『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の皮肉について(1,720字)
今日は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(以下『バードマン』)について書きたい。ネタバレありです。
映画に限らず、コンテンツジャンルが成熟すると、「何が面白いのか分からなくなる」という問題が生じる。いわゆる「ベタ」を面白いと思う人と、面白いと思えなくなる人とに別れる。
例えば、『スーパーマン』という映画がある。このベタな映画を心から面白いと思う人が、この世にはいる。一方、『スーパーマン』を全く面白いと思えない人も、この世にはいる。しかも、そういう人は『スーパーマン』を面白いと思う人に複雑な感情を抱く。
「複雑な感情」とは、バカにしたり、あるいは羨ましいと思ったりすることだ。
『スーパーマン』を面白いと思えない人は、『スーパーマン』を面白いと思える人を「バカ」だと思う。そして、ここからは分かれるのだが、「バカで情けない」と思ったり、「バカで憎たらしい」と思ったり、「バカで羨ましい」と思ったりする。あるいは、それらの感情が入り交じる。
そういう人たちは、やがて「『スーパーマン』を面白いと思う人をギャフンと言わしてやりたい」と思うようになる。そして、それを誰かが代弁してくれることを待望するようになるのだ。
『バードマン』の根底には、そういう欲求に応えようとしているところがある。この映画は、『スーパーマン』を面白いと思う人を心からバカにしたいと思う人のために作られた。あるいは、制作者や製作会社がそのように考えて作った映画である。
このような映画が作られたということは、そういうふうに思う客が商売になるくらいにはいる――という計算があったからだ。そういう客をここでは「スノッブ」と呼ぶが、現代はスノッブが増えた時代だ。だから、それを見越して作られたのである。
ところで、なぜスノッブが増えたかといえば、それはインターネットが隆盛したからだ。インターネットが広まって、知識層が増えた。スノッブはだいたい知識層だから、それに伴ってスノッブも増えたのである。
スノッブは、インターネットによって自分好みの映画をたくさん見ることができるようになった。それに加え、自分の意見を発信したり、同好の士と気軽にコミュニケーションしたりできるようにもなった。
そのため『バードマン』では、インターネットが小さな、しかし重要な小道具として登場する。この映画は、インターネット抜きには作られなかった。
この映画の主人公は、スノッブに属する。だから、『スーパーマン』が嫌いだ。
しかしながら、葛藤もある。それは、自分もかつて『スーパーマン』のようなヒーロー映画に出演し、世界的な人気者になって巨万の富を得たからだ。
それだけではない。主人公は、人気とお金は得られたが、名声や満足感を得られないヒーロー映画に嫌気がさして、その役を自ら降りた。
しかし、そこでイメージチェンジに失敗し、くすぶったまま中年域にさしかかってしまった。だから、「こんなはずではなかった」という不満を抱えるようになった。
その一方で、ヒーロー映画はかつて以上の栄華を極めるようになった。なぜなら、インターネットの隆盛で、スノッブが増えたのに伴って、バカもまた増えたからである。
インターネットは、知識層も増やしたが、バカもまた増やした。貧富の格差を拡大したのと同じように、知識の格差を拡大したのだ。
そういう時代に翻弄され、主人公は隘路にはまった。そうして、そこから抜け出そうと全財産と命をかけるのである。命をかけて、『スーパーマン』を好きなバカたちに一泡吹かせようとする。
この映画は、そういうバカを糾弾したいスノッブ向けの映画である。それが、アカデミー作品賞を獲った。これは皮肉な話である。
なぜなら、『スーパーマン』を好きなバカというのは、「アカデミー賞」もまた好きだからだ。そうして、バカ故に下調べもせず、単に「アカデミー作品賞」だからという理由で、この映画を見にくるのである。
そうして、見ている映画にバカにされるという皮肉な状況に陥る。しかも、さらに皮肉なのは、そういうバカはバカ故に、自分がバカにされていることに気づかない。この作品は、そういう虚構と現実の皮肉が幾重にも折り重なった映画なのだ。
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