梵天丸 のコメント

前提として、俺は科学の進歩によって暇が増えたのか?ってのを問いたい、と思うぜ。
そりゃあ江戸時代と現代を比べたら、伝え聞く事によると、農作業は大変だったし、毎日大変だっただろうけど、だから現代が暇で暇で仕方ない、っていうのは無いんじゃないかな、と思う。もしそんな人が居たなら、それは怠慢だろう。働け。
『そうして、高度経済成長期以降、日本人の暇は増えるばかりだった。』という一文があるが、高度経済成長期以降、人間は真に時間という物を得たんじゃないかな、と俺は思う。日が昇れば働き、沈めば飯食って寝る。時計が無かった時代だからこそ、その時代に合った『暇』が有ったんだと思う。前提条件から、少々ズレた見かたをしてるんじゃないか、と少し思ったぜ。

まあここは暇についての話を語る場所では無いから、控えめに言わせて頂いたが、本文であるラノベの方の話は「あ~成程なあ~」と思う内容だったぜ。共感できる所も有った。声の所とか。
しかし、声の所にも疑問も残るといえば残る。ラノベを、個人だけで楽しめる「エンターテインメント」として扱うなら、本文にお書きになられた文章の通りで何の問題も無いだろう。個人で一番しっくりくる声になる訳だし、実際私だって無意識にそうしている。東方厨じゃないと分からんかもしれんが、東方儚月抄の幽々子も、雨月の話でその様な事を言っている。想像力や妄想力というものが有った方が、よりラノベを楽しめるだろう。

だが、あくまでラノベも「小説」であり、文章である。作者の考えたストーリーの流れや、背景、キャラの姿形だって、作者の考えた通りの想像ができれば、作者のこの物語に対する最終的な結論を得られる筈である。シリアス系なら読んでいるだけで何となく作者の意図は掴めるが、コメディ系ではそれも難しいだろう。その為の手助けとして、あるいは読者の想像をさらに盛り上げるため、挿絵が有るのだと俺は考える。ある意味、堅い文学小説よりも、『深い読解』というものがしづらいジャンルの小説だろう。
結局、何が言いたかったかと言うと、ラノベも、宮沢賢治の小説も、何の違いも無いって事だ。ただ、その時代に合った文学が発展していっているだけで、同じ小説だ。ラノベだけ特別視するのは、それは小説を何にも分かってない馬鹿共だろう。伝統も何も関係無い。今の人間が、宮沢賢治や太宰治の小説を見て、「面白い!」と思えばそれは後世に残っていくし、逆にラノベが未来にまで残って、名小説として語り継がれるかもしれない。

で、そもそも小説と漫画は紙に書かれている事だけが一緒で、後は全く違うものだと言う事を理解されてないと思う。何故小学校では小説なら良くて、漫画は駄目、という世の中の常識ともいえる風潮を真剣に考えてみた事が無かったのか。そもそも……

という訳で、ここまで一気に書いたが、話が少々脱線したのと、疲れたので一旦切るぜ。何か批判ばかりでスマソ

No.101 137ヶ月前

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