やっと来た。このときが……本当に、やっと。
石川県白山市徳光町、日本海沿岸を走る北陸自動車道の途中に位置する、徳光パーキングエリア。駐車場に車を停めると、そのまま海辺まで歩いて行けるという好立地に加え、様々なレジャー施設が近くにあるため、夏には多くの観光客でにぎわう。しかし、シーズンオフの今は、穏やかな空気が流れていた。
金曜の午後七時過ぎ。
二階、無料休憩所の一角にしつらえられた放送ブース。
「……はああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
ブース内、PA機器やノートパソコン、マイクに囲まれた放送席で、ガールズラジオ、チーム徳光のメインパーソナリティー、手取川海瑠(てどりがわみるう)は、深い深い息を吐いた。若干十五歳、中学二年生の少女とは思えないほど重い吐息。人生に疲れ切ったサラリーマンが、場末の居酒屋で吐くような。
記念すべき第一回の放送が、やっと始まろうとしている。どうにかここまで漕ぎつけた。これからが始まりだというのに、正直もう終わったような気分だ。
(……っと、ダメ)
海瑠(みるう)は慌てて背筋を伸ばし、笑顔を維持した。そろそろちらほらと観覧客も集まってきている。疲れた顔を見せるわけにはいかない。
「──おゥ、ミル! おつかれサン!」
と、軽い調子で言いながらブースに入ってきたのは、スーツ姿の若い女だった。本当に社会人なのか疑いたくなるような金髪で、犬歯を見せるその笑顔には、どこか野性味がある。彼女の名は吉田(よしだ)、チーム徳光の担当者だ。つまり、海瑠にとってクライアント側の人間ということになるが……
海瑠はムッとして言った。
「ミルじゃなくて、ミルウです。何べんも言うてるがやろ……」
語尾は小さく消える。
吉田は笑いながら、海瑠の横の椅子に浅く座った。
「ミルーってなんか、呼びづれーじゃん? 変わった名前だよねー、アハハッ!」
海瑠は彼女のことが苦手だった。性格が合わないというのも大いにあるが、どことなく母親と似たものを感じるからだ。
ひと息ついて、苛立ちを追い出す。
「……何の用ですか? もうじき始まるんですけど」
「そうそう、もうじき! だから、ミルの激励に来てやったってワケ」
「は、はぁ? 激励……」
吉田はテーブルに頬杖(ほおづえ)を突くと、海瑠にへたくそなウインクをしてみせた。
「アンタ、けっこう根性あんじゃん? 見直したよ。正直アタシ、途中で投げ出すかと思ってたわ」
海瑠は眉間にしわをよせ、
「……それって激励?」
吉田は空いた片手をひらりと振り、
「これでもホメてんだって。実際スゲーよ? ひとりでやりきっちまうなんて。ホントよくやったね、えらいえらい!」
ともすれば、おちょくられているのかと思えるほどの、あからさまな子ども扱い。怒りがカッと燃え上がりそうになったが、どうにか我慢した。
彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。吉田がガルラジの担当だというのもあるが、それ以外の理由もある。
「……いいから、とにかく出てってください。集中したいんで」
海瑠がやんわりと言っても、吉田は席を立とうとしなかった。
「なによ、あと三〇分くらいあるじゃん。アタシもちょっとは、ミルの役に立ちたいなーって思ってんのよ? アタシって、舎弟の面倒見はいい方だからさ」
「はあ……役に立つって、どうやって?」
「よくあるじゃん? アイドルとか、本番直前に緊張しちゃったりして。マネージャーがさ、オマエならやれる! みたいに励ますヤツ。ああいうの、アタシもやりたいんだよね。ってワケで……悩みとか、ない?」
ずいっと身を乗り出してくる吉田。
「ないです」
「そこをなんとか、ひねり出してみてよ」
「出ませんって、そんな! いきなり言われたって……」
吉田は肩を竦(すく)めると、ようやく席を立った。
「はいはい、わかったよ。アンタはひとりでなんだってできるし、アタシの協力なんかいらないってことだな? わかった、わかった」
海瑠は慌てて言った。クライアントの機嫌を損ねるのは得策ではない。
「い、いやっ、そんなことありませんって! ここまでやれたのは、吉田さんのおかげですから!」
「マジで? どういうところが?」
「え、えっと、色々助けてくれたり、アイディアを出してくれたり……わたしひとりじゃ、ここまでやれなかったと思います」
「うんうん」
「でも、あの……今はホントに集中したいんで」
「アハハッ! わかったわかった、じゃあ座禅組むなり、瞑想(めいそう)するなりしなよ。アタシは邪魔しねぇからさ」
どうにか吉田の機嫌をとって追い出すことに成功し、ホッとひと息。あのまま開始まで居座られたら、どうしようかと思った。吉田ならそれくらいはやってもおかしくない。気分屋で、何をしでかすか先が読めないのだ。
(……っと、いけない)
海瑠は再度笑顔を取り繕い、人が集まりつつある観覧席に向かって手を振った。
……悩みがないか、だって? 思春期の女の子をなんだと思ってるんだ? あるに決まってる、そんなもの。いくらでもある。
やっとだ。やっとここまで来られたんだ。今さらどんな悩みがあったって、立ち止まったりするもんか。必ず一位を取って、この田舎町から出ていってやる。もっと広い世界、きらびやかな世界に。そのためなら作り笑顔だって、ご機嫌取りだってしてみせる。
……始まりは、いつだったのだろう?
今、門出が近付こうとする不安と高揚の中で、海瑠は笑顔を浮かべたまま、今日この日に至るまでの軌跡を振り返ってみた。このあまりにも忙しすぎた半年間のこと。そして、海瑠が大それた夢を見始めるに至った軌跡を。
なにも海瑠(みるう)だって、小さい頃からこの町がキライだったわけじゃない。というか、今でも別にキライではない。ただ、ここは自分の居場所ではないと感じているだけだ。ここじゃないどこかに行きたかった。
その日、桜を巻いて桃色に染まった四月の風が、切ったばかりのショートヘアを、さらさらとくすぐって過ぎていった。おろしたてのセーラー服はまだ身体になじまず、自分のものという感じがしない。
中学校の入学式が終わった帰り。昨日まで小学生だった。今日から中学生だ。そう言われても、何が変わったのか、よくわからない。
辺りの風景は、昨日とひとつも変わらない田舎町。まるで田んぼの海のようで、ところどころ浮島のように、数十戸の家々が集まっている。
「──で、どうだった? 初めての中学校は」
隣を歩きながら、よそいきスーツ姿の母が尋ねてきた。
「別に。普通」
海瑠の短い返答に、母は苦笑した。
「あっさりしてるわねぇ。もっと他に感想とかないわけ? 楽しそうだったとか、気になる男の子がいたとかさ」
「別にない。普通」
目を向けてもこない娘に、母は肩を竦め、
「あー、ヤダヤダ。この子ったら、最近妙に冷めてるんだから。反抗期かしら?」
そんなんじゃない! 言い合いになるのも面倒だから黙っていたが、海瑠は心の中でそう言い返した。
反抗期なんて、そんなありきたりな言葉に当てはめられるのは我慢ならない。だって、この苛立ちはオンリーワンなはずだ。
母、手取川(てどりがわ)くるみは、市内でヘアサロンを経営しており、海瑠は物心つく前からヘアカットの実験台にされてきた。この髪型が似合うとか、可愛いとか、あれこれ勝手に決められるのが、そろそろうっとおしい。髪型くらい、もう自分で決められる。わざわざお小遣いを使って、別の美容室に行って切っているのだ。
「ね、なんか食べて帰ろうか? 入学祝いに奮発(ふんぱつ)してあげるからさ」
「……まぁ、いいよ」
くるみの言葉に、海瑠はふてぶてしく頷(うなず)いた。
取り立てて祝うようなことでもないとは思うが、奮発してくれると言うなら文句はない。おいしいものは正義だ。
「しっかし、あんたももう中学生かぁ。早いもんねー、あたしも歳を取るわけだ」
所帯じみたくるみの言葉には、嫌悪感すら覚える。こんな平凡のオバサンが自分の母親という事実は受け入れがたかった。自分はもっとスペシャルで、オンリーワンなはずだ。
そう思っていたのだが、最近、聞き捨てならないウワサを聞いた。
「……ねえ、おかーさん。ちょっと聞きたいんだけど」
自分から話しかけるのはイヤだったが、真偽を確かめなければならない。海瑠はぶっきらぼうに話しかけた。
「ん? なに?」
