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今回は、ニコ生ゼミ04月21日(#278)から、ハイライトをお届けいたします。
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「【『風立ちぬ』完全解説 6 】 悪魔との取引」
そして、ついに菜穂子は高原のサナトリウムというところに、自分から閉じ込められに行くことになります。
でも、二郎は見舞いに来ないんですよね。それは、ついに新型機 “九試単戦” という飛行機の設計が始まっちゃったからです。
お見舞いに行く時間がないんですね。
しかし、「時間がない」と言いながら、二郎は毎晩、仲間たちや工員たちと次の飛行機の議論に熱中するという。
まあ、それは楽しいからというよりは、一緒に飛行機を作っていくために盛り上げなきゃいけないという、仕事上の使命感もあったんですけども。
でも、やっぱり菜穂子のサナトリウムに行ってあげたりはしません。
宮崎駿の原作漫画の方にはハッキリと「つまんない」って書いてあるんですけども。
手紙を読んでいると “風花” が飛んで来ます。
そういうものを風花と言います。
これは何かというと「もうすぐここにも雪が降りますよ」という前兆なんですね。
この瞬間、菜穂子の心の中にカウントダウンが聞こえ始めるんです。
「おそらく、もうすぐ雪が降る。雪が降ったらこのサナトリウムは孤立する。私も外に出れないし、二郎さんが私にお見舞いに来ようと思っても、雪に閉ざされて来れない。私はたぶん、来年の春まで生きられない。ということは、初雪が降り積もって閉じ込められる前にここから出ないと、私はあの人に会えないまま死んでしまうことになる」と。
風花を見た瞬間に、菜穂子にこういったカウントダウンというのが聞こえてしまうんですね。
まあ「このままずっとサナトリウムで待ったまま、二郎に会えずに死ぬよりは、ひと目見てから死のう」と思いました。
菜穂子を待つ二郎の背中のカットを見て、「なんて背中だ! こんな背中だったら何も通じないよ!」とか言うんですけど。
「背中の作画で何が通じるのか?」といったら、やっぱり、宮崎駿の中では何かあるんですよね。
なので「こんな背中だったら何も通じない」と言って、自分でガンガン描き直していたんですけど。
でも、菜穂子にひと目会った瞬間、もう二郎は、彼女を戻すことを考えなくなってしまいます。
「帰らないで」というセリフを言うんです。
菜穂子は、物分り良く「ひと目会ったら帰ろうと思ってました」と言うんですけども、それに対して二郎は、「帰らないで」と言うんです。
すると、コンテに「二郎の言葉は望んでいたが、予想していなかった。驚き見上げる」とある通り、菜穂子の顔に歓喜が湧き上がる。
「ここで一緒に暮らそう」と二郎に言われて、その言葉は、望んでいたけども予想していなかったので、顔いっぱいに喜びが浮かび上がると書いてあります。
これまで、菜穂子の周りの人は、みんな菜穂子を大事にしているので、「治せ」と言ったんですね。
「もっと生きろ。治せ」と言っていた。
だって、結核というのは、当時は「感染るし、死亡率も高い」と思われていたからです。
でも、この「治せ」というのは、菜穂子にとって「生きるな」と言われているのと同じなんですよ。
「狭くて寂しい場所に閉じ込められて、誰にも会えない」ということだから。
だから、治せと言ってくれる人は、自分のことを大事にしてくれる、愛してくれるんだけど、わかってくれてない。
しかし、堀越二郎という自分の好きな人は、初めて自分に「もう治さなくてもいい。結核が感染ってもいいから一緒に死のう」と言ってくれたんですね。
女だけが先に死んじゃって、2人とも別に自殺するつもりではないんだけども、結果的にそういうふうになってしまったという。
こういう構造で出来てるんですね。
一緒に死ぬはずだった女に先立たれて、その後、恥多き人生を送った飛行機の設計者の、理解と共感の話なんですよ。
初夜、菜穂子は二郎に「来て」と言います。二郎は「だけど、お前……」と言うんですけども。
その二郎の声を遮って、菜穂子は布団をめくり上げて、もう一度「来て」って言うんですね。
この「来て」と2回言うシーンというのは、ラストの伏線です。
後半でラストのことを言いますから、ちょっと覚えておいてください。
しかし、そうやって結ばれた2人なんですけども、二郎は毎日、家へ帰るのが遅い。
ついには、仕事を持ち帰るようになってしまいます。
これまでの二郎というのは、結構、仕事が忙しくても、家にまで持ち帰るシーンというのはないんですよね。
つまり、仕事を続けながら、菜穂子と一緒の時間を作るためには、もう仕事を持ち帰るしかないんですよ。
