東條英機は1934年8月1日に久留米に赴任する。ちょうど50歳のときだから、これは完全に左遷だった。出世街道なら、いよいよ中央の主要なポストも伺おうかという年齢だ。これで東條は消えた、と多くの人に思われた。

しかし一方、東條は消えた、と思わない人も多かった。なんといってもあの永田鉄山の懐刀で、その永田自身は、相変わらず中央の最も重要なポストで周囲ににらみを利かせていた。だから、荒木や真崎がやがてなんらかの形で脇へ退くことになったとき、また復帰すると見る向きも多かったのである。

ところで、東條本人はどうだったか?
ここが東條の面白いところだが、彼はけっして「腐る」ということをしなかった。どんなポストでも、就けばそれなりに一生懸命やる。そうして、その中で最善を尽くす。

「置かれた場所で咲きなさい」を地で行くタイプが東條だった。もとより、彼はそこまで出世にこだわっていたわけではなかった。自分はと