「『犀川(さいがわ)くるみ』って、おかーさんのことなの?」
くるみは足を止め、驚きの眼差しを海瑠へと向けてきた。
「あんたそれ、どこで?」
「親戚の人たちが言ってたの」
犀川くるみ。
十数年前、当時冬の時代に喘(あえ)いでいたラジオ業界に、彗星(すいせい)の如く現れた伝説的なディスクジョッキー。洒脱にして軽妙なトーク、幅広い話題、リスナーに寄り添うような落ち着いた美声で話題をさらい、エイティーズのラジオ黄金時代、女子大生ブームの再来とも言われた。一時期は冠番組を三つ掛け持つほどの花形だったが、あるとき突然、理由も告げずに引退してしまう。
メディアへの露出がまったくなかったことも災いして、すぐに忘れ去られてしまった……と、海瑠がネットで調べた情報は、こんなところ。
「そっか。まあ、隠してたわけじゃないんだけど……」
母の反応は歯切れが悪かったが、真偽のほどは察することができた。
「じゃあ、本当なんだ?」
「まあ、ね。おかーさん、昔は有名人だったのよ」
直接聞いても、海瑠にはまだ信じられなかった。
店ではスタイリッシュでセンスのあるカリスマ美容師で通っているようだが、家ではてんでだらしないのに。
洗濯物を洗ってすぐ乾かさないから臭いときがあるし、裁縫は壊滅的に下手だし、面倒だからってすぐご飯を店屋物で済ませようとするし。色々と適当すぎるし、家事もサボりがちな、普通の……いや、普通以下のオバサンだと思っていたのに。
心の整理がつかず、海瑠はとっさに憎まれ口を叩いた。
「自分で有名人とか言う? ふつう。品がないよ」
くるみは鼻を鳴らした。
「だって事実だもの。聞かれたから答えただけよ」
「有名人っていっても、ラジオでしょ? テレビに比べたら地味じゃん」
くるみは眉根を寄せた。
「なによあんた、いちいち馬鹿にして」
「別に。事実を言っただけ」
「あのねえ……言っとくけどおかーさん、現役時代にはテレビに出ないかって何度も誘われたんだからね? 全部断ったけどさ」
「うそ。わたしに言われたからって、そんな」
「本当だってば。おかーさんはラジオがやりたかっただけで、テレビに出たかったわけじゃなかったから」
「はいはい」
海瑠のニヒルな態度に、くるみは苦笑。
「あんたねぇ。地味だからダメだとか、派手な方がイイとか、そんなんじゃただミーハーなだけだよ?」
ムカッとした。
「そんなこと言ってないじゃん!」
「あらそう? あたしにはそう聞こえたけど」
「わたし、ミーハーじゃないもん」
「はいはい」
この話はもうおしまい、とでも言いたげに、くるみは再び歩き出した。カツカツとヒールがアスファルトを鳴らす。
「ま、どっちでもいいわよ。あんたにどう思われようと、あたしは好きでやってたんだから。自慢したかったわけじゃないし、芸能人ぶりたかったわけでもない」
離れていく背中に追いすがるように、海瑠は言った。
「じゃあ、なんでやめたの? そんなに好きだったなら」
「さあねー、忘れたわ」
相手にされていない。眼中にない。そんな対応に、ますますいらだちが募る。
「結局やめたなら、一緒じゃんっ!」
くるみからの反論はなかった。
母がどうしてラジオの仕事をやめて、こんな田舎町に帰ってきたのか? その心情が、海瑠には理解できなかった。自分なら絶対に戻ってこなかっただろう。
その答えは、一年経った今でも、ずっと謎のままだ。
次の記憶は、半年前。今年の春。髪型は内巻きのミディボブ。入学式から一年が経ち、中学校生活にも慣れてきた頃。
授業が終わり、自転車に乗って学校を出ると、海瑠(みるう)は制服姿のままでくるみの店へと向かった。
『ヘアサロン・ウォルナット』。
こぢんまりとした歯切れのような土地に建てられた、モダンな外装の平屋。午後四時過ぎ、清潔感のある店内に席数は三つ、うち二つが埋まっている。ひとりはパーマをかけており、ひとりはカット中。有閑マダムを地でいく風貌。近所に住んでいるお得意さんたちだ。
海瑠が入っていくと、キャッシャーカウンターにいたくるみが、目を丸くした。
「あらどうしたの? あんたがお店に来るなんて。珍しいわね」
海瑠の並々ならぬ剣幕に、マダムたちや従業員たちも何ごとかと見ているが、構わずに母へと言った。
「おかーさん、知ってる? ガールズラジオのこと」
「なにそれ?」
海瑠は肩を竦めた。
「はぁ、これだもんなぁ……本当にラジオの仕事してたの?」
「今は美容師だってば」
「あのね、ガルラジっていって──」
ガルラジについて、海瑠は簡潔に説明した。地域振興を目的として、ミニFM放送を行うプロジェクトであること。地元の女性を広く募集していること。徳光パーキングエリアがそのホームに選ばれ、募集が始まったこと……
学校で、ウワサになっていたのだ。クラスの女子たちの主な興味は、単位が免除されるらしいという一点についてだったが。
「──ふぅん、そんなのがあるんだ? 面白いね」
他人事のように言うくるみに、海瑠は背筋を伸ばして宣言した。
「わたし、やってみたい」
くるみは驚きの表情を浮かべ、
「え、あんた、ラジオに興味なんてあったの?」
「ないけど、わたしにもできるかなって。だって、おかーさんでもできたんだし」
海瑠のイキがりっぷりに、くるみは絶句したようだった。
「あんた、そんな甘い考えで……」
「いいじゃん、やってみたいんだもん! 最初なんてみんな、そんなもんじゃないの?」
こんな面倒なやりとりなんかしないで、くるみに内緒のまま応募してもよかったのだが、いざ合格したときには保護者の承諾が必要になる。今のうちに言っておいた方がいいと判断したのだった。
「理由もなしに長続きはしないと思うけど」
「じゃあ、おかーさんにはあったの? ちゃんとした理由」
「それは……」
返答に窮(きゅう)したくるみを追い詰めようとするかのように、海瑠はカウンターに手を突いて身を乗り出した。
「ねえ、やらせてよ。おかーさんよりうまくやれると思うよ」
「またこの子はナマイキなこと言って」
「理由ならあるもん。わたし、有名になりたい。有名になって、この町を出たい。こんな、何にもない田舎町。こんなところにいたら、すぐお婆ちゃんになっちゃうよ」
「……こら、海瑠」
本気の怒りを含んだ母の声に、海瑠は自分が言い過ぎてしまったことを悟った。でも、怖気づいたりはしない。むしろ、キッとくるみを睨み上げた。まるでこの町そのものを睨み付けるかのように。
自分は間違ったことは言ってない。感想を言っただけだ。
「あんたがどう思うかは、あんたの自由。でもそんなこと言われたら、この町が好きで住んでる人がイヤな気持ちになるの、わからない?」
「でも……」
「でもじゃない」
ピシャリと言われて、海瑠は押し黙った。本当のことを言っただけだ。
親子の険悪な雰囲気をものともせず、マダムふたりがやんわりと言った。「まあまあ、店長。うちらのことなら、気にせんといて」「そうそう、うちらも若い頃は、そんな風に考えとったやいね。こんな田舎町っちゅーて!」「うんうん、誰でも考えることやさけぇ」「あはははは」
「すみません……」
くるみは苦笑しつつ、マダムたちに会釈をすると、ため息をひとつついた。
「……まあ、好きにしたら。書類が必要なら、書いてあげる」
海瑠はバッと顔を上げた。
「ほんと? 絶対だよ?」
「でも他の手助けしないからね? そこまで言ったんだから、あんたひとりでやんな。どんだけ大変でも、あたしは手を貸さない」
海瑠は答えずに、きびすを返して店を出た。そんなのは望むところだ。最初から頼る気なんてない。子どもだからできないこと、どうしようもないこと以外には。
自転車に飛び乗って家へと急いだ。そして、ぬいぐるみに埋もれたような自室に駆け込むと、ガルラジのウェブページを開き、オンライン応募のページを開いた。血がたぎるようだった。
だが、情熱の赴くまま一気に書き上げて、送信ボタンを押そうとする段に至って、はたと手を止めた。
(……待ってま、これじゃ受からんかも)
備考欄に『犀川くるみの娘』と書いたのだが、これはダメかもしれない。
まずは受からなければ始まらないので、『立っている者は親でも使え』のことわざどおり、母の威光を拝借しようとしたのだが、自分が審査員なら卑怯(ひきょう)だと思うだろう。
バックスペースを押して、くだんの一行を消した。そうすると、なんの変哲もないただの小娘のプロフィールになった。
(……だっちゃかーん!)
