ところが、多くの人が「宮崎駿がどういう人間か」ということについては喧しく議論するくせに、「堀越二郎がどういう人間か」ということについてはちっとも語ろうとしない。それは、堀越二郎のことをよく知らない一方で、監督の宮崎駿のことなら、その作品を何本も見てきているから「分かった気」になっているからだ。つまり、知らないことを調べようともしないくせに、分かった気分だけは味わいたいという、非常に「怠惰」な態度なのである。
そういう観客が多いから、この作品はほとんどの人に正しく理解されない。
いや、この言い方は正確ではない。宮崎駿が何者かを知らない人――たとえばこの映画が初めての宮崎作品となる小さな子供などには、正しく理解されるだろう。あるいは、高齢で(およそ80歳以上)昔のことをよく知っている人にも、「あの頃はこんな感じだったな」と、よく理解されると思う。
さらには、歴史が好きで近現代史に詳しい人や、大正や昭和の日本文学に造詣が深い人にも、比較的理解される。
ただ、それ以外の人にとってはなかなか理解が深まらない。なぜなら、理解するための「よすが(引っかかりのようなもの)」が少ないからだ。
そのため、この映画をめぐってはさまざまな誤解が発生している。中でも問題なのが、恋人である菜穂子への接し方を見て、「堀越二郎は薄情である」などとする解釈だ。しかもそれを、彼の「天才」と絡めて理解しようとすること――これがオカルトも甚だしいのである。
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コメント
(著者)
>>1
確かに! そこは重要なシーンですね。
そこはたぶん、両義性を表現しているのだと思います。
周囲からの見方と、本人の考え方のずれ。どちらが正しくどちらが誤りということではなくて、両者が表裏一体となって一つの人格を形作っているのだと思います。
つまり、天才に固有のものだという見方は、その人固有のものだという意見にほとんど収斂されるというか。その人固有のものが、周囲からは天才固有のものと思われることこそ本質なのかもしれません。その意味で、誤解されることは逆に正しいとも言えるのでしょう。
(著者)
>>2
その通りです。どんな人でも矛盾を抱えており、その矛盾を自覚しながら、なお生きなさいということが、この映画のメッセージだと思います。けっして自分は無矛盾だと奢ったりしないように、あるいは矛盾に絶望して死んだりしないように、ということなのでしょう。
(ID:1168733)
映画の中で二郎が「お前にも恋愛感情があったのか」のようなことを言われたときに険しい表情をしていました。「堀越二郎がどういう人間か」について、この場面は「天才に特有だと言われるもの」は「彼固有のもの」とは無関係であることを表していたのでしょうか。