岡田斗司夫の毎日ブロマガ 2019/12/21

 今日は、2019/12/01配信の岡田斗司夫ゼミ「明治娯楽物語」から無料記事全文をお届けします。


クリスマスツリーのオーナメントについて

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【画像】スタジオから

 こんばんは、岡田斗司夫ゼミです。
 今日は12月1日。ついに12月ですね。メチャクチャ寒くなって、このスタジオも1時間以上前からエアコンを入れてるんだけど、寒くて寒くてしょうがないですね。
 ということで、クリスマス。
(クリスマスツリーを指して)

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【画像】クリスマスツリー

 そうなんですよね。一応、クリスマスツリーを用意して『チキチキマシン猛レース』とか、アメリカのAmazonで売ってたいろんなクリスマスオーナメントを飾ってみました。
 バットサイクルとか、そういう飾りが吊り下がっていて。ちょっと皆さんの影では見えにくいところにはテッドとか『スター・トレック』のエンタープライズ号とか、いろんなものが吊ってあるんですけど。

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【画像】透明飛行機

 一番上の飛行機みたいなものは、テレビ版『ワンダー・ウーマン』に昔、出てきた透明飛行機という、ちょっとマニアックなものですね。何回か前に「アメリカのAmazonで買い物するのはいいよ」という話の中で紹介したものを、いろいろ飾ってみました。
 こんな感じで、今年はクリスマス期間はツリーをここに飾っておこうと思います。もちろん、これはスタジオに飾る用であって、自宅の方にはクリスマスツリーなんて1本もありませんよ(笑)。
 そんな余裕はないというか、今はもう、本当に、本でグチャグチャになっているんですけど。そんな感じであります。
 じゃあ、早速いきましょうか。

「バンカラ」と「ハイカラ」の関係

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【画像】スタジオから

 今日は、ここに出しているんですけど。
(パネルを見せる)

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【画像】『僕!!男塾』表紙 ©宮下あきら・宮川サトシ・近藤和寿/日本文芸社

 『僕!!男塾』(やつがれおとこじゅく)というマンガがあって、これ、最近の僕のお気に入りなんですよね。
 「僕」って漢字1文字で「やつがれ」と読むんですけどね。「魁」で「さきがけ」と読むのと同じで、漢字1文字をどう読むかというやつなんですけど。
 一番最初の『魁!!男塾』というマンガは、ご存知の方もいると思うんですけど、今やすでに『男塾』というのは、マンガの1ジャンルになっちゃってるんですね。
 例えば、塾長の江田島平八を主人公にしたマンガとか、あとは伊達臣人が主人公……伊達臣人というところが渋いですよね。他にも、明石剛次が主人公のスピンオフもありますし、大豪院邪鬼が主役というのも、この間、出ました。
 あとは『紅!!女塾』という、「ウィルスか何かの作用で、人類の男が全員、軟弱になったので、男塾の伝統を受け継ぐのは女しかいない!」というのもあるそうです。なんかね、この『女塾』はやたらと巻数を伸ばしているんですよ。別にあんまり面白いと思わないんですけど。まあ、そういう女子校モノもあります。
 ただ、この『僕!!男塾』というのは、そういう男塾ジャンルのマンガとは違うんですね。

 まず、主人公として、売れないマンガ家の宮川というのがいるんですけど。その宮川の部屋に、いきなりドカーンと壁を破って男塾のヤツらが入ってくるわけですね。
(パネルを見せる)

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【画像】壁を破る ©宮下あきら・宮川サトシ・近藤和寿/日本文芸社

 いわゆる男塾名物の「直進行軍」でガーンと入って来て、壁に穴が開いてしまった。
 で、その穴の中にげんこつという愛犬が入ってしまう。すると、この犬が壁を超えた瞬間に、リアルな劇画タッチになってしまうんですね。
(パネルを見せる)

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【画像】劇画になるげんこつ ©宮下あきら・宮川サトシ・近藤和寿/日本文芸社

 「こうなったらもうヤケクソだ!」と言って、主人公の宮川も、犬を助けるために、この壁の穴を抜けるんですけど、その瞬間に、やっぱりリアルな絵になってしまうんですね。
(パネルを見せる)

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【画像】追いかける宮川 ©宮下あきら・宮川サトシ・近藤和寿/日本文芸社

 これでわかった通り、「ここは!?」ということで穴を抜けたら、もちろん、そこは男塾なわけですよ。
 「まさか、あの壁の穴で男塾と繋がってしまったのか!?」ということで、普通のヘロヘロの絵のマンガ家が男塾に行ってしまうという話です。
 これがどんな話なのかと言うと。これが典型的な1話ですね。
(パネルを見せる)

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【画像】落ちる田沢と松尾 ©宮下あきら・宮川サトシ・近藤和寿/日本文芸社

 まず、「うわーっ」と言って2人が崖から落ちてしまいます。宮川は「田沢君とその友達ー!」と叫ぶんですけど、もう彼は松尾の名前を覚えてないわけですね(笑)。
 他の男塾塾生のみんなは「な、なぜこんなことに……!?」って言うんですけど。そこで宮川は1人「いや、こんなことしてるからでしょ」って思ってるわけですよね。
(パネルを見せる)

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【画像】歌うみんな ©宮下あきら・宮川サトシ・近藤和寿/日本文芸社