海瑠は頭を抱えた。
もっとダメになってしまった。自分が審査員なら、これは取らない。
どうすればいい? どうすれば受かる? 何か作戦を考えなければ。あれだけくるみに大口を叩いたのだから、落ちたら何と言われるかわからない。それよりなにより、やっとこの町を出られるかもしれないチャンスなのに。
海瑠は一晩中、悩みに悩み抜いた。そして翌日、登校してすぐ、クラスメイトふたりに声を掛けた。
「──ねぇねぇ、ガルラジ一緒にやらんけ?」
それぞれ、美少女と秀才として、学年でそれなりに有名なふたりだ。対する海瑠は一匹狼で、クラスからは浮いてしまっている。
普段から話すような間柄ではないのだが、海瑠には勝算があった。昨日、クラスでガルラジのウワサをしているとき、ふたりとも興味がありそうな素振りを見せていたのだ。
案の定、ふたりとも予想以上の食いつきを見せてくれた。
「おー、いいじー!」
「やろうやろう!」
美少女の方は地元のエンタメ情報誌で読モをやったことがあり、秀才の方は県内の作文コンテストで何度か賞を取っている。このふたりとグループ応募をするというのが、海瑠の考え付いた必勝の策だ。
海瑠は内心、ほくそ笑んだ。
他にもグループ応募枠を狙っている人がいるかもしれない。真っ先に有望な人材を確保できたのは幸いだった。
その日のうちに、スマホから三人のプロフィールを書き込んで送信した。頭をひねってちょっと見栄を張り、自己アピールを考えて。身の丈に合わない、大それた夢を叶えるためには、どんなことでも利用しなきゃいけない。
中学二年生にだって、色々とたくらみはある。
それから三ヵ月ほど経ち、髪型は前下がりショートボブ、今と同じ。
夏休みが近付いた頃、ガルラジの書類審査に合格したという連絡があった。信じられない。いや、信じてはいたが……それでも、信じられない!
中学生になってから二度目の夏服に袖を通し、躍り上がるような気持ちで登校して、ふたりのクラスメイトたちに結果を知らせた。
ふたりは顔を見合わせ、「合格? なんのこと?」「あ……もしかして、ガルラジのことけ?」
海瑠(みるう)とふたりの間には、明らかにテンションの差があった。海瑠は雰囲気を盛り上げようと、つとめて朗らかに言った。
「そうねんて! 合格したんよ、うちら! がんばろまいか」
「……うち、やっぱりパス」「うちも。かんにんに」
ふたりが言うのに、海瑠は目を丸くした。
「な、なんでぇ!?」
「だって、夏休み全部潰れるがやろ? うち、彼氏ができたさけ……」「うちは予備校があるわいねー」
美少女が照れながら言い、秀才が真顔で言う。
「そ、そんな、今さら……」
「正直、もう忘れとったやいね。元々そんな興味あったわけじゃなかったげん」「かんにんにー、手取川さん」
海瑠は、女同士の友情の儚(はかな)さを思い知った。いや、元々そんなに仲の良い間柄でもなかった。海瑠だって利用しよう程度に考えていたのだから、友情なんてあったのかどうかわからない。それからも何度か一緒にやろうと焚きつけたが、ふたりはまるで聞く耳をもってくれなかった。
今週の土曜日には、もう担当者と面接の予定も決まっている。どうすればいい? 正直に言うべきか? でも、合格取り消しになるかもしれない……
困り果てた海瑠は、クラスメイトたちに片っ端から声を掛けて回った。補充の要員がいればどうにかなるかもしれないと考えて。
しかし、みんなの反応は冷たいものだった。
「──ラジオなんて、別に詳しくないげんねぇ」「まだ書類審査通っただけやろ? どうせ無理やって、そんなの」「ていうか、うちら、手取川さんのことよーしらんし」「そーそー、誰? って感じやわ」
海瑠はこの半年間、クラスに溶け込もうとしてこなかった。地元に根付くつもりがないのだから、それでいいと思っていた。そのしわ寄せが今、一気に押し寄せてきた。
「──悪いけど、力になれんぞいね」「うちらも応募しとるんよ。手取川(てどりかわ)さんが落ちてくれたら、うちらが受かるかもしれん」「夏休みは予定あるし、悪いけど……」
グループ応募なんかするんじゃなかった。一匹狼と言えば聞こえはいいが、自分がただのぼっちだと思い知らされて、泣きたくなった。
具体的な解決策がひとつも思い付かないまま、週末が来てしまった。
待ち合わせ場所の最寄り駅へと、重い足取りで向かった。着ていく服を選んでいる心の余裕がなかったので、制服を着ていった。
「──おっ、いたいた。おーい、ミル!」
南口のロータリーの、なんだかよくわからない三角形のオブジェの前で待っていると、いきなり金髪のヤンキー然とした女が話しかけてきた。
海瑠はビクッと肩を竦め、半歩後退った。知らない顔だ。
「な、なんですか? カツアゲですか? お金ならないですよ」
「アハハッ! ちげーよ! アタシがキミの担当者だよ。ガルラジのな」
と、相手は名刺を差し出してきた。
「えっ……あの……本当に?」
名詞と金髪を見比べる海瑠に、女……吉田(よしだ)は、野生動物を思わせる犬歯を見せて笑った。
「アハハッ! マジだっつーの。んで、後のふたりは?」
「あ、えっと……きょ、今日はちょっと……わたしだけです」
ウソをつくつもりはなかったのに、海瑠はとっさに言葉を濁した。
吉田は特に訝(いぶか)しがる様子もなく、
「そうなんだ? 残念。読モの子に一番期待してるから、会っときたかったんだけど」
海瑠は一瞬、立場も忘れてムッとした。目の前に自分がいるというのに、無神経すぎやしないか? まるでおまけみたいな扱いして。
(わたし、この人きらいやわ……)
このときの第一印象は、ずっと変わっていない。今では少しは慣れたけど。
「っと……じゃあ、どっか入ろーか。ちょっと長い話になるからさ」
「あ、はい」
吉田の後に続き、ロータリー脇のビルの喫茶店に入った。席に着いてすぐ、吉田は書類を取り出し、チーム徳光についての説明を始めた。
しかし海瑠は、半分も聞いていなかった。
自分は今、ウソをついている。もしバレたらどうなるのか? そのことで頭がいっぱいだった。本当のことを言わなければいけないとわかっているのに、勇気が出ない。
やっと目の前に、新しい扉が開きかけている。この町を出るためのチケットに指が届きかけている。そこから手を離すことは、遠い夢に手を伸ばすより難しいことだった。
どう切り出すべきか、言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。
「──で、徳光パーキングエリアをホームにして、放送をしてもらうってワケ。まあ大体、ホームページの応募要項に書いてあったとおりね。夏休み中にある程度、どういう放送をするか計画を立ててもらって……」
「……あの、吉田さん」
ついに、海瑠は口を開いた。
「うん?」
「もしも、ですけど……もしもわたしが、家の事情とかで、辞めたくなったら……」
吉田は驚いた顔で、
「え? ミル、もう辞めたいの?」
「もしもの話です!」
「ああ、うん。もしもね、OKOK」
海瑠はかすかに息を吐いた。太ももの上でぎゅっと握った両手が震える。
「もしも……わたしが、どうしようもない事情で辞めるって言ったら。後のふたりは、どうなりますか?」
吉田は眉間にしわを寄せた。
「うーん、そうだねぇ……アタシの一存じゃ、ちょっと判断しきれねーけど。多分、みんな不合格になるんじゃない?」
海瑠は思わず腰を浮かせた。
「な、なんっ……なんで、ですか? ふたりはやる気があってもですか? 別の誰かを補充するとか!」
「もしかしたら、そうなるかもしれないけど。グループ枠で採用されたわけだから、難しいんじゃないかな。上の判断次第だけどさ」
「そう、ですか……」
目に見えて落ち込む海瑠に、吉田は遠慮がちに尋ねた。
「で、ミル、辞めたいの?」
「だっ、だから、もしもの話って、言うとるがやろっ!」
精神的に追い詰められていたので思わず怒鳴ってしまったが、吉田はまるで気にしない風に笑った。
「アハハッ! でもさー、そんなこと言われるとやっぱ、やる気ないのかなーって、ちょっと心配になっちゃうもんよ?」
「……やる気なら、あります」
海瑠の真剣な眼差しに、吉田はふと笑った。
「OKOK! そんなおっかない顔しなくても、信じるって。んじゃ、これからよろしくね~、ミル!」
「……ミルウです。わたしの名前」
「え?」
「それでミルウって読むんです」
