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今回は、ニコ生ゼミ02月17日(#269)から、ハイライトをお届けいたします。
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「【『ファーストマン』番外編 3 】 下宿のベッドに15人」
ここで、ちょっと話が戻ります。
カレンが1961年の6月にシアトルの公園で転ぶことになった、その2ヶ月前の4月に、アメリカの歴史を変えるような事件が起きました。
これによって、アメリカは「科学力で決定的にソ連に負けている」と思ったんですね。
それまでのアメリカは「第2次大戦において、科学の力でナチスドイツを破り、日本を破って世界一になった」と、本当に自信を持っていたんです。
これはもう「油断していた」と言ってもいいくらい自信を持っていたんです。
そんなアメリカという国にとって、ソ連に、ガガーリンの地球周回という、自分たちに全く出来ないことをやってのけられたというのは、本当にプライドをへし折られたような事件だったんですね。
カリブ海といったら、まさに「お膝元」ですよね?
そんなことが起こってしまったので、発足したばかりのジョン・F・ケネディ政権はパニックになります。
そこで出てきたのが副大統領のリンドン・ジョンソンです。
このリンドン・ジョンソンが提案したのが「締め切りを延ばしましょう」という意外な方法でした。
「正直にいってソ連との科学力の差は、どうしようもない」というふうにジョンソンは言いました。
これが “ミサイル・ギャップ” と言われるものです。
実はこれについて、1990年から21世紀に入ってきた辺りの研究では「当時のミサイル・ギャップというのは、実はそんなになかった。リンドン・ジョンソンやアメリカの軍部たちが、現実以上にソ連の科学力を大きく見せて、自分たちの勢力を拡大するための手だった」と、今になって言われるようになっているんですけども。
当時は、そんな事わかりません。
こんな口車に乗ったケネディ大統領は、「ああ、その手があったか!」と、もうわずか2週間後の5月に両院で演説し、かの有名な「60年代末までにアメリカは人間を月に送って、帰ってくるんだ!」という宣言を行いました。
なので、まあ、古い話になるんですけど、『ドリーム』っていう映画が去年公開された時に、もともと付いていた「私達のアポロ計画」という副題が、「あれはアポロ計画じゃない! マーキュリー計画だ!」という、一部の無粋な映画評論家やマニアによって攻撃されて、タイトルが変わっちゃったことがあったんですけど。
「あれはアポロ計画だよ。だって、ジョン・グレンが打ち上がった時は、完全にアポロ計画が始まってたんだから。私達のアポロ計画で全然構わねえよ」って思ったんですけど。
まあ、それは置いときましょう(笑)。
ようやっと5月に、アラン・シェパードを乗せたマーキュリーカプセルを打ち上げたんですけど、地球の周りは回れずに弾道飛行で落ちてくるだけ。
7月のガス・グリソムも同じく弾道飛行でした。
周回軌道に乗せることが出来る “アトラスロケット” は、まだまだ実験する度に爆発する不安の残るロケットでした。
ニールの娘カレンが死んで1ヶ月後の2月20日に、ジョン・グレンはアメリカ人として初めて地球の周りを3周回ることに成功しました。
この時のアメリカの熱狂はすごかったんですよ。
もはや伝説で、それまで「歴史上最もすごいアメリカの熱狂やパレードというのは1927年のリンドバーグのパレードだ」と言われていたんですけども、ジョン・グレンというのは、それ以上になったんですね。
以後、ここまですごい英雄はアメリカの歴史には現れてません。
実は月着陸したアームストロングのアポロ11号のパレードも、その後、ニューヨークで開かれたどんなパレードも、ジョン・グレンのパレードほどすごくなかったんです。
あれが、アメリカの歴史で本当に一番すごかったんですね。
まあ、そんな状態でした。
つまり、「空軍はもう宇宙に行けない」というのが、はっきりわかっちゃったんです。
もはやジェット・パイロットとしては、これ以上のキャリアアップ・出世は望めない。
時代は「宇宙飛行士こそ真のヒーロー、真のパイロットだ!」と言い始めていた。
そして、ジョン・グレンが地球を周ることによって、それが証明されちゃったんですね。