 すると、見守っていた塾生達が歌い出します。「日本男児の生き様は 色無し恋無し情け有り 男の道をひたすらに 歩みて明日を魁る」と。まあ、有名な男塾の塾歌なんですけども、それをいきなり歌い始めるわけですよ。
 でも、新入りの主人公はこの歌が歌えないわけですね。「嗚呼男塾 男意気 己の道を魁よ」とみんなが歌っている時に「うわっ! みんな歌い始めた! 俺も歌いたいけど、歌詞がわからねえんだよな」と。
 そうしていると、「あれ? 変だな。さっきから背中に視線を感じるぞ」と宮川は思います。
 振り返ると、空中に例の田沢と松尾の顔が浮かんでいるんですよ。男塾ではよくあるパターン。青空に死んだ2人の顔が浮かんでるわけですね(笑)。
 で、この顔が、ずーっと見えているんですよ。「わりと長い間見えるんだな、幻影って…」というふうなことで、これが長いこと見えている。
 その後、宮川は寮に帰って、「ああ、変なところだった」と部屋で寝転んでいます。夜中、外へ出て、ふと気配を感じたので空を見ると、夜空にまだ浮かんでいるわけ、この幻影が。
 「うわあ、もう10時間以上も経ってるよ! 流石に怖いな。家に帰って嫁に見せよう」ということで、スマホで写真を撮ります。
 すると、スマホには映ってないんですよ。「写真には映らないんだ!?」と。
 こういう外し方が、男塾マンガとしてはすごく新しいなと思うんですけど。

・・・

 なぜ、僕が今日、これを見せたのかと言うと。
 こういうキャラをバンカラと呼ぶのはご存知でしょうか?
 もうね、知ってる人も段々少なくなって来て。まあまあ、50代くらいの人はわかるだろうけど、もう40代の人はそろそろわからないかもしれない。こういうキャラのことを「バンカラ」と言うんです。
 バンカラというのはどういうものかと言うと。
(パネルを見せる)

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【画像】『昭和バンカラ派』

 これは司敬の『昭和バンカラ派』という、昭和時代のマンガなんですね。この主人公みたいなのがバンカラなんですよ。
 帽子がボロボロ、服もボロボロで、ズボンがハイウエストのところでベルトで止めていて、足はなぜか下駄を履いている。
 これ、実は全てルールとして決まっていて、ある種の様式なんですね。破れた帽子のことを「破帽」と呼びます。このボロボロの服のことは「弊衣」と言います。で、「高下駄」「ハイウエスト」なんですけど。
 このバンカラをテーマにしたのが今日のテキストです。
 長いタイトルですね。山下泰平『「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』(柏書房、2019年)。これが今日のテキストです。
(本を見せる)

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【画像】『舞ボコ』表紙

 このバンカラというのは何か? これは服のことだけではないんですよ。
 バンカラというのは、ウィキペディアの定義によるとこのようになっています。


バンカラ(蛮殻、蛮カラ)とは、ハイカラ(西洋風の身なりや生活様式)をもじった語である。
明治期に、粗野や野蛮をハイカラに対するアンチテーゼとして創出されたもの。


 つまり、バンカラの前には「ハイカラ」という言葉があって、その後に「ハイカラなのは、けしからん!」ということで出てきたのがバンカラという用語なんですよ。
 では、ハイカラとはそもそも何か? 『はいからさんが通る』とかで聞いたことがあるかもわからないんですけど。
 ハイカラとは何かというと、明治30年代くらいから流行った言葉で、元は「ハイカラー」、つまり、シャツの襟が高いことなんですよ。
 和服の襟ってペタンと寝てるじゃないですか。それに対して、当時の洋服の襟、男性のシャツというのは、今のシャツのように折った襟ではなく、すごい立てた襟だったんですね。
 そのもっと前の『ベルサイユのばら』とかの時代には、男性がブラウスを着ていたんですけど。僕らが着ているシャツの袖カラーというのは、そのベルサイユ時代のドレスが様式化され簡略化したものなんですね。
 昔は袖も襟もレースでワサワサになってたんですよ。でも、全てのブラウスにそんな物がついていたら洗濯が大変なので、襟と袖の部分だけを取り外せるようになっていったんですね。ワサワサの部分だけを取り替えて、アイロンを掛けたりして、昔は白くてピカピカのシャツを着てたわけです。
 日本に洋服が入って来た頃は、このブラウスみたいな「服とカラーが別になっている時代」から、徐々に「シャツに直接、襟とか袖が付いている時代」になってきていて、この襟を上にピンと上げて、顎の辺まで立てたようなな、高いカラー、ハイカラーの服になっていたんですね。
 なので、そういう服を着て西洋風を気取っている人のことを「ハイカラ」と言ったわけです。
 まあ、当時、そんな最新流行のハイカラーなんかを着る人は……だって、明治時代ですよ? 明治時代って、まだみんな和服を着ているわけですよ? そんな時代に洋服を着るような人は、間違いなく西洋かぶれなわけです。
 だから、昭和から平成までは「ハイカラ」と言うと「オシャレな人」的な意味合いで使われることが多かったんですけど、明治時代の当時は「嫌なヤツ」とか「イヤミな人」というような意味もあったそうです。これについては、もっと後で解説します。
 そんな「ちょっと嫌なヤツ」であるハイカラの逆が、バンカラなんですよ。
 野蛮の「バン」に「カラ」は、もうすでに意味がないんですよ。なぜ「カラ」なのかって、カラには意味がないんです。
 フジテレビのアナウンサーに、昔、千野さんという人がいて「チノパン」と呼ばれて人気でしたけど。その後に出てきた女子アナも、みんな「ますパン」とか「あやパン」とか、全部にパンがついてましたよね? そうなってくると、「パン」には何の意味もないですよね?
 それと同じで、なんとなくついているのが「カラ」です。

戦前から戦後、現代へのバンカラの歴史

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【画像】スタジオから

 『バンカラの時代』という本があって。これ、日本画の話なんですけども。
(本を見せる 佐藤志乃『バンカラの時代ー大観、未醒らと日本画成立の背景』人文書院、2018年)

