エボシ御前の一番最初の登場シーンは、米の買い付けキャラバンから、タタラ場の牛飼いたちと一緒に帰って来る場面です。
この “牛飼い” というのは、当時の「士農工商エタ非人」という身分制度の中で、一番下だと言われていた “非人” と呼ばれた人々が就いていた職業なんです。
……まあ、この「士農工商~」という身分の分類は「実際は、明治になってからの創作だ」というふうに、最近では言われてるんですけど。
牛飼い達が牛を引っ張って、その上に米俵を乗せて、米を運んでいます。
考えてみれば、かなり裕福な村ですよね。
村人全員が米を食ってる村というのは、実は、なかなかすごいんですけど。
この最中に、キャラバンは山犬達の襲撃を受けるんですね。
その結果、戦闘が起こり、山犬の親分のモロはエボシから石火矢の攻撃を受けて手傷を負って、崖の下に落ちて行く。
この時に、自分たちの仲間、子分も、牛も、牛飼い達も、ずいぶん沢山、崖の下に落ちて行ったんですね。
それに対して、ゴンザという、いつもエボシの横にいる側近が「谷に落ちた者はどうします?」と聞くんですよ。
このゴンザというのは、エボシ御前が倭寇の妻だった頃からついてきている部下らしいんですけども。
でも、エボシはわざとその言葉を無視して「すぐに出発しよう。隊列を組み直せ!」と全員に号令を掛けるんですよね。
谷に落ちた者は、まだ生きているかもしれないのに。
どういう事かというと、治る見込みのない、言っちゃえば、身体障害者になっているかもしれない者たちを養う余裕は、タタラ場には無いんです。
だから、躊躇なく見殺しにするわけですね。
そして、エボシ本人は、こういった冷徹な人間であることが他のみんなにバレないように、かなり気を使っています。
だから、崖の下に落ちたコウロクという牛飼いが、アシタカに助けられて村に帰って来た時には「コウロク、すまなかったな」と、つまらない牛飼いの下っ端一人一人の名前を覚えているかのように、大袈裟に謝ったりするんですね。
だけど、ここでは謝っているように見えても、たぶん、この人は、また同じ状況になれば、平気で彼を見捨てると思うんですよね。
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さらには、アニメとしてのクライマックスである “シシ狩り” のシーンで、彼女は地雷が仕掛けられた場所にイノシシ達をおびき寄せて、ドーンと吹き飛ばすようなことをしています。
これは、その様子を見下ろしているエボシとゴンザです。
両者とも、目線が見えないように帽子で顔の上半分を隠して描いてますよね?
これは襲い掛かってくるイノシシ達を地雷原に誘い込んで吹き飛ばすという作戦なんですけど、この時、囮として、エボシの配下のタタラ場の牛飼いなどの子分達を、地雷原のすぐ近くに配置しているんです。
それに向かって来るイノシシを爆弾で吹き飛ばすもんだから、彼らも爆弾の被害を受けるし、上から吹き飛ばされた巨大イノシシの死体も降って来るから、もう、ほとんど全滅の状態になります。
後に、イノシシと人間の死体が混ざってわからなくなるほどの死屍累々な光景の中、生き残った村人の一人が顔を隠して泣いているところを、アシタカが見つけるという、かなり悲惨なシーンがあるんですけど。
エボシというのは、最初から自分の部下を囮として配置することすら選択肢の1つとして考えているような人物なんです。
だから、そういう事態がいざ現実に起こっても、それを冷静に見ていられるんですよ。
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このように、エボシというキャラクターには、もちろん“知性と優しさに溢れる良きリーダー”という側面もあるんですけど、同時に“目的のためには仲間を平気で犠牲にする冷たさ”という面もあります。
その2つを兼ね備えた人物として描かれてるんですね。
僕が思うに、このエボシのイメージ元って、たぶん、この人だと思うんですね。
毛沢東です。
毛沢東というのは、圧倒的なカリスマ性と徹底的な合理性で国造りのためには容赦なく “文化大革命” などの破壊と殺戮を行いつつも、その一方では、農民の生活をただただ向上させようとした人でもあります。
なぜ、これがエボシのモデルなのかというと。
実は、毛沢東は、当時の世界の鉄鋼産業をリードしていたイギリスを「15年以内に追い越す!」と宣言して、中国の村中にタタラ場(製鉄所)を作って、農民に製鉄を教えて、中国国内の鉄の生産量を飛躍的に上げようとした人なんですよ。
まあ、結果的には大失敗したんですけどね。
宮崎駿は、そういった毛沢東の過去の行いを踏まえて、『もののけ姫』に登場するタタラ場という共同体を、ある種の “共産主義の理想郷” として描いたんじゃないかと思うんです。
宮崎駿自身が青年の頃、10代後半から20代いっぱい、30代に差し掛かるまで、ずーっと憧れていた共産主義。
もちろん、今となっては、毛沢東とか中国共産党指導部の残虐性も問題点も、十分に暴かれてしまっています。
しかし、いわゆる “年老いた左翼” としての宮崎駿というのは「だからといって、いやあ、共産主義は間違いでしたね、中国共産党は間違ってましたねと、クルリと翻るほど、俺は軽い人間じゃねえ!」って思っているわけですね。
間違いがあるのだとすれば、その過ちを認めるというよりも「そういった過ちが、なぜ自分の中で起こったんだろうか? それは本当に間違いだったんだろうか?」と検証する。
それが終わるまでは、まだまだしがみつくつもりなんですよ。
そんな、青年期の毛沢東を、絶世の美女として表現したのがエボシであると、僕は考えています。
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エボシというのは、さっきも話したように、人買いに売られて、倭寇の妻となって、親分も殺して、明から先端技術を盗んで、日本で独立国を作ろうとしたんですよ。
つまり、彼女は革命家であり、テロリストでもあるんですね。
彼女にとっては、王様も神様も邪魔なんですよ。
毛沢東自身も「宗教というのはアヘンだ」と言って、宗教、つまり神様の存在も全部 否定した人なんです。
だから、エボシにとっても、森の神というのは “単なる巨大生物” に過ぎないし、「自分は神の家系である!」と名乗る天皇家も “単なる政治家” に過ぎないんです。
「どちらも私の理想の国には必要ない。私の国というのは、全ての人間が平等で、合理的に組み合わさって生きていくんだ!」というのが、エボシの考えなのだと思います。
そんな「森の神様のような迷信には付き合ってられないよ!」という、徹底的な思想と共に、本当に武装までしてますから、まさにテロリストですよね(笑)。
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