菜穂子の布団の隣で仕事をしている二郎は、「手をください」と言われて、左手を渡して、右手だけで計算尺を操ります。
二郎は「上手くいきそうだよ。5匁(20グラム)くらい軽くなりそうだ」というふうに、嬉しそうに菜穂子に言うんですけど。
僕も昔、最初にこれを見た時には「こいつ、本当に自分勝手なヤツだな。結局、タバコを吸いながら、この女の寿命を縮めてるじゃないか」と思ってたんですけど。
その見方ではいけなかったんですね。
ここ、「タバコ吸いたい。手を離しちゃダメ?」と二郎が言うと、菜穂子が珍しく「ダメ」と一言、断言するんですね。
菜穂子というのは、こんなふうに二郎のやりたいことを否定しない女なんですけど、ここでは「ダメ」と言う。
なので、二郎は仕方なく隣でタバコを吸う。
二郎にとって「タバコを吸いたい、タバコを吸う」というのは「仕事がうまくいっている」という証拠なんですよ。
仕事が上手く行ってる時には、脳が活性化してきて、タバコが吸いたくなるんですから。
仕事が進んじゃってるからタバコが吸いたくなるんですね。
「菜穂子の命とか血液というのが、繋いで手を通って二郎に流れて行って、それが九試単戦、もしくはゼロ戦に流れて行く」というメタファーなんですね。
菜穂子は誰かの世話になって生きていきたい女じゃないんですよ。
「二郎が帰ってきたら、自分で世話をしたいし、尽くしたい」と思っているような人なんですね。
なので、サナトリウムから街に下りてきて、自分の命を二郎に役立てることにした。
つまり、これってある種『夕鶴』の構造になっているんですよね。
「見てはいけません」と言いながら鶴が機を織るんだけど、それは自分の羽を抜いて機を織っていた。
自分の命を織っていたのでしたという、この民話的な構造になっている。
だから、菜穂子は手を離すことを許さない。
なぜかというと「自分の命が未来のゼロ戦を作っている」ということに、なんとなく感づいているからですね。
だって、それ以外にどうやって、菜穂子が、この身勝手で飛行機しか好きでない男の人生に関われるというのか。
でも、実は彼女はすごく主体的な人なんですよ。
そんな菜穂子が「この人の人生に関わろう」と思ったら、自分の命を差し出してゼロ戦を作ることを手伝うしかないんですね。
それを示すかのように、「菜穂子がいたから出来たんだ」というセリフもあるんですよ。
僕は最初に見た時に、これを単なる感謝を伝える言葉、「お前がいてくれてよかったよ」と言ってるものだと思ったんですけども。
でも、これって “ダークファンタジー” なんですよね。
魔界モノというか。
「自分の命をこの人の身体の中に流すことで、2人の結晶である飛行機というものに行きついていく。ただ、その飛行機というのが、結果的に日本を滅ぼすことになっていく」という、すごい構造の映画になっているんです。
「私、サナトリウム行きます」とか、「私、サナトリウムから逃げます」とか、「私はもう自分の仕事が終わったからサナトリウムに帰ります」という時に、一切、二郎に相談しない。
何がしたいのかは、全部、自分で考えて決める。
そういう主体的なキャラクターなんですよ。
そんな主体的な人が選んだことが「飛行機が完成するまで隣りにいて、この人に力を与え、そしてそれが終わったら、もう自分にはやることがないから、帰る」ということだったんですね。
菜穂子っていうのは「好きだから一緒にいたい」ではなく、「この男の役に立ちたいから一緒にいたい」という、すごく主体的な強いキャラとして、宮崎キャラのヒロインに相応しい性格というか、根性をしているわけですね。
だから、これは、高畑勲が『ぽんぽこ』で語った「もうファンタジーはいらない」というテーゼに対する反論、アンチテーゼです。
だからこそ、ダークファンタジーとして描いてるんですね。
「現実こそファンタジーなんだ」と。「貧乏な国が飛行機を持ちたがるという夢を持ち、1人の女がその犠牲になることで、夫を成功させる。これがファンタジーでなくて、何だというのか!?」と。
この宮崎駿の高畑勲に対する反論が、なかなかすごいんですけども。
二郎は、関東大震災の時に会ったお絹のことを、2年経っても覚えていたんですね。
それはお絹が綺麗だからです。
でも、自分のことを二郎は覚えてくれなかった。
「それは、自分があの時、綺麗でなかったからだ」と。
「じゃあ、綺麗だと言ってもらえる今の私が、二郎さんの前から消えたら、お絹のように覚えていてくれるだろうか?」というふうに考えたから、サナトリウムに帰って行ったわけですね。
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