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【画像】『バンカラの時代』表紙

 「ハイカラ(高襟)VSバンカラ(蛮襟)仁義なき戦い!」と本の帯に書いてあります。
 日本画の世界には、岡倉天心の言葉として「芸術は気魄の発露である」というのがあるんですよね。実は、明治時代の画家というのは、思想家でなければならなかったし、あとは国士、国を憂えて絵を描くのが仕事だったんですよ。その上、徒労を組んで、かなり無茶な旅とかをしてたんです。
 この本は「明治という時代は、西洋文化に心酔するハイカラと、自らのナショナリティを重視するバンカラの軋轢であった!」として、そんな時代を紹介した本なんですけど。
 では、具体的にどんな内容かと言うと。Amazonのカスタマーレビューに、簡単にまとめられていたので、読んでみます。


アジア諸国は次々と西洋に侵略され植民地となり、独立を保持する為には日本は西洋に対して戦いを挑まなければならなかった。
その戦いは、単に物質文明の領域に於ける戦いだけではなく、文化、芸術、伝統等、精神文明の領域に於ても、西洋に対し日本文明の独自性対等性を示す必要があった。
よってこの時代の画家たちの、覚悟や気概は破格で、以後の個人趣味的な絵の時代の画家とは全く違っていて、ほぼ烈士、国士の様を呈している。


 要するに「みんな『竜馬がゆく』の坂本龍馬みたいな気持ちで絵を描いてた」というんですね。
 絵を描く目的は「国家のため」という、ものすごい時代なので、今の常識では判断できないんですよ。
 この本によりますと、ハイカラとバンカラの対立というのも、さっき僕が言った「ハイカラのオシャレなヤツが気に食わない! だから、バンカラだ!」というのは、まあ後になって出てきた定義で、最初の頃は「日本を開国する時の岩倉具視と西郷隆盛の対立から始まる」と書いてあるんですよ。
 開国論者で「西洋に早く追いつこう!」と言う岩倉具視派がハイカラ派で、西郷隆盛がバンカラ派だ、と。言われてみれば、確かにそうなんですよ。
 これが尾を引いて、後に鹿鳴館事件が起こります。
 鹿鳴館というのは、まあ、中学の歴史で習う通り、明治時代に、西洋のモノマネ丸出しの、宮殿みたいな、お城みたいなダンスホールを作って、そこに毎晩毎晩、男も女も似合わないドレス姿で現れては、必死にダンスを踊った。
 これに対して悪口を言っているのは何も現代の僕らだけじゃなく、明治時代の頃から、新聞から講談師までがみんな悪口を言ってたんですよ。「何だよ、あんなみっともない、全然似合わない服を着やがって!」って。これがハイカラをバカにする元にもなったんですけど。
 しかし、これは実は、不平等条約改正のためであったんですね。
 明治政府から不平等条約の改正を求められたイギリスの代表は「いや、不平等と言っても、そもそもあなた達の国は野蛮であって、文明国でないでしょ?」と切り返したんですね。
 「なぜかと言うと、我々文明国は、大臣とか偉い人の奥さんやお嬢さんが、ちゃんと公式の場に出て来ます。それは、我が国が安全だからです。でも、あなた達の国の奥様やお嬢様は、全く公式の場に出てこないじゃないですか。つまり、これは安全でないということです。我が国の国民が、そんなあなたの国に往来した時に、あなたの国の警察や司法、裁判所に任せられるはずがない。だって、危ないでしょう?」というふうに言われたわけですね。
 なので、「日本は危なくありません。我が国の奥様やお嬢様達もちゃんとこういう所に来て踊っております」というのを見せないと、イギリスが不平等条約を改正してくれなかったという理由があったんです。「イギリスが一番頑なで苦しかった」と、後に当時の外務省の人が語っているんですけど、こういう状況だったんですね。
 しかし、そんな事情は、戦後の教育でわかってきたのであって、戦前の日本人、国民は、全くそんな都合を知らずに、一斉に「鹿鳴館はけしからん! ハイカラはけしからん! 西洋かぶれはけしからん!」ということで、みんな本当にプンスカ怒ってたわけですね。
 これが、アンチハイカラブームであり、そんなバンカラブームが、明治の中頃、だいたい明治の30年代くらいから起こりました。

・・・

 戦前のバンカラってね、資料があんまり残ってないんですよね。バンカラの人達は写真とかを撮られるの嫌いだったのかもわからないんですけど。
 そんな数少ない戦前のバンカラの写真というのが、この辺の写真なんですけど。
(パネルを見せる)

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【画像】戦前のバンカラ

 服がボロボロなのはなぜかと言うと、生地や仕立てが安いので、とにかくすぐに服がボロボロになったんですよ。「しかし、それでも構わない」と。「思想を貫くためには、見た目は気にしないのだ!」というのが戦前のバンカラです。
 一方、僕らがよく見るバンカラが、これ。
(パネルを見せる)