「あ、そうなんだ……ミルーね、了解っと」
結局、本当のことは言えないまま、顔見世は終わってしまった。もうどうしたらいいかわからない。
それから、海瑠の奮闘の日々が始まった。
ウソにウソを重ねなければいけない手間、ウソをつき続けなければならないストレスに加え、夏休みに突入すると、本来三人で分担するはずの業務が重く圧し掛かってきた。プロデューサーとして予算決定の資料を書き、脚本家兼ディレクターとして台本を書いて演出を考え、吉田とメールのやり取りをする……
「──あんた大丈夫? 目の下にクマができてるけど……」
くるみにまで心配される始末。
「だ、大丈夫だから、心配せんといてっ!」
合わせる顔がない気持ちが強くて、海瑠はあまり部屋から出なくなった。
そうこうするうちに、夏休みの初週が過ぎた頃、いよいよのっぴきならない展開がやってきた。吉田がもう一度、三人で顔合わせをしておこうと言い出したのだ。
以前と同じ駅前のオブジェの前、ひとりでぽつんと立っている海瑠を見て、吉田は不思議そうに言った。
「あれっ? 今日もいねぇの? ふたり。始まるまで一度も顔合わせないってのは、ちょっと問題あるぞ」
海瑠は観念した。もうこれ以上は限界だ。精神的にムリだ。
「……吉田さん、ごめんなさいっ!」
「え? なに?」
そうして、クラスメイトに逃げられてしまったことを告白した。感情が高ぶって、目に涙がにじんだが、泣くまいと努力した。悪いことをした方が泣いたら卑劣だ。
全て聞き終えると、吉田はふぅとひと息ついた。
「……ま、とりあえず、店に入んべ? 暑っちーし」
喫茶店に入り席に座っても、海瑠は俯(うつむ)いたままだった。吉田の顔が見られない。これでおしまいだと思えば、また涙がにじんだ。
すすけたこの町で、誰とも仲良くなれないままで、ずっと暮らすんだ……
「さーて、っと……おい、ミルッ!」
「は、はいっ!」
いきなり号令のように呼ばれて、海瑠は反射的に顔を上げた。目の前に、吉田の思いのほか真剣な表情があった。
「アンタ、こないだあったとき、やる気あるって言ってたよね? アレもウソなわけ?」
「い、いや……やる気は、あります」
我ながら白々しい言葉だと思ったが、吉田はニッと笑った。
「よし! アンタの事情はわかった。ま、中学二年生だもんなぁ、しょーがねぇよな。アタシも中二んときは、そんなもんだったと思うし」
中学二年生だから。子どもだから。そう言われても仕方ない。膝の上で拳を握り、海瑠は唇を噛んだ。一緒にしないで、と言う権利さえ、今の自分にはない。
「──で、これからの話だけど……アンタ、このままやらせてやるよ」
「は、え……え?」
戸惑う海瑠に、吉田は犬歯を見せて笑った。
「ひとりでやっちゃえ。大丈夫、ものすげー大変だろうけど、アンタならできるって!」
わたしの何を知っているんだ、と思ったが、それよりも思考が追い付かない。
「それって、えっと……つまり、どういうこと?」
「ニブいねぇ……このままウソをつきとおすってコト! 上層部をダマして、番組を始めちまってさ、一位を取っちゃおーぜ? そうすりゃ本当のコトを言ったって、アンタを下ろせなくなるべ。実績っつーのは強いからね」
「そ……そんな、だらなこと……!」
吉田は悪魔のように笑みを深めた。
「やる気、あるっつったろ? アタシも今さら、ダメでしたーなんて、上に報告したくねーんだよ」
絶句している海瑠へと、吉田は続ける。
「そのかわり、やるならアタシの言うとおりにしてもらう。アタシってさ、今は東京に住んでっけど、この町の出身なんだわ。だから、貢献したいって思いも強いワケ。アンタとなら好き勝手できそうだしね? アハハッ!」
吉田はひとしきり笑うと、片手を持ち上げ、握手の形にして差し出してきた。その瞳は、三日月のような形に歪んでいる。
「さ……どうする? やる? やめとく?」
この女は、本当に悪魔なのかもしれないと思った。もうどうしたらいいかわからない。
……でも、海瑠の右手は、自然とその手を握り返していた。身の丈に合わない、大それた夢を叶えるためには、どんなことでも利用しなきゃいけない。
覚悟を決めるときだ。
「やります」
「アハハッ! いいね!」
吉田は笑顔のまま、演技じみて首をかたむけ、手を一度振ってから離した。
「んじゃ、大博打といってみよーじゃないの! これでアンタとアタシは共犯だ。よろしくな、ミル」
間違えられた名前は、訂正しなかった。
吉田がもし本当に悪魔だとして、本当の名前を知られていない方が、魂を取られないで済むかもしれないから。
それからの毎日は、思い出そうとするともやが掛かったようになってしまう。あまりに忙しすぎて、記憶が曖昧だ。
番組の内容について、吉田は言った通り、全面的に口を出してきた。そのことで助かったかと言えばそんなことはなく、しっちゃかめっちゃかにされた感が強い。ほとんどが吉田(よしだ)の思い付きで構成されたコンセプトを見ても、ウケるかどうか判別がつかなかった。
……というかぶっちゃけ、こんな番組はやりたくない。
しかし、背に腹は代えられないのだった。目的はこの町を出ること。それを忘れてはいけない。そのためには吉田の言うことには従うしかない。どれほど理不尽でも。
まあ、海瑠(みるう)のウソがバレることがなかった点を鑑みるに、色々と根回ししてくれていたのかもしれないので、その点では感謝している。
そして今、海瑠は徳光パーキングエリアの休憩所で、笑顔を取り繕い、人が集まりつつある観覧席に向かって手を振っているのだった。
ブースのすぐ外では、何をしているやら、吉田はだらけた様子でスマホをいじっている。
(……悪魔や、あの人は)
それでも多分、別の人が担当者だったら、自分は今ここにいなかっただろう。それがよかったのか悪かったのかは、まだわからない。
そしてついに、時計の秒針が七時三〇分を告げた。
(やってやる……やってやるうぇー!)
自分を奮い立たせて、ことに臨む。覚えたての慣れない手つきでPA機器をいじり、付け焼き刃のDTM技術で作ったジングルを流した。その曲のドラムよりだいぶ早いリズムで、心臓の鼓動はビートを刻んでいる。
さあ、いよいよだ。この穏やかで何もない海辺の町から飛び出して、約束された未来へと向かうのだ。海瑠の胸の奥で、見果てぬ夢が燃えていた。
ジングルをしぼっていき、代わりに大きく息を吸い込む……
「──がーるじゅらじお、とくみつぐみぃーっ!」
いきなり噛んだ。負けない。
「こっ……こんばんはーっ! ミルミルだよぉーっ☆ みんなーっ、ミルミルのこと、待っててくれたよねぇ~? はいっ!」
観覧席から、レスポンスはなかった。それどころか静まり返っている。みんな口を半分開いて、茫然としているようだ。
吉田の言葉を思い出す。
『アンタ、いまいち華がないんだよねぇ……あっ、そうだ! なんかキャラ作ってみねぇ? ほら、アイドルっぽくさ。ミルミルとかっつって、設定作って。コレいけるっしょ? 面白いって!』
……泣きたくなってきたが、今さら止まったりはしない。この道の先に、海瑠の行くべき未来が待っているのだ。
絶対に立ち止まったりしない。絶対にだ。
「あっれれぇぇ~? みんな、ミルミルのこと、知らないのかなぁ~? じゃあ、ちょっとだけ自己紹介するねっ☆ ミルミルは、ミルミル星のプリンセスなんだよぉ~! ミルミル星は、愛と平和の星でぇ~、戦争とかないんだぁ~♪ ミルミルはぁ、この地球に愛と平和をもたらすために! 流れ星に乗って、やってきたんだよぉ~☆」
自分はこんなことがしたかったのだろうか? もっとクールでスタイリッシュな放送にするはずだったのに。もうわからない。
海瑠は止まらなかった。静けさに包まれた中、並々ならぬ精神力で、最後まできっちりこのキャラを演じてみせた。
そして、初週の順位は……最下位だった。
「──アハハハハッ! アンタ、最高だったよ! え、順位? まぁいいじゃん! すっげー面白かったよ、アハハハッ!」
駅近くのファミレスにて打ち合わせ中、吉田はそう言って笑いながら、海瑠の肩をバンバンと叩くのだった。
一位を取るまで、吉田との共犯関係は解消されないのだろう。胃の痛くなるような海瑠の日々は、もうしばらく続きそうだった。
原作・多宇部貞人氏による小説「ガールズ ラジオ デイズ」
ガルラジのネットラジオ番組だけではわからない、彼女たちの日常が明らかになる!?
