石原莞爾と東條英機:その5(1,491字)
宮中某重大事件は1921年に収束する。新聞で大々的に報じられ、山縣有朋の敗北は全国民に知られるところとなった。
その心労もあってか、翌1922年に83歳で山縣有朋は死ぬ。国会で国葬が提案されたが、山縣有朋を良く思わない数多くの議員から反対意見が遠慮なく出た。
それでも、これまでの功績を鑑みると国葬をしないわけにもいかないだろうということになり、執り行われた。しかし、1ヶ月前に亡くなった大隈重信の「国民葬」には大勢の人々が訪れたのに比べ、参列者の人並みは閑散としたものだった。それは、山縣の人気がいかに凋落していたかを世間に示すことともなった。
そんなふうに、山縣有朋は晩年を自らの失政で汚し、凋落した。これが、陸軍の人事に影を落とさないわけはなかった。
なにしろ、それまで山縣を長とする長州閥は威張りに威張っていた。そのため、それ以外の者たちから大いなる恨みを買っていたのだ。
そこへきて、頭領の
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