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【画像】戦後のバンカラ

 これは、戦後の拓殖大学のバンカラの皆さんなんですけど。これが、僕らがよく知っているバンカラというやつですね。これが戦後のバンカラなんですよ。
 戦前のバンカラと戦後のバンカラというのは何が違うのかと言うと、さっきも言ったように、戦前のバンカラは「本当に布が安っぽくてすぐにボロボロになった」んですけど、戦後のバンカラというのは、服の仕立てがいいんですよ。なので「みんな帽子や服を自分で破って、靴の方が安いのに、わざわざ高い下駄を履いて、バンカラを気取っている」わけですね。
 つまり、戦後のバンカラっていうのは、すでにファッションの再生産になってたんですね。
 それが、昭和40年代になると、『男一匹ガキ大将』とか『昭和バンカラ派』というマンガになってくる。
 と言っても、まだこの時代は大真面目で、このボロボロの服というのを本気で「カッコいい」と思って描いているんです。
 マンガの中でバンカラたちは「あんた、古臭いわね」と言われるんですけど。この「古臭いわね」というのは「拓殖大学のバンカラの写真のような、戦後すぐの時代というのを思い出させる古臭いものだ」とやっているわけです。
 しかし、それがこの『男塾』になってくると、もうすでに笑われる対象になってくるわけですね。「時代錯誤だ」「変だ」ということで、笑われるようになってくるんです。
 そして、現代では、そろそろ『男塾』すらも通用しなくなって来て、バンカラという概念は消えて行ってしまっている。バンカラという言葉自体が通用しなくなっているわけです。
 おかげで「バンカラみたいなものを、バンカラと知らずに笑う」ということは出来るんですけど、「バンカラなヤツをカッコいい存在として出す」というのは、もう無理になってきちゃってるんですよね。
 バンカラを主人公にしたアニメとかマンガは、パロディしか話題にならない、と。
 それと同じく、おそらく、50年後か100年後くらいになってくると、こういう事態になっていると思いますよ。
 今から50年後か100年後になってくると、例えば「ゲームばっかりやっている平凡な中学生とか高校生が、いきなり事故で死んだと思ったら、異世界に転生してて、そこには美少女の魔法戦士が~」みたいなアニメってあるじゃないですか。
 ところが、これって「バンカラ VS ハイカラの対立で、あの服が生まれた」というのと同じように、いまの僕らの身近にあるラノベとかマンガとか、いろんな状況のお約束の上に成立しているんですね。
 50年後の人たちが、そういうお約束を知らずに、いきなり異世界転生モノを読んだら、「これは、何かの宗教的な儀式を表しているのではないか?」とか「当時の日本人は、来世では中世ヨーロッパに生まれ変わり幸せになれるという宗教が流行ってたんだな」というような想像しか、おそらく出来ないと思うんですよね。
 もっと時代が下った千年後くらいの人類とか、あとは人類の遺跡を研究している宇宙人から見たら、僕らの今のラノベ的な世界というのは、完全に狂ってるわけですよね。なので「宗教的な目的で作られた物語」としか解釈されないんですよ。
 例えば「亡き父が作ったロボット」というモチーフが、遺跡のあちこちから見つかるわけですね。これもお父さんが作ったロボット。あれもお父さんが作ったロボット。これはおじいちゃんが作ったロボットって。
 「なんか、20世紀の後半から21世紀の頭くらいに、やたらとお父さんやおじいちゃんがロボットを作るという物語が流行っているんだけど。たぶん、この国に平和をもたらそうとして、鎌倉時代に大仏を作ったように、昭和・平成・令和と呼ばれる時代には、巨大ロボットを作ることが国家安定のためだったんだな」という解釈がされるはずです。
 あとは、少女マンガでよくある……今の少女マンガにあるかどうかは知らないんですけど。「遅刻、遅刻」と言ってパンをくわえて走ってたら、曲がり角でドンと男とぶつかって、「何よ!」って言いながら学校にいったら、その男が転校生として現れて「あっ、嫌なヤツ!」というやつ。
 あれも、おそらく「これは稲作豊作を願うための儀式みたいなものに違いない」と(笑)。
 だって、わからないですもん。僕らは膨大なお約束の果てにそれを受けとっているので、お約束を知らない未来人や宇宙人には、そんなことがわかるはずない。「どうなってるんだ?」となるんだと思います。
 まとめますと、バンカラというのは、もともと明治30年くらいの言葉で、その時代には、こういう服を着ていたんですけど。まあ、この服も「戦前」と言っても昭和になってからなんですけどね。
 その後、戦後の拓殖大のこの服を見たらわかる通り、ファッション化しているわけですよ。
 さらには、それがパロディになって『男塾』の世界になって、現在は消滅して行っている。
 おそらく、未来は宗教として解釈されるだろう。
 そんなものが、バンカラなわけです。

・・・

 さて、バンカラがわかったところで『「舞姫」の主人公が~』の話にやっと戻るんですけども。
 いやいや、バンカラを説明するのに15分くらい掛かってるんですよ。
 皆さんの中には「そんなこと言われなくてもわかってる」と思う人もいるかもわからないんですけど。
 このところ、YouTubeのデータを見ていくと、20代の人が僕の動画をやたらと見ているんですよね。
 「なんで俺の番組なんかを、20代の人が見てるんだ?」と思ったら、この間、ヒントをもらって。どうも『名探偵コナン』が原因らしいんですよ。
 『名探偵コナン』で、作者の青山さんが、もうやることがなくて飽きてしまって、「もう『ガンダム』をやろう」と『コナン』の中で『ガンダム』をやろうとしてるそうなんですね。
 最初は赤井というキャラを出して、その次には安室っていうキャラを出して。段々、部下とか妹の名前とかが変になって来て、『ガンダム』をやってると。
 で、『コナン』好きの女性の方々が「『ガンダム』を見なければいけない!」と。これを彼女たちは「『ガンダム』を履修する」と言うらしいんですけど。
 「『ガンダム』を履修するために何を見ればいいのか?」ということで、なぜか僕のガンダム講座を見ているそうで。
 それで、こないだから、20代30代女性の比率がドッと増えたんです。男女比で、女の人の割合がいきなり10%も上がったのはなぜかと思ってたんですけど。「そうか。『ガンダム』の履修目的で見ているんだ」と。
 なので、一応、そういう人らにもわかるようにバンカラを説明するには、このレベルからまず話し始めなればいけないんですよ。

