麻生氏は、かねてから舌禍事件をおかすことが多く、いわゆる「失言議員」として有名なのだけれど、なぜ彼が失言をくり返すかといえば、それは彼の中に失言をすることの罪悪感がほとんどないからだろう。彼はそれを「失言」とはとらえず、「毒舌」だととらえているのだ。
麻生氏は、喩えていうなら毒蝮三太夫氏や綾小路きみまろ氏のようなつもりでやっているのである。毒舌で、聴衆の感興を得ようとしているのだ。
毒蝮三太夫氏は、老人に向かって「このクソジジイ!」と言う。綾小路きみまろ氏は、妙齢の女性に向かって「オバタリアン」を連発する。麻生氏は、それをやろうとしているのだ。それは、政治家として、人々の人気を得るためなのである。
麻生氏の今回のナチスについての失言は、自らの支持者が多く集まるところで行われた。その場所で、自分たちの政党とその支持者を「ナチスとその支持者」に喩えてみせたのである。つまり聴衆を、「ナチスの支持者」呼ばわりしたのだ。そういう毒舌で、人々の感興を得ようとしたのだ。
これは、本来なら失礼きわまりない行為である。しかしこういう毒舌は、聴衆の爆笑を誘うのだ。そうして、多くの人に絶大な好意でもって受け入れられる。実際、麻生氏が「あの手口学んだらどうかね」と言った瞬間、場内には爆笑が巻き起こったという。
これは毒舌の特徴なのだが、目の前の聴衆をこき下ろすようなことを言うと、場内の爆笑を誘うのである。老婆ばかりが集まる会場で「しわくちゃババアばかり集まりやがって」というと、みんなに喜ばれるのだ。
ぼくは、これが昔から不思議だった。なぜ、そのような矛盾した状態が生まれるのか?
初めは、その人の話術がよほど優れているからかと思った。毒蝮三太夫氏にしても綾小路きみまろ氏にしても、あるいは麻生太郎氏にしても、いずれも聴衆の耳目を集める技術は一級品である。毒舌は、彼らのような芸達者がやって初めて成立するものなのか――そう考えた。
しかし、もし芸達者なら他のことをやっても受けそうなものであるが、上記三者のいずれもが、毒舌をやった時が一番受けているのである。と言うより、毒舌が一番受けるから、今ではそれ以外やらなくなっているほどだ。
ということは、毒舌というのは必ずしも難しいわけではなく、ハマれば他の話芸よりも爆発力を持っているのだ。つまり、そこにはエンターテインメントとしての本質的な面白さがあるのである。
では、なぜ毒舌は面白いのか? 人々の爆笑を誘うのか?
それを考えているうちに、ふと思い出したことがあった。それは、ギリシアの哲学者アリストテレスが、演劇についての考察を述べた「詩学」の中に出てきた考え方だ。
コメント
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場の空気をコントロールして現象を起こすことによりもたらされる快感は、ネットもリアルも変わりないのでしょうか。
(著者)
>>1
ネットの方がリアルより強いものがあると思います。
文字って残る分言葉より強いところがあるんですよね。
そこが「ペンは剣よりも強し」の由来にもなっているのかと思います。