というのも、先週のニコ生で「春は危険で気をつけたい」と言っていたのだが、その通り、春の危険にとらえられてしまったのだ。
「ぼくね、春には一家言あるんですよ。昔、高校のときに(中略)3月の後半になるとほとんど授業がなくて(中略)、教室の窓から外を見ているときに、ものすごく暖かかったんですよね。(中略)そのときに、あ、気が狂いそうと思ったんですよ。(中略)なんかこう、内側から突きあげてくるリビドーというか、なんかね、ああ、今だったらおれ、気が狂えるなあというのを、痛切に感じたんですよね。(中略)そういう目で春を迎えるようになってから、春に対して警戒心を抱いてね。まあ、あんまり浮かれないようにしようと、春が来る度に思うんですけど」
(先週のニコ生『岩崎夏海のハックルテレビ#73「女性と差別について」』より08:50~)
――と、まあ、そんなふうに「春」というのは、人の気を緩め危険だというのを、春の訪れとともに強く感じていて、何か良くない予感がしていたのだ。それだからこそ、日常の中でも気をつけていたし、それだけではなく、周囲やニコ生で、その危険性を説いていた。
それなのにもかかわらず、ぼくはやっぱり春の危険性にとらえられてしまった。はからずも、また予言が的中する格好となったのだ。
何が起きたのかというと、交通事故にあったのだ。
コメント
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>>11
ありがとうございます。
春+事故の怖さをあらためて実感した次第です。
(ID:8640040)
これは「命に別状はない」って状態では…。
「勘」が大事。情報まみれの世界で過ごしてるからか確かに私もそう感じます。
回復なさるまでゆっくり休んで下さいね。
(著者)
>>13
ありがとうございます。
情報が多いからこそ、勘の重要度が高まっているということはあるかもしれません。