手塚治虫が創始した日本のマンガは、まずは記号的な絵からスタートした。それは、他ならぬ手塚治虫が記号的な絵だったからだ。
手塚治虫は、最初期こそ貸本マンガに描いていたが、すぐに舞台の軸足を月刊漫画誌に移した。そして月刊漫画誌には、手塚のフォロワーを中心に記号的な絵を描く人々がマンガを連載していた。
ちなみに、手塚のフォロワーのうちの中心的な何人かは、手塚治虫が仕事場としていた集合住宅「トキワ荘」に住んでいた。そのため、ここでは彼らを「トキワ荘グループ」と呼ぶ。
トキワ荘グループの主なメンバーには、寺田ヒロオ、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らがいる。彼らは、全員が『漫画少年』誌で連載を持っていた。このことからも、当時のマンガの中心地は『漫画少年』であったことが分かる。
一方、手塚治虫を中心とした記号的な絵とは一線を画す、写実的で込み入った絵を描くマンガ家たちもポツポツと現れ始めた。そうし
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