せ、 力こそ全て、五月蝿い女は殴って躾けろ」と自身のチンピラ的な独善性を素直に認めてもらいたいもんです。 前回の記事で兵頭さんのリプライにもあった様に、どうせあそこまで薄汚い評論書いておいて「いやボクはそんなミソジニーな考えは持ってませんよ(すっとぼけ)」とか欺瞞に満ちた返答でシラを切るのが関の山でしょうが。
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兵頭新児の女災対策的随想
(ID:5643267)
連日の猛暑の中、こんな評論を汗水垂らして分析して本当にお疲れ様です兵頭さん。
ここ最近は兵頭さんのブロマガでさえも長文書くのしんどいので短めに述べさせていただきますが、
稲田シショーは『ドラえもん』と『セーラームーン』をダシにして、自分の色眼鏡とご都合主義で通したトンデモ評を
人様からお金とって大っぴらに垂れ流しただけというのが結論ですね。
>セーラー戦士たちは放課後、ファミレスに集っては、地球の平和について(彼氏が欲しいというガールズトークの合間に)語りあいます。当時、『セラムン』評論で著名な志水一夫氏が彼女らについて「汗一つかかず正義を守る」とちくりと揶揄していた記憶があります。
>師匠はタキシード仮面について、「実はセーラームーンに依存している」などと腐していますが、実際はセーラームーンが危機に陥ると、タキシード仮面は率先して楯になるんですね。そして、肉弾戦を展開する(『セラムン』の女児向けリファインとも呼ぶべき)『プリキュア』の戦士たちとは異なり、ムーンは実質的には相手にエネルギーを照射してヒーリングするだけの、「キレイな戦い」しかしない。
>実のところ、『プリキュア』に慣れた後、『セラムン』を観るとかなり驚かされます。肉弾戦の有無もそうですが、先のガールズトークに見られる(今の感覚で言うと)ビッチぶりと、そして、戦いの「不真面目」さ。
要は「少女から母として次世代を紡いでいく成長過程」として母性が象徴する安定性、
即ち「日常性」がセーラームーンには大部分のウェイトを占めていたと思います。
だからこそ「やる時はやる」というある種の男性ジェンダーに根ざす英雄性を発揮すると同時に、
女性であってもセーラー戦士達が死んでいくのは至極当然のことであって、
幼い女の子達が絶句したのもそりゃあ自明の理なのです。
仰る様に「『セーラームーン』とは女性性の原理原則を尊んだ作品」だったのですね、
>「女子の欲望すべて」。これほどまでに『セーラームーン』という作品の魅力をひと言で言い表した言葉はない。 それまで、「男性受け」を念頭に置いたお仕着せの「かわいい」をまとっていた女子たちが、「誰かがいいと思うもの」ではなく「私がいいと思うもの」に価値観をシフトさせた。それがコギャルであり、セーラームーンだった。(175-176p)
>『セラムン』は『ゴレンジャー』のパロディであり――そしてまた、オタク男子たちがOVAなどで描いていた「戦闘美少女」もののパロディでもありました。ようやっとアニメが若者文化として根づき、作り手にも若手が育ちつつあったこの頃、オタク男子の、オタク男子による、オタク男子のための「強い美少女が戦う」OVA(テレビメディアなどには乗らない、ビデオとして販売されるアニメ)が佃煮にするほど作られました。『セラムン』は明らかに、その延長線上に存在しているのです。
>そう、ぼくたちが女の子に「男性受け」を念頭に置いたお仕着せの「かわいい」をまとわせていたところに、セーラームーンは現れて、こう言ったのです。「それいいじゃん」と。「キミがいいと思うもの」を「私もいいと思ったよ」と。
もうなんか稲田シショーは本当にアニメのセーラームーンを支えた男性クリエイター達という
出木杉くんの威を借る狐ですね、しかも彼らの真意は自説に不都合だからスルーしておられるし。
その理屈なら「恋バナ」なんて言葉は死語になってるだろ…
…というか、実際にリアルタイムで視聴していた女の子達の阿鼻叫喚の地獄絵図を知っていても「『セーラームーン』は女性の解放を描いた革新的作品だった」とかドラえもんの作品コンセプトといい、一体今まで何を観ていたんだ稲田シショーは?
美麗なビジュアルとは裏腹にセーラームーンって非常にコミカルなんですよね、それこそドラえもんが連載されていたコロコロコミックにある様な男の子向け児童漫画の本質と通じている。
男の子のとってのび太くんがいるように、女の子にはうさぎちゃんがいた。
この両者はある種の相対的な均衡関係であって、一方だけを卑下し、もう一方を礼賛するアンバランスが理屈として通用する訳ないじゃん(呆)むしろ兵頭さんの仰る説明聞くまでもなく、誰がどう見たってうさぎちゃんこそ「白馬の王子様」願望の持ち主だろーが!
しかし、ここまで稲田シショーの言説を読み解いていくと先の北田シショーと同じく一種の方向性が読み取れます。
この人たちは小手先の馬鹿げた理屈と傲慢に満ちた偏見でジェンダーの原理原則に沿った作品達を只管に捻じ曲げ、
捏造して、自説に都合のいい方向へと印象…いや本質を操作しようと目論み、自分達の見当違いな結論ありきで「アレが論拠だ、コレも証拠だ」と卑劣なバッシングと後出しジャンケンを平気で繰り返す。
北田シショーの時も似た様なこと話しましたけど、きっとドラえもんを幼い女の子達が読んでいた場合では
まるで辻褄の合わない理屈を平気でひけらかしますよ、こういう手合いは。
何度も書くけど、そこまでジャイアンを持ち上げるなら「武くんを見習って強い者にはひれ伏せ、
力こそ全て、五月蝿い女は殴って躾けろ」と自身のチンピラ的な独善性を素直に認めてもらいたいもんです。
前回の記事で兵頭さんのリプライにもあった様に、どうせあそこまで薄汚い評論書いておいて「いやボクはそんなミソジニーな考えは持ってませんよ(すっとぼけ)」とか欺瞞に満ちた返答でシラを切るのが関の山でしょうが。