しかし、願書を出しても返事が来ないんですね。
すると、ある日、いきなり「ニューメキシコに行け」という指示が届きました。
アルバカーキという、『ブレーキング・バッド』でお馴染みの、ニューメキシコの街に、ラブレースクリニックという病院があります。
これ、僕も偶然、去年行ってきたんですけど。「そこで検査を受けろ」と言われるんですね。
「でも、それは極秘だ。誰にも言うな」と。
「ジェミニ計画に関係があるのか?」と聞いても答えてくれないんです。
何のことかもわからずに、ラブレースクリニックに行ったニールは、ものすごく精密な身体検査を受けさせられました。
ここで「あ、これ、ジェミニ計画の一環なんじゃないかな?」と思ったそうなんですけど。
このX-15のテストでは「マッハ7.5にまで持っていけ」と言われます。これはもうX-15の最大速度に近いんですよ。
このテスト中に操縦席中に煙が溢れ出しました。
つまり「どこかが燃えてるんだけど、それがどこかはわからない」と(笑)。
そんな燃え続けているX-15を、なんとか着陸させて、またニールは死にかけたわけですね。
そういった完全に途絶された場所に隔離されて「2時間経ったら出て来い」と言われるんですね。
この2時間というのが全くわからなくて、みんな30分くらいで出てきちゃうんですよ。
「もう、いくらなんでも2時間経っただろう」と。
しかし、「いや、俺は丸1日くらい過ごした」と思って出てきたら、「まだ30分とか45分しか経ってない」と言われてビックリするんですけど。
「お前、どうやったんだ?」と聞かれたニールは、「いや、“下宿のベッドに男が15人” を歌ってた」と答えたんですよ。
その1つに、ボーイスカウトがベッドに10人寝てて「ロールアウト、ロールアウト~♪」というふうに、「1人がちょっと向こうに詰めて、ちょっと向こうに詰めてって言ったら、一番奥で1人で落ちちゃった」みたいな数え歌があったそうなんです。
これが、どうも当時のアメリカの大学生の間では「下宿のベッドに男が15人寝てると、向こうへ行ってくれ、向こうへ行ってくれ、1人落ちた」という替え歌になってたらしいんですね。
ニールがこの歌を自分のペースで歌うと、ちょうど3分くらいかに収まったそうなんです。
で、それをキッチリ何十回か歌ったら、ちゃんと2時間になったので出てきたら、ほぼ2時間ピッタリだったそうなんですけど。
この辺のクソ度胸というか、落ち着きっぷりというのが認められて、彼は最終選考に残ります。
最初は何百人かいた候補者の内、32人を招いたパーティに参加したんです。
ニールが応募したこの第2期のアメリカの宇宙飛行士は “ニュー・ナイン” と呼ばれてたんですね。
つまり、9人なんですよ。
9人の枠で、まだ32人も候補者は残ってるわけですから、まだ誰が通るかわからないんですけど。
ニールは、そのパーティに参加した後、またモハーベ砂漠で、毎日毎日テスト飛行に参加していました。
これで、やっと結果がわかるわけですね。
「9月15日までにヒューストンのライスホテルに極秘で来い。その時には、ニール・アームストロングとは名乗るな。ホテルでチェックインする時に、“マックス・ペック” という偽名を使え」と言われるんですよ。
なぜかというと、やたらガタイのいい男が「マックス・ペックです。チェックインをお願いします」と言ってやってくるんです。
だけど、全く同じ「マックス・ペック」という名前の男は、もうすでに何人もチェックインしてたんですね。
ちなみに、ニール・アームストロングは、最後に「マックス・ペックです」と言うことになったんですけど。
「変ですよ! マックス・ペックという同じ名前の男が何人も何人も来てます! ソビエトのスパイじゃないですか!?」って。
すると、支配人は「うん。このことは誰にも言うな。以後、お前はこういう客の応対はしなくていい」と言って、以後、マックス・ペックは全員、支配人が直に担当することになったので、ホテルの従業員は全員、余計に「何か変だ!」と思うようになってしまったんですけどね(笑)。
その翌日の9月16日、近くにあったヒューストン大学のライス講堂という場所で記者会見が行われることになります。
それが、ニュー・ナイン、アメリカの第2期宇宙飛行士の公式のお披露目でした。
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