プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は日本プロレス界最高権威のベルト「IWGP」の成り立ちについて! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!
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――前回はNWA世界王座の仕組みについて伺いましたが、今回は新日本プロレスが管理するベルト「IWGP」についてお聞きします。いまのプロレスファンはIWGPのベルトがどうやって作られたのかを知らないと思うんですね。
小佐野 もう30年以上前の話ですからね(笑)。どうしてIWGPというベルトが作られたかというと、新日本もいろいろありながらNWAに加盟できたんですよ。それは昭和50年、1975年のこと。加盟したのはフリッツ・フォン・エリックがNWA会長のときで、それまでに2年連続で却下されてたんですよ。
――どうして2年も連続で却下されていたんですか?
小佐野 それはやっぱり当時敵対していた全日本プロレスの存在ですよね。馬場さんはのちにNWA副会長になるほど発言力があったし、同じテリトリーで競合するプロモーターが揃ってNWAに加盟することはありえないんですよ。
――全日本だけにNWA世界王者が来るからビジネスになったわけですよね。
小佐野 だから新日本が加盟を申請しても、同じ日本でNWA会員のジャイアント馬場は阻止しようとする。最終的に加盟の当落は会員の投票で決まるんだけど、結局2年連続却下されたという。そこは馬場さんにつくNWA会員が多かったから。
――でも、新日本は懲りずに申請を続けて。
小佐野 3年目にまた申請したら「条件付きで加盟を認めましょう」となった。子供みたいな話なんだけど「ジャイアント馬場と仲良くしなさい」という条件(笑)。
――ハハハハハハ!
小佐野 それはつまり全日本が呼んでる外国人レスラーを横取りしちゃダメですよと。あとは加盟後1年間はNWA世界チャンピオンには挑戦できません。この条件だと、新日本からすれば加盟する意味がないんだよね(笑)。だって、いままでと同じ外国人選手しか呼べないわけだから。
――それにNWA世界王者にも挑戦できない。なんのための加盟なのか、と。
小佐野 そこで加盟を躊躇したんだけど、加盟前から新日本に協力的だったプロモーターたちとおおっぴらに付き合えるので加盟したほうがいいだろうということになった。ただ猪木さんじゃなくて坂口さんが会員になったんです。
――どうして猪木さんではなく坂口さんなんですか?
小佐野 そこは猪木さんのプライドの問題でしょう。「そんなんだったら俺はもういいよ!(怒)」と(笑)。いちおう説明しておくと、NWAには団体じゃなくて個人で加盟するんです。あのとき日本プロレスはもう消滅してるんだけど、日プロの社長だった芳の里さんはまだNWAの会員で馬場さん側についていた。だから日本プロレスが管理していたアジアタッグのヘビー級、タッグのベルトは全日本に移ったでしょ。
――そんな背景もあったんですね。
小佐野 そのために馬場さんは芳の里さんにお金を払うか何かはしてると思う。それまで猪木vsストロング小林、猪木vs大木金太郎をやったときには、日本プロレスOB会として芳の里さんは猪木さんについて「猪木と戦いなさい」という勧告書を出していたんだから。それがいつのまにか馬場派になっていた。
――新日本の加盟にも反対の立場を取っていたんでしょうね。
小佐野 NWAの加盟に関してはテレビ朝日(新日本プロレス)、日本テレビ(全日本プロレス)の争いにもなっていたから、投票の際にはアメリカの各プロモーターにお金が行き渡っていたんじゃないかなって想像できるよね。
――五輪やサッカーワールドカップの開催地を巡るロビー活動みたいですね。
小佐野 そうそう(笑)。あのとき新日本側についたのはロサンゼルスのマイク・ラベール、ニューヨークのビンス・マクマホン、カナダ・トロントのフランク・タニー、カルガリーのスチュ・ハート。あとフロリダのエディ・グラハムの存在は大きかった。NWAの主流派のひとりだから。デトロイトのザ・シークは最初は馬場派だったんだけど、猪木派になってまた馬場派に戻った。だからシークは1回だけ新日本にも来ていた。
――いろいろと綱引きがあったんですね(笑)。
小佐野 で、ここでIWGPの話になるんだけど、新日本としてはNWAに加盟しているメリットがそれほどない中、80年12月の蔵前国技館で新間さんが「アントニオ猪木は来年、世界のベルトを統一します!」とブチ上げたんです。
――それがIWGPのスタートなんですね。
小佐野 まだIWGPという名前はなかった。世界のベルトを統一する「世界統一構想」。新間さんいわく「NWAの主要プロモーターには説明してある」と。
――実際、プロモーターに話はしてあったんですか?
小佐野 いやあ、してないでしょ(笑)。大風呂敷を広げただけ。
――ハハハハハハ!
小佐野 当時の新日本って、猪木さんの思いつきで言ったことをどうにか形にしていくスタイルだったから。猪木さんが考えて、新間さんが公言して、そこから後付けで形にしていく。そもそも世界のベルトを統一するなんて、アメリカプロレス界にはありえない発想だよね。プロモーターからすれば、各マーケットにローカルチャンピオンがいて、NWA世界チャンピオンが渡り歩いてくれればそれでいいんだから。
――興行としてベルトを統一する意味はないですよね。
小佐野 それをなぜひとつにまとめるのか? 誰が管理するのか。問題は尽きない(笑)。
――猪木さんには格闘技世界一決定戦の流れがありましたし、統一構想には「世界最強」という考えが根底にあったんでしょうか。
小佐野 そうだろうね。それまでは他ジャンルの格闘家たちと「格闘技世界一」を争ってきたけど、今度はプロレスの中の真の世界一を決めるという。
――そのために猪木さんは新日本のリングで主要タイトルだったNWFヘビー級のベルトを返上してますよね。
小佐野 81年の春にIWGP参加のために返上してますね。NWFのベルトは猪木さんの自慢でもあるんだけど、ニューヨーク州バッファローを拠点にアメリカ北東部、カナダの一部で実際に活動していた団体のものだから。全日本のPWFは全日本が作ったベルトでしょ。インターのベルトも日本プロレスが作った。そういう意味ではNWFはローカルなベルトだけど、お手盛りのベルトではないというね。
――新日本プロレス内のベルトではなかったんですね。
小佐野 猪木さんは日本でストロング小林と防衛戦をやった翌日にはオハイオ州クリーブランドに飛んで、アニー・ラッドと防衛戦をやったりしてましたからね。ただ、80年代に入ったときにはNWFは事実上活動は停止しちゃっていたんです。
――ベルトだけが存在していた。
小佐野 そのNWFのベルトもIWGP構想のために返上。アジアのシングルとタッグのベルトも返上。あと北米タッグ、北米ヘビーも。
――北米のベルト、ありましたねえ(笑)。
小佐野 返上しないベルトもあった。WWFのジュニアヘビー級のベルト。それと藤波さんがWWFのインターナショナル・ヘビー級のベルトを獲得するんだけど、その2本のベルトは返上しないんですよ。せっかくマジソンスクエアガーデンで取ったベルトだから返上したくなかったのかなあ。
――まあ、その2本はたしかに返上するのはもったいないですね(笑)。
小佐野 のちのちタイガーマスクがデビューしてWWFのジュニアのベルトを巻くし、藤波さんがヘビー級転向後、長州さんと抗争したときにインターのベルトは懸けられていたから、残した意味はあったんだけどね。
――猪木さんがNWFを返上したのは81年で、IWGP決勝リーグ戦が始まったのは83年と2年間の準備期間がありますよね。プロレスの興行でタイトルマッチがないってけっこう大変じゃないですか。
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