多宇部貞人 @taubesadato
<代表作>
シロクロネクロ(電撃文庫、全4巻) / 断罪のレガリア(電撃文庫、全2巻) / 封神裁判(電撃文庫、全2巻) 他
石川県白山市徳光町、日本海沿岸を走る北陸自動車道の途中に位置する、徳光パーキングエリア。駐車場に車を停めると、そのまま海辺まで歩いて行けるという好立地に加え、様々なレジャー施設が近くにあるため、夏には多くの観光客でにぎわう。しかし、シーズンオフの今は、穏やかな空気が流れていた。
金曜の午後七時過ぎ。
二階、無料休憩所の一角にしつらえられた放送ブース。
「……はああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
ブース内、PA機器やノートパソコン、マイクに囲まれた放送席で、ガールズラジオ、チーム徳光のメインパーソナリティー、手取川海瑠(てどりがわみるう)は、深い深い息を吐いた。若干十五歳、中学二年生の少女とは思えないほど重い吐息。人生に疲れ切ったサラリーマンが、場末の居酒屋で吐くような。
記念すべき第一回の放送が、やっと始まろうとしている。どうにかここまで漕ぎつけた。これからが始まりだというのに、正直もう終わったような気分だ。
(……っと、ダメ)
海瑠(みるう)は慌てて背筋を伸ばし、笑顔を維持した。そろそろちらほらと観覧客も集まってきている。疲れた顔を見せるわけにはいかない。
「──おゥ、ミル! おつかれサン!」
と、軽い調子で言いながらブースに入ってきたのは、スーツ姿の若い女だった。本当に社会人なのか疑いたくなるような金髪で、犬歯を見せるその笑顔には、どこか野性味がある。彼女の名は吉田(よしだ)、チーム徳光の担当者だ。つまり、海瑠にとってクライアント側の人間ということになるが……
海瑠はムッとして言った。
「ミルじゃなくて、ミルウです。何べんも言うてるがやろ……」
語尾は小さく消える。
吉田は笑いながら、海瑠の横の椅子に浅く座った。
「ミルーってなんか、呼びづれーじゃん? 変わった名前だよねー、アハハッ!」
海瑠は彼女のことが苦手だった。性格が合わないというのも大いにあるが、どことなく母親と似たものを感じるからだ。
ひと息ついて、苛立ちを追い出す。
「……何の用ですか? もうじき始まるんですけど」
「そうそう、もうじき! だから、ミルの激励に来てやったってワケ」
「は、はぁ? 激励……」
吉田はテーブルに頬杖(ほおづえ)を突くと、海瑠にへたくそなウインクをしてみせた。
「アンタ、けっこう根性あんじゃん? 見直したよ。正直アタシ、途中で投げ出すかと思ってたわ」
海瑠は眉間にしわをよせ、
「……それって激励?」
吉田は空いた片手をひらりと振り、
「これでもホメてんだって。実際スゲーよ? ひとりでやりきっちまうなんて。ホントよくやったね、えらいえらい!」
ともすれば、おちょくられているのかと思えるほどの、あからさまな子ども扱い。怒りがカッと燃え上がりそうになったが、どうにか我慢した。
彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。吉田がガルラジの担当だというのもあるが、それ以外の理由もある。
「……いいから、とにかく出てってください。集中したいんで」
海瑠がやんわりと言っても、吉田は席を立とうとしなかった。
「なによ、あと三〇分くらいあるじゃん。アタシもちょっとは、ミルの役に立ちたいなーって思ってんのよ? アタシって、舎弟の面倒見はいい方だからさ」
「はあ……役に立つって、どうやって?」
「よくあるじゃん? アイドルとか、本番直前に緊張しちゃったりして。マネージャーがさ、オマエならやれる! みたいに励ますヤツ。ああいうの、アタシもやりたいんだよね。ってワケで……悩みとか、ない?」
ずいっと身を乗り出してくる吉田。
「ないです」
「そこをなんとか、ひねり出してみてよ」
「出ませんって、そんな! いきなり言われたって……」
吉田は肩を竦(すく)めると、ようやく席を立った。
「はいはい、わかったよ。アンタはひとりでなんだってできるし、アタシの協力なんかいらないってことだな? わかった、わかった」
海瑠は慌てて言った。クライアントの機嫌を損ねるのは得策ではない。
「い、いやっ、そんなことありませんって! ここまでやれたのは、吉田さんのおかげですから!」
「マジで? どういうところが?」
「え、えっと、色々助けてくれたり、アイディアを出してくれたり……わたしひとりじゃ、ここまでやれなかったと思います」
「うんうん」
「でも、あの……今はホントに集中したいんで」
「アハハッ! わかったわかった、じゃあ座禅組むなり、瞑想(めいそう)するなりしなよ。アタシは邪魔しねぇからさ」
どうにか吉田の機嫌をとって追い出すことに成功し、ホッとひと息。あのまま開始まで居座られたら、どうしようかと思った。吉田ならそれくらいはやってもおかしくない。気分屋で、何をしでかすか先が読めないのだ。
(……っと、いけない)
海瑠は再度笑顔を取り繕い、人が集まりつつある観覧席に向かって手を振った。
……悩みがないか、だって? 思春期の女の子をなんだと思ってるんだ? あるに決まってる、そんなもの。いくらでもある。
やっとだ。やっとここまで来られたんだ。今さらどんな悩みがあったって、立ち止まったりするもんか。必ず一位を取って、この田舎町から出ていってやる。もっと広い世界、きらびやかな世界に。そのためなら作り笑顔だって、ご機嫌取りだってしてみせる。
……始まりは、いつだったのだろう?
今、門出が近付こうとする不安と高揚の中で、海瑠は笑顔を浮かべたまま、今日この日に至るまでの軌跡を振り返ってみた。このあまりにも忙しすぎた半年間のこと。そして、海瑠が大それた夢を見始めるに至った軌跡を。
なにも海瑠(みるう)だって、小さい頃からこの町がキライだったわけじゃない。というか、今でも別にキライではない。ただ、ここは自分の居場所ではないと感じているだけだ。ここじゃないどこかに行きたかった。
その日、桜を巻いて桃色に染まった四月の風が、切ったばかりのショートヘアを、さらさらとくすぐって過ぎていった。おろしたてのセーラー服はまだ身体になじまず、自分のものという感じがしない。
中学校の入学式が終わった帰り。昨日まで小学生だった。今日から中学生だ。そう言われても、何が変わったのか、よくわからない。
辺りの風景は、昨日とひとつも変わらない田舎町。まるで田んぼの海のようで、ところどころ浮島のように、数十戸の家々が集まっている。
「──で、どうだった? 初めての中学校は」
隣を歩きながら、よそいきスーツ姿の母が尋ねてきた。
「別に。普通」
海瑠の短い返答に、母は苦笑した。
「あっさりしてるわねぇ。もっと他に感想とかないわけ? 楽しそうだったとか、気になる男の子がいたとかさ」
「別にない。普通」
目を向けてもこない娘に、母は肩を竦め、
「あー、ヤダヤダ。この子ったら、最近妙に冷めてるんだから。反抗期かしら?」
そんなんじゃない! 言い合いになるのも面倒だから黙っていたが、海瑠は心の中でそう言い返した。
反抗期なんて、そんなありきたりな言葉に当てはめられるのは我慢ならない。だって、この苛立ちはオンリーワンなはずだ。
母、手取川(てどりがわ)くるみは、市内でヘアサロンを経営しており、海瑠は物心つく前からヘアカットの実験台にされてきた。この髪型が似合うとか、可愛いとか、あれこれ勝手に決められるのが、そろそろうっとおしい。髪型くらい、もう自分で決められる。わざわざお小遣いを使って、別の美容室に行って切っているのだ。
「ね、なんか食べて帰ろうか? 入学祝いに奮発(ふんぱつ)してあげるからさ」
「……まぁ、いいよ」
くるみの言葉に、海瑠はふてぶてしく頷(うなず)いた。
取り立てて祝うようなことでもないとは思うが、奮発してくれると言うなら文句はない。おいしいものは正義だ。
「しっかし、あんたももう中学生かぁ。早いもんねー、あたしも歳を取るわけだ」
所帯じみたくるみの言葉には、嫌悪感すら覚える。こんな平凡のオバサンが自分の母親という事実は受け入れがたかった。自分はもっとスペシャルで、オンリーワンなはずだ。
そう思っていたのだが、最近、聞き捨てならないウワサを聞いた。
「……ねえ、おかーさん。ちょっと聞きたいんだけど」
自分から話しかけるのはイヤだったが、真偽を確かめなければならない。海瑠はぶっきらぼうに話しかけた。
