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ぼくはカート・ヴォネガットが好きだ。1992年生まれのアメリカの小説家。彼が書いた小説は、全て読んだ。
「タイタンの幼女」。「猫のゆりかご」。「スローターハウス5」。「ジェイルバード」。「ガラパゴスの箱舟」。その他いろいろ。ヴォネガットの小説には、いつも冗談が溢れていた。いや、冗談しか書かれていないと言ったっていいくらいだ。

ここで言う冗談とは、ただの笑いや、現実逃避じゃない。世の中の見方の呈示ってことだ。世の中には沢山の良いことや悪いことがあるけど、見方を変えるというそれだけのことで、絶望は希望になる。ヴォネガットの小説はいつもぼくにそう教えてくれた。
中でも「スラップスティック」はぼくの一番の愛読書だ。ここで書かれる冗談の数々は、人生を肯定してくれる。人付き合いがうまくなく、クラスに友人のいないぼくは、その小説に救われていた。毎日のように昼休みと放課後には図書館に通っていたが、金曜日には必ず「スラップスティック」を手に取った。ぼくの孤独と絶望を、金曜日に読む「スラップスティック」に描かれた冗談は、いつだって笑い飛ばしてくれたから。

ぼくが図書室に通う理由が、実はもう一つあった。クラスメイトである橋本愛が、いつもそこにいたからという、思春期にありがちな話だ。彼女は同じ年齢の誰よりも大人びていて、いつもどこか遠くを見ているようだった。そしてまた、誰よりも本が好きだった。橋本愛が読書に夢中になっている横顔を、その横顔が窓から差し込む光で照らされる様子を、ぼくは何度かこっそり見た。それは高校二年生の自分にとって、何よりも心躍る瞬間だった。
そして、春が来た。学年が一つ上がり、高校三年生になったからといって、急に変わるものなどない。そして今日は金曜日だ。ぼくは図書室へ足を運ぶ。橋本愛は、まだ来ていないようだった。新学期になってから、彼女の姿をまだ見ていない。図書室通いをやめてしまったのだろうか、と少し悲しくなるが、しかしよくよく考えれば何を失ったというわけでもなかった。最初から何も持っていなかったのだから。

ぼくはカート・ヴォネガットの「スラップスティック」を手に取る。彼の描く冗談に、また出会うために。ページをめくる。そこには一通の手紙が挟まれている。宛先にはぼくの名前。そして差出人は、橋本愛。
ぼくは思った。冗談だろ、と。


橋本愛がぼくに宛てた手紙は、こんな一文で始まっていた。
「拝啓 お元気ですか?」

知的で、端正な文字だった。文字が好きな人が書く文字だった。橋本愛が、真剣な表情で本のページをめくるあの横顔が、ぼくの頭に浮かぶ。
「いつも、図書室で一緒だったのに、ひと言も話すことはありませんでしたね。だから、手紙を書いてみます。カート・ヴォネガットが好きなんですね。私は最近の日本の小説ばかりで、あまり外国の小説を読まないから、どれがお薦めなのかを聞いておけば良かったなと、いま、思っています。」

橋本愛は、確かに日本の小説が好きなようだった。白石一文、中村文則、朝井リョウ。女流作家なら、島本理生、彩瀬まる、川上弘美。彼女が読んでいた小説を買って、家で読むのが、ぼくのひそかな愉しみだった。
ある日は天久聖一の「少し不思議。」なんて珍しいのも読んでいて、そんなのが高校の図書室にあるのかと驚いたのだが、彼女は自分で買った本を図書室で読んでいることがよくあった。沢山の本に囲まれた、この雰囲気がきっと好きなのだろう。ぼくもそうだから、何となく分かる気がする。

「この手紙をあなたが読んでいるということは、きっと今日は、4月の最初の金曜日だと思います。『スラップスティック』の日ですもんね。だとすると、私はもう、その学校にはいないはずです。伝えるのが遅くなってごめんなさい。私は今年度から、遠くの高校に、転校することになりました。」

不思議と、驚かなかった。驚きすぎて、何も考えられなかっただけかもしれないけど。ぼくが金曜日に「スラップスティック」を読んでいることを橋本愛は知っていて、その橋本愛は転校してしまって、もうぼくと彼女が会うことはきっとない。事実だけが、文字となって、淡々と脳に刻まれているようだった。
だけど、ひとつだけ思ったのは、冗談みたいな話だな、ってことだ。こんな奇跡に、あとから気付くなんて。こんな偶然に、あとから出会うなんて。全てが終わったあとに、始まらなかった始まりを知るなんて、そんな冗談みたいな話があるなんて。

「急に転校が決まったから、直接お別れを言えずに残念です。本を読むのが好きな者同士、もっと本の話をしておけば良かったですね。もしこの図書室で、私みたいなそんな誰かと出会ったら、是非そうしてください。ヴォネガットの、一番のお薦めの作品を教えてあげてください。自戒を込めて、そう思います。それでは。どうぞ、お元気で。」

手紙はそこで終わっていた。
悪い冗談だ。私みたいなそんな誰かと出会ったら、だなんて。橋本愛みたいな誰かなんて、世界にいるわけがないじゃないか。冗談にも程がある。橋本愛は世界にたった一人しかいないから、橋本愛なんじゃないか。
だからぼくはもう、橋本愛みたいな誰かに出会うことは、二度とないのだ。ぼくは黙って本を閉じて、目を上げる。
そこに、橋本愛みたいな誰かが立っていた。いや、そうではなく。橋本愛が立っていた。
あんぐりと口をあけたぼくの顔を見て、橋本愛はくすっと笑って言う。

「その手紙。冗談です」

ぼくは思い出す。カート・ヴォネガットが、コメディアンのローレル&ハーディについて綴った言葉を。曰く。「あのふたりは、いつも自分の運命と真剣に取り組むのを忘れない。そこがたまらなく魅力的で滑稽なのだ」と。そう。それこそがまさに、冗談の本質そのものだ。

ぼくは橋本愛に、ヴォネガット作品の一番のお薦めを教えなくてはいけない。だけどその小説は既にぼくの手の中にあったから、ぼくはただ、手を伸ばすだけで良かった。
そして橋本愛は、カート・ヴォネガット「スラップスティック」を受け取ったのだ。それは4月最初の金曜日のことだった。
ハイホー。

(相沢直)

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