「弥次喜多」というデタラメ小説のフォーマット

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【画像】スタジオから

 ここから、ようやっと本題です。
 明治の娯楽物語ということで、この本の中に出て来る世界を紹介するんですけども。
 「明治娯楽物語」というふうに言いました。あのね、小説というのがまだ存在しない時代なんですよ。
 小説というのは何かと言うと、まず、政治家とか思想家がぶち上げるものを「大説」と言ったんです。つまり、世の中には大説と小説。大きい説と小さい説があるんですよ。大説というのは、政治家とかその関係者が言うようなもののこと。それに対して個人が「こう思います」と言うのが小説だった。そんな時代なんですね。
 だから、フィクション、お話とかストーリーを考えたものを指して「小説」とは言わなかったんです。それはもう「物語」と言ってたんですね。
 そんな明治時代の文学といえば、もちろん、夏目漱石や森鴎外なんですけど。
 しかし、実際に鴎外や漱石よりも何十倍も売れたのは、今話した明治娯楽物語という、ちょっと不思議なジャンルの小説群だったんです。
 今やほとんど残ってない……というか、国会図書館には残っているんですよ。国会図書館のデジタルアーカイブに行ったら、スキャンされている画像が残っているから、ナンボでも見れるんですけど。しかし、それを読んでいる人はほとんどいないし、僕らの文化の中で、それの位置づけしている人もほとんどいない。
 それを唯一しているのが、この山下泰平さんの書いた『「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』という本なんです。なので、今日はそれを推してるわけなんですけれども。
 明治という時代は、ものすごい勢いで文明開化が進んだ時代。
 とにかく、西洋文化を、1分1秒でも早く取り入れないと生き残れない。生きていけない。日本という国が植民地化されて滅びてしまうという、大変切迫した時代でした。
 昨日まで読んでいた、江戸時代の貸本なんて、もう、読んでられないわけですね。だからといって、欧米の文学を読むには敷居が高い。よくわからない。「欧米の知識が必要だから、そういうものを読まなきゃいけないんだけれど、出来れば読み慣れた講談とか、江戸時代の文体で読みたい」と。これが、今や忘れられた明治娯楽物語というジャンルの読み物なんです。
 講談というのは、かつて起きた事件とか事実、あとはわかりにくい問題を、講談師が「パンパン! さて、そこで~」というふうな話芸でもって説明するもののことなんですけど。日本というのは、この講談の文化が江戸時代からやたら進んでいたので、「とにかくわかりやすく教えてくれるもの」として親しまれていたんですよ。
 しかし、西洋から入ってくる小説とか論文というのは、その体になってないので、「誰かこれをわかりやすく講談調にしてくれ!」というニーズがあった。それに答えたのが、明治娯楽物語ですね。

・・・

 これは、大衆小説とはちょっと違うんですよ。あくまでも「西洋知識を手軽に取り入れるための手段」であって、「べンとかメリーとかですねそんな変な名前が出てくるような気難しい話は真っ平だ!」と思っている人が読んでいたもの。
 そこで大ヒットしたのが「弥次喜多」というフォーマットなんです。まあ、「明治になって、まだ弥次喜多なのか」とも思うんですけど。
 この本の中に、僕がちょっと気に入ってるフレーズが出てきて。この付箋を貼っているところ(15ページ)なんですけども、「弥次喜多とヴェルヌの悪魔合体」というふうに書いてあります。
 本当に、そんな時代の徒花みたいな物語を紹介します。
 通称:弥次喜多として知られる『東海道中膝栗毛』というのは、1802年に十返舎一九が書いた滑稽本です。
 「栗毛」というのは「栗毛の馬」のことなんですね。本来、馬に乗って楽ちんに旅するところを、自分の膝を使って、つまり歩いて旅をする。それを「膝栗毛」という言い方をしてるんですね。まあ、そんな江戸流のオシャレな表現です。「歩いて旅をする」と書くんじゃなくて、「俺の栗毛は自分の膝だぜ」ということで「膝栗毛」と言っているんです。もう、オシャレなんですよ。
 これに登場するのが、主人公の弥次郎兵衛と喜多八です。略して弥次喜多コンビです。
 今日は本当に日本史ですよね。この間までヨーロッパ史やアメリカ史をやってたのに(笑)。
 弥次郎兵衛というのはどんなヤツかというと、50歳手前のデブの教養人。まあ、俺みたいなヤツを想像してください。
 駿河の国で商売してたんですけど、遊びで借金が多くて江戸に夜逃げ。……ここも、なんとなく自分に似てて親近感が湧くんですけど(笑)。
 この夜逃げする時に、わざわざ一句読んでいるんですね。「借金は富士の山ほどある故に、そこで夜逃げを駿河者かな」と。なかなかオシャレでカッコいいんですけど。全編、こういうダジャレしか載ってないんですよ。『東海道中膝栗毛』って、なかなか現代語訳がないんですけど、それは当たり前で、こういう下らないことしか書いてないからなんですよね。
 そんな弥次郎兵衛に対して、喜多八というのは弥次郎兵衛の陰間でした。江戸時代に、ホモの売春をやっている人のことを「陰間」と言ってたんですけど、喜多八はですねそれだったんですね。
 しかし、陰間というのは、普通、13歳から20歳くらいまでが盛りで、20歳を超えると、もうそんな陰間には用はなくなるんですね。なので、喜多八も引退して、ある商店で奉公してたんですけど、そんな中で同僚の女中を妊娠させてしまって、まあ、なんとかそれと結婚した。
 結婚した祝言の夜に、江戸に逃げてきた弥次郎兵衛と久しぶりに会ったんですけども。しかし、再会した弥次喜多コンビが、妊娠した新妻の前で大喧嘩をするんですね。そのショックで、嫁さんは、その場で死んでしまう。
 その嫁さんの葬式をしていたら、喜多八の商店での使い込みや、女将さんに言い寄っていたのがバレて、商店の主人も死んでしまって、「エラいことになった!」ということで、「このまま江戸にはいられない!」と言って、死んでしまった嫁さんを放ったらかして2人で逃げて旅をするというのが『東海道中膝栗毛』の冒頭の数十ページなんです。
 もう本当にね、人間のクズしか出てこないんですよ。デタラメな話。これを江戸の庶民はゲラゲラ笑って読むわけですね。
 旅行して、2人がやることと言ったら何かと言うと、だいたいは、その土地の名物とかを見たり食べたりしながら、時々、弥次郎兵衛というヤツが、ちょっと教養があるから「いや、これは〇〇だ」とか言って、喧嘩になったヤツに知識でマウントしたりとか、そういう話だったんですよ。
 まあ、江戸時代の『ポプテピピック』とか『パタリロ』みたいな話だと思ってくれれば、間違いないと思います。
 江戸時代は、旅行も自由に出来ないので、これがガイド本としても大ヒットした、と。
 まあ、十返舎一九というのは絵も描けたので、ちょっといい絵も描いてたんですよ。だから、インスタグラムのインフルエンサーみたいなノリで、この弥次喜多の話というのは大流行したんだと、僕は考えています。
 作者の十返舎一九は『東海道中膝栗毛』が大流行したもんだから、続編も書いたんですけど。一九以外の作者も、いっぱい続編を書いたんですね。
 もう、2次創作のやりあいみたいになっていて、誰が原作かわからないくらいになってた。それが、明治に入る頃までずーっと続いていたんですよ。
 その結果、明治になってから入ってきた、イギリスとかアメリカとかドイツとかフランスとか、いろんな国の情報を元に、世界中を旅する弥次喜多の話が、明治時代になってもまだ出版されることになったわけですね。