「ん? なに?」
「『犀川(さいがわ)くるみ』って、おかーさんのことなの?」
くるみは足を止め、驚きの眼差しを海瑠へと向けてきた。
「あんたそれ、どこで?」
「親戚の人たちが言ってたの」
犀川くるみ。
十数年前、当時冬の時代に喘(あえ)いでいたラジオ業界に、彗星(すいせい)の如く現れた伝説的なディスクジョッキー。洒脱にして軽妙なトーク、幅広い話題、リスナーに寄り添うような落ち着いた美声で話題をさらい、エイティーズのラジオ黄金時代、女子大生ブームの再来とも言われた。一時期は冠番組を三つ掛け持つほどの花形だったが、あるとき突然、理由も告げずに引退してしまう。
メディアへの露出がまったくなかったことも災いして、すぐに忘れ去られてしまった……と、海瑠がネットで調べた情報は、こんなところ。
「そっか。まあ、隠してたわけじゃないんだけど……」
母の反応は歯切れが悪かったが、真偽のほどは察することができた。
「じゃあ、本当なんだ?」
「まあ、ね。おかーさん、昔は有名人だったのよ」
直接聞いても、海瑠にはまだ信じられなかった。
店ではスタイリッシュでセンスのあるカリスマ美容師で通っているようだが、家ではてんでだらしないのに。
洗濯物を洗ってすぐ乾かさないから臭いときがあるし、裁縫は壊滅的に下手だし、面倒だからってすぐご飯を店屋物で済ませようとするし。色々と適当すぎるし、家事もサボりがちな、普通の……いや、普通以下のオバサンだと思っていたのに。
心の整理がつかず、海瑠はとっさに憎まれ口を叩いた。
「自分で有名人とか言う? ふつう。品がないよ」
くるみは鼻を鳴らした。
「だって事実だもの。聞かれたから答えただけよ」
「有名人っていっても、ラジオでしょ? テレビに比べたら地味じゃん」
くるみは眉根を寄せた。
「なによあんた、いちいち馬鹿にして」
「別に。事実を言っただけ」
「あのねえ……言っとくけどおかーさん、現役時代にはテレビに出ないかって何度も誘われたんだからね? 全部断ったけどさ」
「うそ。わたしに言われたからって、そんな」
「本当だってば。おかーさんはラジオがやりたかっただけで、テレビに出たかったわけじゃなかったから」
「はいはい」
海瑠のニヒルな態度に、くるみは苦笑。
「あんたねぇ。地味だからダメだとか、派手な方がイイとか、そんなんじゃただミーハーなだけだよ?」
ムカッとした。
「そんなこと言ってないじゃん!」
「あらそう? あたしにはそう聞こえたけど」
「わたし、ミーハーじゃないもん」
「はいはい」
この話はもうおしまい、とでも言いたげに、くるみは再び歩き出した。カツカツとヒールがアスファルトを鳴らす。
「ま、どっちでもいいわよ。あんたにどう思われようと、あたしは好きでやってたんだから。自慢したかったわけじゃないし、芸能人ぶりたかったわけでもない」
離れていく背中に追いすがるように、海瑠は言った。
「じゃあ、なんでやめたの? そんなに好きだったなら」
「さあねー、忘れたわ」
相手にされていない。眼中にない。そんな対応に、ますますいらだちが募る。
「結局やめたなら、一緒じゃんっ!」
くるみからの反論はなかった。
母がどうしてラジオの仕事をやめて、こんな田舎町に帰ってきたのか? その心情が、海瑠には理解できなかった。自分なら絶対に戻ってこなかっただろう。
その答えは、一年経った今でも、ずっと謎のままだ。
次の記憶は、半年前。今年の春。髪型は内巻きのミディボブ。入学式から一年が経ち、中学校生活にも慣れてきた頃。
授業が終わり、自転車に乗って学校を出ると、海瑠(みるう)は制服姿のままでくるみの店へと向かった。
『ヘアサロン・ウォルナット』。
こぢんまりとした歯切れのような土地に建てられた、モダンな外装の平屋。午後四時過ぎ、清潔感のある店内に席数は三つ、うち二つが埋まっている。ひとりはパーマをかけており、ひとりはカット中。有閑マダムを地でいく風貌。近所に住んでいるお得意さんたちだ。
海瑠が入っていくと、キャッシャーカウンターにいたくるみが、目を丸くした。
「あらどうしたの? あんたがお店に来るなんて。珍しいわね」
海瑠の並々ならぬ剣幕に、マダムたちや従業員たちも何ごとかと見ているが、構わずに母へと言った。
「おかーさん、知ってる? ガールズラジオのこと」
「なにそれ?」
海瑠は肩を竦めた。
「はぁ、これだもんなぁ……本当にラジオの仕事してたの?」
「今は美容師だってば」
「あのね、ガルラジっていって──」
ガルラジについて、海瑠は簡潔に説明した。地域振興を目的として、ミニFM放送を行うプロジェクトであること。地元の女性を広く募集していること。徳光パーキングエリアがそのホームに選ばれ、募集が始まったこと……
学校で、ウワサになっていたのだ。クラスの女子たちの主な興味は、単位が免除されるらしいという一点についてだったが。
「──ふぅん、そんなのがあるんだ? 面白いね」
他人事のように言うくるみに、海瑠は背筋を伸ばして宣言した。
「わたし、やってみたい」
くるみは驚きの表情を浮かべ、
「え、あんた、ラジオに興味なんてあったの?」
「ないけど、わたしにもできるかなって。だって、おかーさんでもできたんだし」
海瑠のイキがりっぷりに、くるみは絶句したようだった。
「あんた、そんな甘い考えで……」
「いいじゃん、やってみたいんだもん! 最初なんてみんな、そんなもんじゃないの?」
こんな面倒なやりとりなんかしないで、くるみに内緒のまま応募してもよかったのだが、いざ合格したときには保護者の承諾が必要になる。今のうちに言っておいた方がいいと判断したのだった。
「理由もなしに長続きはしないと思うけど」
「じゃあ、おかーさんにはあったの? ちゃんとした理由」
「それは……」
返答に窮(きゅう)したくるみを追い詰めようとするかのように、海瑠はカウンターに手を突いて身を乗り出した。
「ねえ、やらせてよ。おかーさんよりうまくやれると思うよ」
「またこの子はナマイキなこと言って」
「理由ならあるもん。わたし、有名になりたい。有名になって、この町を出たい。こんな、何にもない田舎町。こんなところにいたら、すぐお婆ちゃんになっちゃうよ」
「……こら、海瑠」
本気の怒りを含んだ母の声に、海瑠は自分が言い過ぎてしまったことを悟った。でも、怖気づいたりはしない。むしろ、キッとくるみを睨み上げた。まるでこの町そのものを睨み付けるかのように。
自分は間違ったことは言ってない。感想を言っただけだ。
「あんたがどう思うかは、あんたの自由。でもそんなこと言われたら、この町が好きで住んでる人がイヤな気持ちになるの、わからない?」
「でも……」
「でもじゃない」
ピシャリと言われて、海瑠は押し黙った。本当のことを言っただけだ。
親子の険悪な雰囲気をものともせず、マダムふたりがやんわりと言った。「まあまあ、店長。うちらのことなら、気にせんといて」「そうそう、うちらも若い頃は、そんな風に考えとったやいね。こんな田舎町っちゅーて!」「うんうん、誰でも考えることやさけぇ」「あはははは」
「すみません……」
くるみは苦笑しつつ、マダムたちに会釈をすると、ため息をひとつついた。
「……まあ、好きにしたら。書類が必要なら、書いてあげる」
海瑠はバッと顔を上げた。
「ほんと? 絶対だよ?」
「でも他の手助けしないからね? そこまで言ったんだから、あんたひとりでやんな。どんだけ大変でも、あたしは手を貸さない」
海瑠は答えずに、きびすを返して店を出た。そんなのは望むところだ。最初から頼る気なんてない。子どもだからできないこと、どうしようもないこと以外には。
自転車に飛び乗って家へと急いだ。そして、ぬいぐるみに埋もれたような自室に駆け込むと、ガルラジのウェブページを開き、オンライン応募のページを開いた。血がたぎるようだった。
だが、情熱の赴くまま一気に書き上げて、送信ボタンを押そうとする段に至って、はたと手を止めた。
(……待ってま、これじゃ受からんかも)
備考欄に『犀川くるみの娘』と書いたのだが、これはダメかもしれない。
まずは受からなければ始まらないので、『立っている者は親でも使え』のことわざどおり、母の威光を拝借しようとしたのだが、自分が審査員なら卑怯(ひきょう)だと思うだろう。
バックスペースを押して、くだんの一行を消した。そうすると、なんの変哲もないただの小娘のプロフィールになった。
(……だっちゃかーん!)
