書き方はきついが同意できる部分もある。 記憶というものは長い年月が経つうちに無意識のうちに「あれはああいう事だったに違いない」という具合に合理化されて変質してしまうことがある。また、その出来事の後から知った情報が記憶と一体化したり記憶の解釈に影響を与えたりすることもそこまで珍しいことではない(戦争の体験だけでなく、古い事件・事故の証言などでも起こる)。 その意味で、当時のインタビュー映像は歴史学で言う「同時代人が残した一次史料」になるが、長い年月を経た後の証言は「後世の解釈が入った二次史料」に近いとも言える。 後者を唯一無二の物として教育現場で扱ってしまうと、歴史事実の解釈を一定の価値観で押しつけてしまう面があることを忘れずに、記録との整合性や客観的な見方も示さないといけない。教育現場にそういう姿勢がないと、生き証人の価値は、コラムで述べられているようにマイナスになりかねないと思う。
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書き方はきついが同意できる部分もある。
記憶というものは長い年月が経つうちに無意識のうちに「あれはああいう事だったに違いない」という具合に合理化されて変質してしまうことがある。また、その出来事の後から知った情報が記憶と一体化したり記憶の解釈に影響を与えたりすることもそこまで珍しいことではない(戦争の体験だけでなく、古い事件・事故の証言などでも起こる)。
その意味で、当時のインタビュー映像は歴史学で言う「同時代人が残した一次史料」になるが、長い年月を経た後の証言は「後世の解釈が入った二次史料」に近いとも言える。
後者を唯一無二の物として教育現場で扱ってしまうと、歴史事実の解釈を一定の価値観で押しつけてしまう面があることを忘れずに、記録との整合性や客観的な見方も示さないといけない。教育現場にそういう姿勢がないと、生き証人の価値は、コラムで述べられているようにマイナスになりかねないと思う。