>望みが絶たれた人生なら、・・・もう死んだ方がいいのである。 親しい人が「もう死にたい」「もう死ぬからね」など死を決まり文句で口にします。 これまで辛さの程度が限りなく大きいという形容なのだと考えていました。 でも<望みが絶たれた>という暗転・落下する心の動きが先にあること、そして反復していることに改めて気が付きました。 だから<望み>について語ると必ず反転して落ちてしまう。 私といえばは「二歩進んで一歩下がる」的な感覚なので、押し戻される無力感と憤慨を覚えます。 この「底が抜けて落ちる恐怖」と「暴風に押し負ける憤慨」から、すれ違い・食い違うという堂々巡りになっていることに気が付きました。 といいつつ私も絶望すると底は抜けるのですが。 絶望する水準が厳しい人はその望みに切迫感が強く、反対に現状肯定な人はその望みにゆるい。 このように考えると自分より切実な相手に対してだけでなく、周囲へ苛立つ場面とその反復を俯瞰的に整理できたように思います。
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(ID:10616465)
>望みが絶たれた人生なら、・・・もう死んだ方がいいのである。
親しい人が「もう死にたい」「もう死ぬからね」など死を決まり文句で口にします。
これまで辛さの程度が限りなく大きいという形容なのだと考えていました。
でも<望みが絶たれた>という暗転・落下する心の動きが先にあること、そして反復していることに改めて気が付きました。
だから<望み>について語ると必ず反転して落ちてしまう。
私といえばは「二歩進んで一歩下がる」的な感覚なので、押し戻される無力感と憤慨を覚えます。
この「底が抜けて落ちる恐怖」と「暴風に押し負ける憤慨」から、すれ違い・食い違うという堂々巡りになっていることに気が付きました。
といいつつ私も絶望すると底は抜けるのですが。
絶望する水準が厳しい人はその望みに切迫感が強く、反対に現状肯定な人はその望みにゆるい。
このように考えると自分より切実な相手に対してだけでなく、周囲へ苛立つ場面とその反復を俯瞰的に整理できたように思います。