・・・

 明治14年、ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』……SFの古典ですね。これが東京で出版されたんですけど。その3年後の明治17年に「弥次喜多に宇宙旅行をさせる」という、『宗教世界膝栗毛』というのが発売されました。
(パネルを見せる)

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【画像】『宗教世界膝栗毛』表紙

 あの「宗教世界」って言うんですけど、当時は「惑星」とか「星」という言葉に馴染みがなかったので、もう「世界」と言ってるんですね。この「世界」というのは「星」のことです。
 弥次喜多は、月へ行く途中で、その隣にある無闇矢鱈世界というところに行って、その後、宗教世界という星に次々に行くんです。
 宇宙旅行の方法は、ジュール・ヴェルヌの原作通り、「超大型の大砲がアメリカで完成した」というもの。
 弥次喜多が「じゃあ行ってくるか」ということでアメリカに行くと、アメリカ人が困っている。「どうしたんでえ?」と言うと、「いやいや、月世界に行く船は出来た。しかし、みんな怖くて乗れない」と言う。
 すると、弥次喜多が「アメリカ人といっても度胸がねえな! じゃあ、日本から来た俺っちが乗ってやろうか!」と言って乗るんですけど。
 その乗り方が……これ、国会のデジタルアーカイブから持ってきたページなんですけど、超わかりにくいんですよね。
(パネルを見せる)

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【画像】大砲にしがみついて飛ぶ

 「大砲の弾にしがみついて飛ぶ」という方法なんですね。乱暴な方法なんですよ。
 元ネタになってるジュール・ヴェルヌの小説では、ちゃんと大砲の作り方とか、発射時の衝撃の吸収方法とか、無重力の描写が、19世紀に書かれた小説にも関わらず、ちゃんとあるんですよ。
 だけど、この『宗教世界膝栗毛』では、作者に科学知識がゼロなんですね。なので、「ヴェルヌが書いていることがよくわからない。でも、読者はそういう最新の科学知識を求めている」ということで……もう、序文には偉そうに書いていあるんですよ。「西洋ではこういうのが当たり前だ!」とか「みんな宇宙とか他の世界のことを知らなければいけない!」とか書いているんですけど。作者がそのことを全くわかってないんです。
 例えば「宇宙に空気がない」ということはわかっているんですけど、空気がなかったらどうなるのかというと「声が聞こえにくい」とか、あと「息をする時にすぐ喉が詰まる」という描写が延々とあるんです。
 この『宗教世界膝栗毛』は、大ヒットはしなかったんですけど。「最近の科学知識を弥次喜多のフォーマットで紹介する」という形式は当たったらしく、その2年後の明治19年には『人体道中膝栗毛』というのが、別の作者によって出版されます。
 『人体道中膝栗毛』もね、もうデタラメなんですよ、本当に。これも「解剖学や生物学の勉強になる!」という触れ込みだったんですけど、旅に出るお金のない弥次喜多が「仕方がない」というだけの理由でミクロ化して、人間の体の中を旅するという道中モノなんですけど。
(パネルを見せる)

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【画像】口車

 これは「口車」という場面です。大きな川に水車が掛かっている。よく見ると、この水車は唇で出来ている。「あれこそが口車だ」と言うんですけども。
 「そもそも、この川は嘘八百里の長流にて、二枚舌の立板に口車がかかっている」という、またダジャレなんですよね。もう、全く解剖学の勉強にならずに「ほら見ろや、あれが口車だ。信用ならねえぞ」なんて言ったりするんですけども。
 その後、弥次喜多はいろんなところに行くんですけど。例えば「乳山」。「胸まで旅行したら、デカいおっぱいに登山」という、もう中学生の妄想みたいなものを本にして、またこれも、そこそこヒットしちゃったんですよね。

