文豪・室生犀星が発表した同名小説を、若手演技派として引く手数多の二階堂ふみと、熟練の演技で映画ファンを魅了する大杉漣の共演で実写化した『蜜のあわれ』。室生自身の投影とも言う老作家(大杉)と、変幻自在の金魚の姿を有する少女・赤子(二階堂)の日々は、どこか無邪気でエロティック。「映画だと、俗なもの、聖なるものを同時に描ける。そしてそれは両方、大事なことだと思うんですよね」と語る、石井岳龍監督のインタビュー。
――同じ男としては、大杉漣さんが演じる老作家が至った境地を、肯定してあげたくなりました。
もちろん、そうですよね(笑)。おそらく、もうちょっと自分が若ければ想像はできるけれども、老作家の境地を完全に理解することにはならなかったと思うんです。この歳になると十分、彼の気持ちが理解できる。それもまたどこか素晴らしいことですよね。自分でもコミットできる年になったなあと、感慨深いものはありましたね。
――映画を観ている人たちも、老作家の気持ちに共感する人が多そうな気がします。
感情移入する方は、多いかもしれないですね。男は死に際に及んでまでも、あのようなエロいことを考えてしまうというか(笑)。それは崇高なことでもあるんですが、愛情の飢餓があるというか。室生犀星には小さい者、弱い者に対するシンパシー、そしてそれは聖なるモノであるという太い思想があるんですが、それは同時にエロいものであるわけです。その両面性が人間的で豊かなわけですが、映画は、そういうものを描くものに向いているんですね。
映画だと、俗なもの、聖なるものを同時に描ける。そしてそれは両方、大事なことだと思うんですよね。
何もわかってないようで完全に掌握しているような赤子、自分が作りだしたものなのに完全に翻弄され、泣き崩れる老作家。哀しくておかしい。人間の哀しみ、おかしみが好きですね。
――その映画についてですが、長年携わってきて、いま想うことは何でしょうか?
映画の面白いところは、ひとりでは生まれないというところですよね。キャストがいて、スタッフがいて、映画館があって、宣伝があって、お客さんが来てという総合的な表現。その全体を見渡すことが大事で、それを考慮しながら自分なりのコアをどう作っていくかということ。時代が変わっても、僕らには僕らなりの戦い方で映画を撮るだけですが、その総合的な表現の中で自分を見つけてく作業も楽しいんです。
――今回はフィルムでの撮影で、まさしく幻想文学の映像版を楽しみましたが、たとえばデジタル全盛というような時代の変化について思うことはありますか?
個人的には悲観的なことを言っても、仕方がないと思っています。わたしは自分が納得するいい仕事をしたいだけで、キャストやスタッフに意識レベルが高い人間がたくさんいるので、その方たちと連名で仕事をすることだけでも素晴らしい体験なんですよ。昔はよかったけれど、いまは――みたいな話は、僕にはないですね。そもそも、昔はよかったとも思っていませんし(笑)。
――この『蜜のあわれ』のような作品がこの先なくならないように、と思いましたが、それが余計な心配で終わりそうで映画ファンはうれしいと思います。
素晴らしい仕事をする方たちって、日本映画界にはたくさんいますよ。宝の山です。僕は、良くしていくことしか考えていないんです。仮にダメなことがあったら、もう後は良くするしかないじゃないですか。作品を作りながら、証明していくしかないと思いますね。お客さんもよい映画があれば、育っていくと思うんですよ。だから、行動で結果を出していくしか、今の僕たちにはないでしょうね。
映画『蜜のあわれ』は大ヒット上映中
(C)2015『蜜のあわれ』製作委員会
■参照リンク
映画『蜜のあわれ』公式サイト
mitsunoaware.com
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