日本は少子化が進む割りには抜本的な対策をなかなかしていないことで知られる。特に、経済的な支援が少ない。子供を育てるのには多額の費用がかさむ。これは、安倍政権が進める女子手帳を導入したとしても変わらない。女子手帳では、むしろ女性の長期休暇を奨励しているので、ますます家計が圧迫されることが見込まれる。

どうして結婚、あるいは子育てのハードルがこれだけ上がってしまったかといえば、そこにある種の社会的ステータスが見込まれているからである。つまり、結婚や子育ては、将来成長が確実視される優良株なのだ。そのため、多少は費用がかさんだとしても、それに投資する人はいると考えられている。あるいは、それに投資する人としない人とで、新たな階級制度を作ろうとしていることも窺える。子育ては、今やある種の踏み絵として作用しているのだ。

その踏み絵ということの意味について、もう少し詳しく説明する。
まず、世間は子育てのハードルを高めに設定する。すると、それを乗り越える人と乗り越えない人とに別れる。今はハードルを高めに設定しているので、乗り越えない人が少なくなっている。そんなふうに、子供を育てる人をふるいにかけているのだ。

そうしてふるいにかけると、子供を育てた人と育てていない人のクラスタができる。この両クラスタが、例えば20年後の世界でどのような階級を構成するか? それは、2つの意味で、子供を育てているクラスタの方が上に来るのである。

なぜかというと、その頃の日本はさらに少子化が進んでいるだろうから、若者が貴重になっている。なにしろ、彼らに頑張ってもらわないと国は滅んでしまうから、国家をあげて支援するような体制が整う。そうして、若者は社会の中でだいじにされるようになる。
すると、そういうだいじにされている若者の親も、必然的にだいじにされるようになるのだ。トリクルダウンではないが、だいじにされている若者がだいじにするのはその両親だろうから、社会の中で、若者の子供を持っている親の立場は必然的に高いものとなるのである。

もう一つは、子供を育てていない人たちの中に「負い目」が生まれるということもある。それは、若い頃に子育てに投資してこなかったことの後ろめたさだ。子供を産めたのに産まなかった人は、稼いだお金を全部自分のために使っただろうから、自分のために使うことを我慢して子供のために使った人に対して、どうしたって引け目やコンプレックスを感じてしまうのである。そのため、自分を一段低く見てしまうのだ。

そんなふうに、若者の立場が上がることと、子育てをしてこなかったことに引け目を感じるということの二つの意味で、子供を育ててこなかった人々は、社会的な階級の下位に位置づけられるケースが増えるのである。
しかも、子供を育てないという選択をしたのは他ならぬ自分自身なので、誰に文句を言う筋合いでもなくなる。それは、産んでいない人の「自己責任」で片付けられてしまうため、階級闘争が起こる可能性も低く抑えられているのだ。

実は、これとそっくりと社会構造が、現代にも存在する。それが何かというと、