ペンネーム “ひばり” さんからの、ちょっと長めの、暗いめのお便りです。
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毎回、いろいろな気づきを与えてくれる岡田斗司夫ゼミですが、特に『火垂るの墓』の回は、感動と共に多くのことを教えてくれました。
特に僕は、清太に近いタイプの人間じゃないかな ということを思います。
小さい頃から、人間関係の距離感を掴むのが苦手。
歳を重ねれば重ねるほど難しくなっていきます。
苦しい時でも周りに頭を下げて助けを求めることが出来ず、社会とのつながりを最小限に留め、どこかで他人を信じない部分があります。
敵が空から爆弾で街を焼き尽くしている時、清太が嬉しそうに近所に空き巣に入るシーンのような感情は、僕の中にもあります。
そのような精神状態についての「自分を邪険に扱う周りの人間達が敵だらけに見えていき、人間性を失っている」という岡田さんの解説に、ハッとさせられました。
僕の「自分の中にある正義というものに囚われすぎて、自分をどんどん追い込んでいる」という心理構造が、清太の心理状態に似ているのかもしれません。
また、清太が防空壕の中に逃げ込んで、社会との繋がりを断つことを選んだように、僕もネットの可能性を夢見て、自分の中に逃げ込んでしまいました。
清太が選んだのが防空壕だったように、僕にとってこのニコニコ動画が防空壕だったのかもしれません。
そして、「結局、今のネット社会は、バーチャルリアリティであるとはいえ、向こう側の人間を常に意識しなければいけないということに関しては、コミュニケーションの在り方は数万年前から何も変わってないんだ」ということも、前回の『サピエンス全史』講義で考えさせられました。
最近見た映画『her/世界でひとつの彼女』が、コミュニケーションの在り方として僕にとってSFでした。
コミュニケーション障害をテクノロジーが吸収してくれる時代が来たら、サピエンス全史から続いてくるようなコミュニケーションから脱却でき、本当の意味でのフラットな世界が来て、僕のようなダメ人間でも生きやすい時代が来るのでしょうか?
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それが、富野由悠季が描いた “ニュータイプ” なんですけどね。
人と人とが、面倒くさい会話とかではなくて、心と心が本当に分かり合って触れ合ってというようなヤツなんですけども。
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『レディ・プレイヤー1』について、さっきは「後半で話す」って言ったんですけども。
僕が持っているこの映画への不満は、結局「こっちのリアルな世界が一番大事なんだよね!」というふうに、スピルバーグが映画の中で言い放っちゃってるところなんですよね。
「てめえスピルバーグ、それはお前がハリウッドで大儲けしたからじゃねえかよ!」って(笑)。
なぜかというと「結局、リアルが大事」みたいな、“結局” なんていうのはないんですよ。
どっちの世界にも解答はない。
人間は、自然をありのままに受け入れられるようには出来てない。だから、本当の自然の中で生きていた狩猟民族であっても、宗教とか、噂話とか、虚構が必要だったわけですね。
自然をそのまま受け入れることは人間には出来なくて、「これは神の仕業だ」って考えないと生きていけなかったんですよ。
僕らが今いるような、福祉の行き届いた世界を作っても、ゲームとかネットの世界に逃げ込まないとダメになる人がいる。これも当たり前なんですよ。
だから、「こっちが本来の人間の姿! こっちが正しいんだ!」って言って、全てが楽になるようなもの…
…たとえば、それは、狩猟民族の暮らし、バーチャルリアリティでも、全部同じなんですけども。
そこに行けば全てが楽になる世界というのを求めた瞬間に、なんかトラップにはまってしまうというか、マズいことになっちゃう気がするんですよね。
だから、「どっちかというと、こっちの方が私は楽だな」とか、「私には似合ってる」という辺りを探した方がいいと思います。
「ドロップ舐めて気楽に生きてください」ということで、ドロップを差し上げます。
缶の裏に「ガンバレ!」とか書いとくよ。
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