海瑠は頭を抱えた。
もっとダメになってしまった。自分が審査員なら、これは取らない。
どうすればいい? どうすれば受かる? 何か作戦を考えなければ。あれだけくるみに大口を叩いたのだから、落ちたら何と言われるかわからない。それよりなにより、やっとこの町を出られるかもしれないチャンスなのに。
海瑠は一晩中、悩みに悩み抜いた。そして翌日、登校してすぐ、クラスメイトふたりに声を掛けた。
「──ねぇねぇ、ガルラジ一緒にやらんけ?」
それぞれ、美少女と秀才として、学年でそれなりに有名なふたりだ。対する海瑠は一匹狼で、クラスからは浮いてしまっている。
普段から話すような間柄ではないのだが、海瑠には勝算があった。昨日、クラスでガルラジのウワサをしているとき、ふたりとも興味がありそうな素振りを見せていたのだ。
案の定、ふたりとも予想以上の食いつきを見せてくれた。
「おー、いいじー!」
「やろうやろう!」
美少女の方は地元のエンタメ情報誌で読モをやったことがあり、秀才の方は県内の作文コンテストで何度か賞を取っている。このふたりとグループ応募をするというのが、海瑠の考え付いた必勝の策だ。
海瑠は内心、ほくそ笑んだ。
他にもグループ応募枠を狙っている人がいるかもしれない。真っ先に有望な人材を確保できたのは幸いだった。
その日のうちに、スマホから三人のプロフィールを書き込んで送信した。頭をひねってちょっと見栄を張り、自己アピールを考えて。身の丈に合わない、大それた夢を叶えるためには、どんなことでも利用しなきゃいけない。
中学二年生にだって、色々とたくらみはある。
それから三ヵ月ほど経ち、髪型は前下がりショートボブ、今と同じ。
夏休みが近付いた頃、ガルラジの書類審査に合格したという連絡があった。信じられない。いや、信じてはいたが……それでも、信じられない!
中学生になってから二度目の夏服に袖を通し、躍り上がるような気持ちで登校して、ふたりのクラスメイトたちに結果を知らせた。
ふたりは顔を見合わせ、「合格? なんのこと?」「あ……もしかして、ガルラジのことけ?」
海瑠(みるう)とふたりの間には、明らかにテンションの差があった。海瑠は雰囲気を盛り上げようと、つとめて朗らかに言った。
「そうねんて! 合格したんよ、うちら! がんばろまいか」
「……うち、やっぱりパス」「うちも。かんにんに」
ふたりが言うのに、海瑠は目を丸くした。
「な、なんでぇ!?」
「だって、夏休み全部潰れるがやろ? うち、彼氏ができたさけ……」「うちは予備校があるわいねー」
美少女が照れながら言い、秀才が真顔で言う。
「そ、そんな、今さら……」
「正直、もう忘れとったやいね。元々そんな興味あったわけじゃなかったげん」「かんにんにー、手取川さん」
海瑠は、女同士の友情の儚(はかな)さを思い知った。いや、元々そんなに仲の良い間柄でもなかった。海瑠だって利用しよう程度に考えていたのだから、友情なんてあったのかどうかわからない。それからも何度か一緒にやろうと焚きつけたが、ふたりはまるで聞く耳をもってくれなかった。
今週の土曜日には、もう担当者と面接の予定も決まっている。どうすればいい? 正直に言うべきか? でも、合格取り消しになるかもしれない……
困り果てた海瑠は、クラスメイトたちに片っ端から声を掛けて回った。補充の要員がいればどうにかなるかもしれないと考えて。
しかし、みんなの反応は冷たいものだった。
「──ラジオなんて、別に詳しくないげんねぇ」「まだ書類審査通っただけやろ? どうせ無理やって、そんなの」「ていうか、うちら、手取川さんのことよーしらんし」「そーそー、誰? って感じやわ」
海瑠はこの半年間、クラスに溶け込もうとしてこなかった。地元に根付くつもりがないのだから、それでいいと思っていた。そのしわ寄せが今、一気に押し寄せてきた。
「──悪いけど、力になれんぞいね」「うちらも応募しとるんよ。手取川(てどりかわ)さんが落ちてくれたら、うちらが受かるかもしれん」「夏休みは予定あるし、悪いけど……」
グループ応募なんかするんじゃなかった。一匹狼と言えば聞こえはいいが、自分がただのぼっちだと思い知らされて、泣きたくなった。
具体的な解決策がひとつも思い付かないまま、週末が来てしまった。
待ち合わせ場所の最寄り駅へと、重い足取りで向かった。着ていく服を選んでいる心の余裕がなかったので、制服を着ていった。
「──おっ、いたいた。おーい、ミル!」
南口のロータリーの、なんだかよくわからない三角形のオブジェの前で待っていると、いきなり金髪のヤンキー然とした女が話しかけてきた。
海瑠はビクッと肩を竦め、半歩後退った。知らない顔だ。
「な、なんですか? カツアゲですか? お金ならないですよ」
「アハハッ! ちげーよ! アタシがキミの担当者だよ。ガルラジのな」
と、相手は名刺を差し出してきた。
「えっ……あの……本当に?」
名詞と金髪を見比べる海瑠に、女……吉田(よしだ)は、野生動物を思わせる犬歯を見せて笑った。
「アハハッ! マジだっつーの。んで、後のふたりは?」
「あ、えっと……きょ、今日はちょっと……わたしだけです」
ウソをつくつもりはなかったのに、海瑠はとっさに言葉を濁した。
吉田は特に訝(いぶか)しがる様子もなく、
「そうなんだ? 残念。読モの子に一番期待してるから、会っときたかったんだけど」
海瑠は一瞬、立場も忘れてムッとした。目の前に自分がいるというのに、無神経すぎやしないか? まるでおまけみたいな扱いして。
(わたし、この人きらいやわ……)
このときの第一印象は、ずっと変わっていない。今では少しは慣れたけど。
「っと……じゃあ、どっか入ろーか。ちょっと長い話になるからさ」
「あ、はい」
吉田の後に続き、ロータリー脇のビルの喫茶店に入った。席に着いてすぐ、吉田は書類を取り出し、チーム徳光についての説明を始めた。
しかし海瑠は、半分も聞いていなかった。
自分は今、ウソをついている。もしバレたらどうなるのか? そのことで頭がいっぱいだった。本当のことを言わなければいけないとわかっているのに、勇気が出ない。
やっと目の前に、新しい扉が開きかけている。この町を出るためのチケットに指が届きかけている。そこから手を離すことは、遠い夢に手を伸ばすより難しいことだった。
どう切り出すべきか、言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。
「──で、徳光パーキングエリアをホームにして、放送をしてもらうってワケ。まあ大体、ホームページの応募要項に書いてあったとおりね。夏休み中にある程度、どういう放送をするか計画を立ててもらって……」
「……あの、吉田さん」
ついに、海瑠は口を開いた。
「うん?」
「もしも、ですけど……もしもわたしが、家の事情とかで、辞めたくなったら……」
吉田は驚いた顔で、
「え? ミル、もう辞めたいの?」
「もしもの話です!」
「ああ、うん。もしもね、OKOK」
海瑠はかすかに息を吐いた。太ももの上でぎゅっと握った両手が震える。
「もしも……わたしが、どうしようもない事情で辞めるって言ったら。後のふたりは、どうなりますか?」
吉田は眉間にしわを寄せた。
「うーん、そうだねぇ……アタシの一存じゃ、ちょっと判断しきれねーけど。多分、みんな不合格になるんじゃない?」
海瑠は思わず腰を浮かせた。
「な、なんっ……なんで、ですか? ふたりはやる気があってもですか? 別の誰かを補充するとか!」
「もしかしたら、そうなるかもしれないけど。グループ枠で採用されたわけだから、難しいんじゃないかな。上の判断次第だけどさ」
「そう、ですか……」
目に見えて落ち込む海瑠に、吉田は遠慮がちに尋ねた。
「で、ミル、辞めたいの?」
「だっ、だから、もしもの話って、言うとるがやろっ!」
精神的に追い詰められていたので思わず怒鳴ってしまったが、吉田はまるで気にしない風に笑った。
「アハハッ! でもさー、そんなこと言われるとやっぱ、やる気ないのかなーって、ちょっと心配になっちゃうもんよ?」
「……やる気なら、あります」
海瑠の真剣な眼差しに、吉田はふと笑った。
「OKOK! そんなおっかない顔しなくても、信じるって。んじゃ、これからよろしくね~、ミル!」
「……ミルウです。わたしの名前」
「え?」
「それでミルウって読むんです」
「あ、そうなんだ……ミルーね、了解っと」
結局、本当のことは言えないまま、顔見世は終わってしまった。もうどうしたらいいかわからない。
