まず、大原則ですが、議論する必要がない、なんてことはあり得ないです。 本件についてよき議論が成立しているかはおくとして。 最近ツイッターで >日本のオタクって、憲法で保障された「表現の自由」あってこその存在なのに、自分たちが報道されることについては許さないという傾向が強いように思うところ、そりゃあ「タダ乗り」ってもんじゃないのと思うんだけど、どうも賛同者が少ないΣ(´∀`;) といったつぶやきがありました。 オタクには「自分の姿を大っぴらにしたくない」という心情が大変強い。 この記事に対する過剰反応にも、そうしたオタクの心性がよく顕れています。 もっとも、それ自体は尊重されるべきだと思いますが。 しかし今回のおやじさんの発言もそうした心理に基づいたものだと思え、「それはちょっとどうなの」と思います。 いくら何でも劇場公開までしたんだから、議論すら否定しようとするのは、ちょっと虫がよすぎる。 上のつぶやきに対して、 >だって報道された先に「気持ち悪いから規制しよう」があるの解りきってるし。 といった反論があったのですが、これがぼくにはオタクにつけいって「契約」させようとしているキュウベエのものに見えてしまうんですね。 以上はまあ、お返事とは言いにくいですがちょっと気になったので。 >「敵と戦い傷つきやられる」というプロセスにおいてはプリキュワと騒ぐほどの違いがあるでしょうか? そして退席した子供たちはこの映画を最後まで見ず、怖い映画として認識するでしょう。 しかし、もし最後まで見たなら、子供の成長に大きな傷を与えるものではなく もっと別の大事なことを学ぶ機会になると思います。 本作は『プリキュア』とは全く違います。 全く違うものをミスリードで観せようという戦略が、意図的に採られています。 それは深夜アニメとしては優れた試みでしたが、劇場版としてはちょっとな、ということが今までの議論で言われていることだと思います。 またこれを観て「大事なことを学ぶ」子供がどれだけいるか、ぼくは疑問です。 そうしたことを言う人は「自分の感動を他人にもわかって欲しい」という(ある意味、ものすごく素直で心優しい)気持ちを持っているのですが、それがちょっと強すぎて暴走してしまった、というのがぼくの印象です。
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兵頭新児の女災対策的随想
(著者)
まず、大原則ですが、議論する必要がない、なんてことはあり得ないです。
本件についてよき議論が成立しているかはおくとして。
最近ツイッターで
>日本のオタクって、憲法で保障された「表現の自由」あってこその存在なのに、自分たちが報道されることについては許さないという傾向が強いように思うところ、そりゃあ「タダ乗り」ってもんじゃないのと思うんだけど、どうも賛同者が少ないΣ(´∀`;)
といったつぶやきがありました。
オタクには「自分の姿を大っぴらにしたくない」という心情が大変強い。
この記事に対する過剰反応にも、そうしたオタクの心性がよく顕れています。
もっとも、それ自体は尊重されるべきだと思いますが。
しかし今回のおやじさんの発言もそうした心理に基づいたものだと思え、「それはちょっとどうなの」と思います。
いくら何でも劇場公開までしたんだから、議論すら否定しようとするのは、ちょっと虫がよすぎる。
上のつぶやきに対して、
>だって報道された先に「気持ち悪いから規制しよう」があるの解りきってるし。
といった反論があったのですが、これがぼくにはオタクにつけいって「契約」させようとしているキュウベエのものに見えてしまうんですね。
以上はまあ、お返事とは言いにくいですがちょっと気になったので。
>「敵と戦い傷つきやられる」というプロセスにおいてはプリキュワと騒ぐほどの違いがあるでしょうか?
そして退席した子供たちはこの映画を最後まで見ず、怖い映画として認識するでしょう。
しかし、もし最後まで見たなら、子供の成長に大きな傷を与えるものではなく
もっと別の大事なことを学ぶ機会になると思います。
本作は『プリキュア』とは全く違います。
全く違うものをミスリードで観せようという戦略が、意図的に採られています。
それは深夜アニメとしては優れた試みでしたが、劇場版としてはちょっとな、ということが今までの議論で言われていることだと思います。
またこれを観て「大事なことを学ぶ」子供がどれだけいるか、ぼくは疑問です。
そうしたことを言う人は「自分の感動を他人にもわかって欲しい」という(ある意味、ものすごく素直で心優しい)気持ちを持っているのですが、それがちょっと強すぎて暴走してしまった、というのがぼくの印象です。