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子供のイヤイヤ期を容認してはいけない(2,316字)

2019/08/23 06:00 投稿

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新幹線で2歳の娘のイヤイヤが発生し、ギャン泣きが止まず、一緒にいた父親が誘拐と疑われ、警察を呼ばれ混乱したという話が話題になった。

夫が娘をあやしてたら通報された話

女児誘拐の疑いで通報、そして真実へ。

これに対して、多くの人が「子供に対して不寛容な世の中は良くない」といい、両親に同情を寄せたり、父親に圧力をかけた同乗者を非難したりした。

それによって、両親も勇気づけられたのか、「自分たちは間違っていない。子供はイヤイヤするもの(ギャン泣きするもの)」というトーンの主張になっているが、これは非常に危険だと思う。

そこで今回は、そのことについて無料公開で書いてみたい。念のため、これは中傷を目的としたものではなく、真面目な社会への問題提起です。


まず、多くの人が子供のイヤイヤ期を容認しているが、それは良くない。なぜかといえば、イヤイヤというのは子供の親に対する抗議であるから、本質的には親がその抗議を聞き入れれば収まる。イヤイヤが収まらないというのは、親が子供の抗議を受け入れられず、状況を改善できていない証左だ。つまり、子供を苦しい状況に置き続けているという意味で、虐待に他ならないともいえる。

こういうと、「子供は誰でもイヤイヤするもの」という人もいるが、実際はイヤイヤしない子供もたくさんいる。また、子供のイヤイヤはほとんどがもう少し大きくなると収まるので、一過性の症状と考えている人も多い。

しかし、実はそうではない。子供のイヤイヤが収まるのは、「我慢すること」を覚えさせられるからにすぎない。子供が「鈍感力」を向上させて、つらいことをつらく思わないようになっただけだ。

子供がイヤイヤをするのは、基本的には自立心からだといわれている。自立心が芽生えると、親の管理下に置かれている状況にストレスを感じるようになる。そうして、もっと自分の意思で行動したいと思うようになる。

それは、人間が本来的に持つ「自由の希求」だ。人間は、誰でも基本的に自由を好む。
しかし大人になると、自由よりもむしろ縛られることを望む人が増えたりもする。例えば、不自由の極みである刑務所などでもさえ快適に感じる人がいるくらいだ。

なぜそうした人は自由さを好まないかといえば、それこそが「鈍感力」を増したことの成果だ。自由を阻害されていることに慣れきってしまって、気にならなくなるのである。
あるいは、「縛られている方が普通」と自分自身を洗脳し、その状態を苦しくないと思い込もうとする。そんなふうにして、不自由な状態のままでも苦痛を味わわないで済むような状態へと自分を作り替えているのである。

2歳のときには激しかったイヤイヤが3歳になったら収まった……などというのは、子供がそういうふうに自己洗脳した結果なのだ。縛られる方がむしろ普通と、鈍感力を向上させたからなのである。

それでも、「鈍感力を増したとしても、不自由さを受け入れられるようになったのなら、それはそれで成長ではないか」と考える人もいる。「人として、この世知辛い世の中でむしろ生きやすくなったのではないか」と。

それは、一昔前ならそういうことがいえただろう。なぜなら、一昔前の世の中には苦行のようなことを強いられ、我慢をしないと生きてはいけない状況がたくさんあったからだ。

例えば、蒸気機関車で石炭をくべる仕事などは本当に重労働で、「鈍感力」なしにはできなかった。だから、子供のうちから鈍感力を鍛えることはそれなりに意味があった。

しかし今は、そういう重労働は世の中からほとんど姿を消した。それ以前に、退屈な単純作業というのもなくなった。そういう「鈍感力」が必要な仕事は、どんどんロボットやAIに置き換わったのだ。

そのため今は、人間的なクリエイティビティや感性を必要とする仕事しか残っていない。そしてそういう仕事には、鈍感力は全く必要ない。むしろ、それは邪魔になる。それよりも、少しの嫌なことにも気づく敏感さが必要となってくるのだ。

子供には、生まれながらにしてあまねくその能力がある。もし親が抑圧したり自分の主体的な取り組みを阻害してきたりしても、「イヤイヤ」とちゃんと拒否することができる。

そして子供は、自分が主体的に行動できる環境がきちんと整えられていると、もうそれ以上の過剰な要求はしない。そうしてイヤイヤはすぐにでも収まるのだ。

そして、そういうふうに親が快適な環境を整えてくれれば、鈍感力を育む必要もないので、クリエイティビティや感性が育つ。そうして、社会に出てからもロボットやAIに代替されない役割を社会の中で見つけることができ、健康的に生きられるのだ。

子供のイヤイヤを容認し、イヤイヤをさせたままでいるのは、その意味で彼らの未来を奪うことにも等しい。人間らしい感性や自由さを希求する気持ちといった、さまざまなものを奪ってしまう虐待行為なのだ。

だから、社会もイヤイヤ期を容認してはいけない。子供は必ずしも泣くものではないし、泣くのが子供の仕事でもない。

もし近くにイヤイヤをしていたり泣いていたりする子供がいたら、親はそれを子供からのSOSだと真摯に受け止め、環境の改善に全力を尽くすべきではないだろうか。そうして、一人でも多くの親が、子供の感性や自由を希求する気持ちを、なるべく真っ直ぐに伸ばしてあげるべきではないだろうか。

そういう社会の在り方が、これから求められると考える。だから、今回のイヤイヤ期の一件は、両親をはじめ多くの人が容認していたので、非常に危険だと感じた。このままでは、当該の子供も含めた多くの子供の感性が奪われる。そうして鈍感力が増した結果、社会の中で居場所を見つけにくい大人になってしまうのだ。
 

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