それから、海瑠の奮闘の日々が始まった。
ウソにウソを重ねなければいけない手間、ウソをつき続けなければならないストレスに加え、夏休みに突入すると、本来三人で分担するはずの業務が重く圧し掛かってきた。プロデューサーとして予算決定の資料を書き、脚本家兼ディレクターとして台本を書いて演出を考え、吉田とメールのやり取りをする……
「──あんた大丈夫? 目の下にクマができてるけど……」
くるみにまで心配される始末。
「だ、大丈夫だから、心配せんといてっ!」
合わせる顔がない気持ちが強くて、海瑠はあまり部屋から出なくなった。
そうこうするうちに、夏休みの初週が過ぎた頃、いよいよのっぴきならない展開がやってきた。吉田がもう一度、三人で顔合わせをしておこうと言い出したのだ。
以前と同じ駅前のオブジェの前、ひとりでぽつんと立っている海瑠を見て、吉田は不思議そうに言った。
「あれっ? 今日もいねぇの? ふたり。始まるまで一度も顔合わせないってのは、ちょっと問題あるぞ」
海瑠は観念した。もうこれ以上は限界だ。精神的にムリだ。
「……吉田さん、ごめんなさいっ!」
「え? なに?」
そうして、クラスメイトに逃げられてしまったことを告白した。感情が高ぶって、目に涙がにじんだが、泣くまいと努力した。悪いことをした方が泣いたら卑劣だ。
全て聞き終えると、吉田はふぅとひと息ついた。
「……ま、とりあえず、店に入んべ? 暑っちーし」
喫茶店に入り席に座っても、海瑠は俯(うつむ)いたままだった。吉田の顔が見られない。これでおしまいだと思えば、また涙がにじんだ。
すすけたこの町で、誰とも仲良くなれないままで、ずっと暮らすんだ……
「さーて、っと……おい、ミルッ!」
「は、はいっ!」
いきなり号令のように呼ばれて、海瑠は反射的に顔を上げた。目の前に、吉田の思いのほか真剣な表情があった。
「アンタ、こないだあったとき、やる気あるって言ってたよね? アレもウソなわけ?」
「い、いや……やる気は、あります」
我ながら白々しい言葉だと思ったが、吉田はニッと笑った。
「よし! アンタの事情はわかった。ま、中学二年生だもんなぁ、しょーがねぇよな。アタシも中二んときは、そんなもんだったと思うし」
中学二年生だから。子どもだから。そう言われても仕方ない。膝の上で拳を握り、海瑠は唇を噛んだ。一緒にしないで、と言う権利さえ、今の自分にはない。
「──で、これからの話だけど……アンタ、このままやらせてやるよ」
「は、え……え?」
戸惑う海瑠に、吉田は犬歯を見せて笑った。
「ひとりでやっちゃえ。大丈夫、ものすげー大変だろうけど、アンタならできるって!」
わたしの何を知っているんだ、と思ったが、それよりも思考が追い付かない。
「それって、えっと……つまり、どういうこと?」
「ニブいねぇ……このままウソをつきとおすってコト! 上層部をダマして、番組を始めちまってさ、一位を取っちゃおーぜ? そうすりゃ本当のコトを言ったって、アンタを下ろせなくなるべ。実績っつーのは強いからね」
「そ……そんな、だらなこと……!」
吉田は悪魔のように笑みを深めた。
「やる気、あるっつったろ? アタシも今さら、ダメでしたーなんて、上に報告したくねーんだよ」
絶句している海瑠へと、吉田は続ける。
「そのかわり、やるならアタシの言うとおりにしてもらう。アタシってさ、今は東京に住んでっけど、この町の出身なんだわ。だから、貢献したいって思いも強いワケ。アンタとなら好き勝手できそうだしね? アハハッ!」
吉田はひとしきり笑うと、片手を持ち上げ、握手の形にして差し出してきた。その瞳は、三日月のような形に歪んでいる。
「さ……どうする? やる? やめとく?」
この女は、本当に悪魔なのかもしれないと思った。もうどうしたらいいかわからない。
……でも、海瑠の右手は、自然とその手を握り返していた。身の丈に合わない、大それた夢を叶えるためには、どんなことでも利用しなきゃいけない。
覚悟を決めるときだ。
「やります」
「アハハッ! いいね!」
吉田は笑顔のまま、演技じみて首をかたむけ、手を一度振ってから離した。
「んじゃ、大博打といってみよーじゃないの! これでアンタとアタシは共犯だ。よろしくな、ミル」
間違えられた名前は、訂正しなかった。
吉田がもし本当に悪魔だとして、本当の名前を知られていない方が、魂を取られないで済むかもしれないから。
それからの毎日は、思い出そうとするともやが掛かったようになってしまう。あまりに忙しすぎて、記憶が曖昧だ。
番組の内容について、吉田は言った通り、全面的に口を出してきた。そのことで助かったかと言えばそんなことはなく、しっちゃかめっちゃかにされた感が強い。ほとんどが吉田(よしだ)の思い付きで構成されたコンセプトを見ても、ウケるかどうか判別がつかなかった。
……というかぶっちゃけ、こんな番組はやりたくない。
しかし、背に腹は代えられないのだった。目的はこの町を出ること。それを忘れてはいけない。そのためには吉田の言うことには従うしかない。どれほど理不尽でも。
まあ、海瑠(みるう)のウソがバレることがなかった点を鑑みるに、色々と根回ししてくれていたのかもしれないので、その点では感謝している。
そして今、海瑠は徳光パーキングエリアの休憩所で、笑顔を取り繕い、人が集まりつつある観覧席に向かって手を振っているのだった。
ブースのすぐ外では、何をしているやら、吉田はだらけた様子でスマホをいじっている。
(……悪魔や、あの人は)
それでも多分、別の人が担当者だったら、自分は今ここにいなかっただろう。それがよかったのか悪かったのかは、まだわからない。
そしてついに、時計の秒針が七時三〇分を告げた。
(やってやる……やってやるうぇー!)
自分を奮い立たせて、ことに臨む。覚えたての慣れない手つきでPA機器をいじり、付け焼き刃のDTM技術で作ったジングルを流した。その曲のドラムよりだいぶ早いリズムで、心臓の鼓動はビートを刻んでいる。
さあ、いよいよだ。この穏やかで何もない海辺の町から飛び出して、約束された未来へと向かうのだ。海瑠の胸の奥で、見果てぬ夢が燃えていた。
ジングルをしぼっていき、代わりに大きく息を吸い込む……
「──がーるじゅらじお、とくみつぐみぃーっ!」
いきなり噛んだ。負けない。
「こっ……こんばんはーっ! ミルミルだよぉーっ☆ みんなーっ、ミルミルのこと、待っててくれたよねぇ~? はいっ!」
観覧席から、レスポンスはなかった。それどころか静まり返っている。みんな口を半分開いて、茫然としているようだ。
吉田の言葉を思い出す。
『アンタ、いまいち華がないんだよねぇ……あっ、そうだ! なんかキャラ作ってみねぇ? ほら、アイドルっぽくさ。ミルミルとかっつって、設定作って。コレいけるっしょ? 面白いって!』
……泣きたくなってきたが、今さら止まったりはしない。この道の先に、海瑠の行くべき未来が待っているのだ。
絶対に立ち止まったりしない。絶対にだ。
「あっれれぇぇ~? みんな、ミルミルのこと、知らないのかなぁ~? じゃあ、ちょっとだけ自己紹介するねっ☆ ミルミルは、ミルミル星のプリンセスなんだよぉ~! ミルミル星は、愛と平和の星でぇ~、戦争とかないんだぁ~♪ ミルミルはぁ、この地球に愛と平和をもたらすために! 流れ星に乗って、やってきたんだよぉ~☆」
自分はこんなことがしたかったのだろうか? もっとクールでスタイリッシュな放送にするはずだったのに。もうわからない。
海瑠は止まらなかった。静けさに包まれた中、並々ならぬ精神力で、最後まできっちりこのキャラを演じてみせた。
そして、初週の順位は……最下位だった。
「──アハハハハッ! アンタ、最高だったよ! え、順位? まぁいいじゃん! すっげー面白かったよ、アハハハッ!」
駅近くのファミレスにて打ち合わせ中、吉田はそう言って笑いながら、海瑠の肩をバンバンと叩くのだった。
一位を取るまで、吉田との共犯関係は解消されないのだろう。胃の痛くなるような海瑠の日々は、もうしばらく続きそうだった。
原作・多宇部貞人氏による小説「ガールズ ラジオ デイズ」
ガルラジのネットラジオ番組だけではわからない、彼女たちの日常が明らかになる!?
多宇部貞人 @taubesadato
<代表作>
シロクロネクロ(電撃文庫、全4巻) / 断罪のレガリア(電撃文庫、全2巻) / 封神裁判(電撃文庫、全2巻) 他
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