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【画像】乳山

 要するに、弥次喜多というのは西洋文明を取り入れるためのフォーマットで、今で言う異世界モノなんです。
 さっき話した「異世界に転生した」みたいなラノベでも、読んでる内に「中世ヨーロッパの知識が手に入るじゃん」とか「当時の王様とか政治経済の話を勉強出来るじゃん」と。案外、僕らも、ああいうラノベっぽいやつとかマンガとかを読んで勉強してますよね? あれと全く同じだったんですね。
 僕らの世界で「とりあえず異世界に転生させたら、あとは好きなことをやっていい」みたいに異世界モノが作られてるのと同じように「とりあえず弥次喜多にどこか行かせて好きなことをやらせる」というのがヒットした、と。
 こんなデタラメな小説が、もう夏目漱石や森鴎外の名作よりも大ヒットしてたんですよね。
 なぜかと言うと、それは明治という時代に秘密があったから。ということで、もうちょっと無料放送が続きます。

西洋から入ってきた「リアリズム」の流行で起きたこと

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【画像】スタジオから

 明治という時代はどういう時代だったのかと言うと、この本の作者の山下さんは「全てがですね5倍のスピードで動く世界だ」と言っています。
 山下さんは、それを海水浴の歴史で説明しているんですけど。
 かつて、西洋において「海は邪悪な存在だ」と思われていたんです。
 そうなんですよ。日本ではどうかわかりませんけど、ヨーロッパ世界では、海というのは邪悪な場所だったんですね。「陸上というのは、教会を中心に神様の領域があって安全で、森の中に入ると段々と危険な場所になる。でも、海に行くと、クラーケンがいたり変な生物がいて、いきなり神の領域ではなくなってしまう。そんな呪われた邪悪な場所だ」というのが、まあヨーロッパの考え方だったんですよ。
 この「海は邪悪」という強固な感覚を打ち消すために、様々なことが起きているんです。
 最初に海水浴は、医療行為として受け入れられた。より強い肉体への憧れ、ヒステリーを始めとする精神的な病気を直したいというニーズ。
 そうなんですよね。中世の終わり頃から近世にかけて女性のヒステリーというのが大問題になっていて、「海水浴はそれに効く」と言い出した人がいたんです。
 その結果、18世紀のイギリスで海水浴マシンと呼ばれる車輪の大きな馬車が作られました。裕福な人たちは、外から見られないように、海水浴マシンで海に乗り入れ、健康のために海水浴を楽しんだ、と。
(パネルを見せる [図1]25ページより、[図2]27ページより引用)

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【画像】海水浴マシン

 これが海水浴マシンですね。当時としてはこれが最新の医療器具だったそうです。まあ、大きい車輪の大きい馬車で、水際ギリギリまで乗り入れて、お付きの人たちに助けられながら水浴びをする、と。
 こんなふうに「海の水を浴びることは身体にいいんだ!」と言ってたわけです。
 西洋の人が、このような海水浴を受け入れるまで、何年くらいかかったか?
 リチャード・ラッセルという医者が、1750年に、イギリスのブライトン地方で医療としての海水浴を実践し始めたそうです。その100年後の1850年に、ブライトンへの鉄道がついに敷かれ、有名な保養地へと成長した、と。この間が、およそ100年。つまり、西洋はおよそ100年かけて「医療としての海水浴」から「娯楽としての保養地」というふうに、ゆっくり進化していったんですね。
 しかし、この100年間の進歩を、明治の人はたった20年間で済ませてしまうんです。
 明治19年に出版された『海水浴法概説』というのでは「海水ニ浴セント欲スル者ハ、病ノ有無ヲ論セズ」というふうなことで、「海水浴で治療出来る病気」とか「波が高い時は気をつけろ」とか、そういうことを書いた本が出版されたんです。
 これ、その後の明治13年には、ですね兵庫県の明石海岸で脚気(かっけ)になった兵隊の治療のために海水浴が実施されるようにもなったそうです。明治になって、かなり早いところで、海水浴というのはどんどん普及していったんですね。

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【画像】海水浴

 神奈川県の大磯は、おそらく、日本最初の病気療養のためではない娯楽のための海水海岸で、明治23年には日本中の学校で水泳がいわゆる必須の科目として入って行ったわけですね。
 このブームに乗って、明治30年頃になると「海水浴小説」というジャンルの小説が生まれます。
 当時、最新流行の海水浴場で、お話の中身は江戸時代から変わらない「お百度参りしてたら仇に会った」みたいな話を「敵討ちを海水浴場で行った」というだけの、舞台を海水浴場に変えただけのラノベっぽい話だったそうなんですけど。
 まあ、明治に初めに「治療目的の海水浴場」が出来てから、この娯楽のための海水浴場や、海水浴小説が書かれるまでが、だいたい20年。なので、「西洋が100年かけて行った道を日本は20年かけて追いついている」と。
 明治というのは万事がそういうふうな時代だったそうです。

