>>8 私が「客観的事実」と捉えているのは、文末が断定の口調になっているところ全てです。これらは先生の抱いた単なる「感想」ではなく、観察や知識の収集などから得られた好き嫌いの混じらないものだと考え、「客観的事実」と述べました。ですので岩崎先生の私見であるかどうかと、議論(コメント)を求めているかどうかは関係ありません。 そして、私はこの記事は無制限の釈明の記事とは思いません。なぜなら、誤解をした人全員の誤解を解きたいのならばこのような難解な記事を公開しないでしょうし、おっしゃる通り誤解が解けたかどうか全員に確認する術がない。ではなぜそのような記事になっているかというと、この記事にはおそらく明確なターゲットが定められているからでしょう。それは例えば先生のお仕事仲間や身内だったり、先生が「誤解されたくない人」のみに向けたものだと思われます。実際先生は、今でも誤解をしていたり記事の要旨を捉えていない人はほったらかしです。そういう岩崎先生のスタイルを知っている人からすれば、この記事が人の無意識を意識できる人にしか書けない記事だというのがわかるのですが、初見の人や無意識を意識した経験のない人からすれば「何を言ってるかわからない」「偏見が過ぎる」「偉そう」などという感想になるわけです。合わせて、私は「くだらない意見」などという言葉は使った覚えがありません。私の言ったコメントですらないコメントというのは、意見ですらないただの誹謗中傷のことです。 つまり、「ある一定の範囲の」購読者ではない人がターゲットの公開記事の場合において、今回のようなこの記事に書かれていることの正否がメインテーマでないのであれば、罵詈雑言を放っておくよりコメント欄は使わない方が健全では?という提案になるわけです。私は購読者で前知識があったので、岩崎先生宛だとここまで文章にする必要がなかったのです。 しかし、これらは全て私自身の個人的な意見ですので、提案するくらいでそれ以上のことはもちろんしません。 おそらく岩崎先生の頭の中には、「この人には誤解されたくないな」という人がいたはずです。しかしその人たちから「それは間違っている」と言われたって気にしないと思われます。とにかく大切な人に、「え、こんなこと言ったの?」と思われたままにしたくなかったのでしょう。あくまで予想ですけど。
チャンネルに入会
フォロー
ハックルベリーに会いに行く
(ID:17434168)
>>8
私が「客観的事実」と捉えているのは、文末が断定の口調になっているところ全てです。これらは先生の抱いた単なる「感想」ではなく、観察や知識の収集などから得られた好き嫌いの混じらないものだと考え、「客観的事実」と述べました。ですので岩崎先生の私見であるかどうかと、議論(コメント)を求めているかどうかは関係ありません。
そして、私はこの記事は無制限の釈明の記事とは思いません。なぜなら、誤解をした人全員の誤解を解きたいのならばこのような難解な記事を公開しないでしょうし、おっしゃる通り誤解が解けたかどうか全員に確認する術がない。ではなぜそのような記事になっているかというと、この記事にはおそらく明確なターゲットが定められているからでしょう。それは例えば先生のお仕事仲間や身内だったり、先生が「誤解されたくない人」のみに向けたものだと思われます。実際先生は、今でも誤解をしていたり記事の要旨を捉えていない人はほったらかしです。そういう岩崎先生のスタイルを知っている人からすれば、この記事が人の無意識を意識できる人にしか書けない記事だというのがわかるのですが、初見の人や無意識を意識した経験のない人からすれば「何を言ってるかわからない」「偏見が過ぎる」「偉そう」などという感想になるわけです。合わせて、私は「くだらない意見」などという言葉は使った覚えがありません。私の言ったコメントですらないコメントというのは、意見ですらないただの誹謗中傷のことです。
つまり、「ある一定の範囲の」購読者ではない人がターゲットの公開記事の場合において、今回のようなこの記事に書かれていることの正否がメインテーマでないのであれば、罵詈雑言を放っておくよりコメント欄は使わない方が健全では?という提案になるわけです。私は購読者で前知識があったので、岩崎先生宛だとここまで文章にする必要がなかったのです。
しかし、これらは全て私自身の個人的な意見ですので、提案するくらいでそれ以上のことはもちろんしません。
おそらく岩崎先生の頭の中には、「この人には誤解されたくないな」という人がいたはずです。しかしその人たちから「それは間違っている」と言われたって気にしないと思われます。とにかく大切な人に、「え、こんなこと言ったの?」と思われたままにしたくなかったのでしょう。あくまで予想ですけど。