1960年代。マンガは市民権を得る。

そこで主役となったのが、マンガの神様である手塚ではなく、塚は塚でも赤い塚――赤塚不二夫であった。赤塚は、「1960年代に日本中に蔓延した窮屈さ」を解消する救世主として、大スターに上り詰めた。

この新しい窮屈さは、戦前の窮屈さとは違った。
戦前の窮屈さは、ロープで締められるような苦しさだった。つまり、肉体的な苦しさだ。
だから、そこからの脱却は「肉体の解放」を意味した。それは、例えば手塚の『新宝島』にあるような車での暴走だったりした。

対して、戦後のそれは真綿で首を絞められるような苦しさだった。つまり、精神的な苦しさだ。
だから、マンガにも「精神の解放」が求められた。それに答えたのが、イヤミの「シェー」であった。

では、このシェーは、どんな「精神の解放」を果たしたのか?

それは、「その発想はなかったわ」という発想である。考え方の自由さを持つことだ。特に、