・・・

 しかし、こういう西洋化も、海水浴とか、その技術みたいな具体的なところでは、すごい進展があったんですけど、失敗もかなりありました。
 西洋化の失敗の典型例が絵画なんですね。
 というのも、明治の時代の人たちというのは、西洋の科学や文明のことを「リアルである」と定義しちゃったんですね。
 それなぜかと言うと製図ってあるじゃないですか。設計図とかを引く製図。やっぱり、これが日本にはなかったので、建築の図面とかが西洋から入って来た時に、みんなびっくりしたわけですね。
 その結果、「最新の絵というのはこういうものだ」と思っちゃった。つまり、「真横や真上から正確な形を引く」ということと、絵画とが、同じ文脈で入って来ちゃったんですね。
 西洋にも抽象画というのがあるとは思いもせずに、江戸時代の日本人は「絵画っていうのは全てリアルなものでなければならない。本当にあるものを、まるで写真のように綺麗に写すことが絵画であって、それ以外の絵というのは、遅れた日本的なものであり、全く意味がない」と思っちゃったんですね。
 江戸時代から明治にかけて日本の浮世絵とかが大量に海外に行った理由の一つは……もちろん「それは買い付ける人がいっぱいいたから」というのもあるんですけど。何よりも、日本人が「自分達のそれまでの絵がリアルでない」ということを恥ずかしがって「こんなものいいや!」と売ってしまったからでもあるんですね。
 なんとかして西洋風の絵画、ちゃんとパースが取れてて、陰影があるリアルな絵として取り入れようとしたということになります。
 この流れは、実は絵画だけでなかったんですよ。
 というのも、当時、江戸時代の文人、いわゆる文化的な人というのは、絵も描けば、文章も書けば、俳句も読めばという人だったじゃないですか。明治になっても、それのまま行っちゃったんですよ。
 西洋に絵描きという専門職があるだなんて欠片も想像せずに「絵描きは全員、文章が書ける! 文章が書ける人間は皆絵も描ける!」と思い込んでいたんですね。
 当時、小説家になりたい人が「先生、小説家になりたいんです」って言ったら、「小説も絵も似たようなもんだ。小説の学校はないが、絵は東京芸大が今度出来るそうだ。君、絵の学校に行きなさい」と言われて、みんな絵の学校に行ってデッサンとかをしながら、「いつになったら小説が書けるのかな?」という。
 こんなバカみたいな時代が、結構、長かったそうなんですね。
 こんなふうに「絵も小説も同じものである」と思っている人が多かったおかげで、日本の小説も全てリアルになってしまったんです。
 つまり、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』みたいなものは「面白いんだけど、下らないもの」。
 じゃあ、本当の文学というのはどういうものかと言うと、「製図のように、全てのパースがきちんと取られた写真のような西洋絵画」と同じように「実際にあったことを、文章の力で最大限リアルに書く」ということだけが、価値のある文学だと思われた。
 なので、江戸時代の人の書いたフィクションというのを徹底的に馬鹿にして、創作というのを馬鹿にして、そうじゃなくて、本当にあったことを上にする。最初に話した大説と小説の関係性というのは、これによって出来てたわけですね。
 「本当のことは偉くて、嘘のことや架空のことはダメだ!」というような文脈が明治のわりと早い時代に、芸術全般に生まれてしまった。
 まあまあ、これが自然主義文学とか、そういうことに繋がるのかもわかりませんけど。僕は、まあ、面白いからこういう話をしているだけであって、専門家としての知識があって言ってるのではないので、そこら辺は皆さんがもっと勉強してください。
 これ、俺が昔、聞いた話なんですけど、「福沢諭吉が弟子に怒った」という話があって。
 福沢諭吉の家に住み込んでいる弟子、いわゆる書生ですね。そいつらが、福沢先生にすごい怒られたそうです。
 「君たちは何を下らないものを読んでいるんだ!」と。弟子が読んでたのが小説だったんですよ。つまり、嘘の話を読んでたんですね。
 「君たちは国家の明日を考えなければいけないのに、なぜそんな下らないものを読んでるんだ!」と怒って、弟子たちはみんな「すみません」って言ったんですけど。
 その弟子が読んでたのは、フランス語の原書なんですよ。当時、日本に文芸小説なんてないから、みんなフランス語とかイタリア語の原書を、辞書を引きながら読んでたんですよ。
 それくらい頭が良いんだけど、それでもダメなんですよ。それでもダメなくらい、フィクションというのはダメだったんですよね。それくらい、フィクションの地位は低かったんです。
 明治の人というのは、日本人が今使う意味での小説というものを「嘘だ」ということで馬鹿にしてた。「それよりは、実際にあったこと、リアルなことのみが価値がある」と考えてた。だから「空想や創作というのは下らない」と。
 なので、当時の舞台演劇でも、夜のシーンになると、舞台も客席も真っ暗になったんですって。真っ暗になって、本当に前も見えないところで、役者が暗記しているセリフを言うだけ。
 夜というのは暗いんだから、リアリズムに照らし合わせたら、そうしなければいけない。だから、「照明を全部落として、真っ暗の中でセリフを言う」というのが当たり前だった、と。
 そんな、笑い話みたいなことが本当にあったそうです。
 そこから、日本独特の傾向として「文学というのは純文学、つまり、私小説のことである。自分が体験したことを書くものである」という伝統が生まれました。
 もし創作を書くのなら、極限までリアルに書かなければ、シリアスに書かなければ、まともな扱いをされない。
 今もまだ、日本に残っている「純文学こそ文学の中心であり王道である」という考え方は、まず、この明治時代の絵画のリアリズムから始まった流れの上に乗っかっているんですね。
 いまだに日本に純文学という言葉が存在し、私小説というジャンルが存在するのは、このためです。
 で、もうずーっと後になって、明治をずっと過ぎた頃になって、ようやっと小説がフィクションの世界に戻って来たんですけど。
 まあ、この当時の文学の偉さというのは、上から順位を付けるとすると、一番上に「政治演説」みたいなものがあって、その下に「事実を元にした講談」がある。
 講談というのが、わりと上だったんですよ。講談には話芸というのがあって、この芸というのはみんな認めてたから、「話芸のある講談は上だ」と。文芸という言葉がまだなかったんですね。文章の上手さという考え方がまだまだなかったので、話芸の方が上だったんですよ。
 その下が純文学の私小説になって、さらに下に落語とか浪曲があって、一番下は弥次喜多になるという。まあ、こういう順位だったんですけど。
 ところが、売上で言うと、これが完全に逆転してたんですよ。弥次喜多みたいなものが一番上。
 弥次喜多の宇宙旅行というのは、いわゆる明治時代のラノベなんですけど、誰でも読めて面白くて、最新の流行とか知識が詰まった、もう夢の小説だったわけですね。だから、バンバン売れるんですよ。


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