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「リングス東大」とは何だったのか? 和術慧舟會から現在に至る流れを宇留野道場の宇留野修一氏に語ってもらいました!(聞き手/ジャン斉藤)


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塩田“GoZo”歩さんを取材したら伝説の格闘技サークル「リングス東大」の話で盛り上がりまして。誰かそのへんのお話を詳しくできる人いないかなってポストしたら、清水俊一選手から宇留野さんをご紹介いただきました!

宇留野 けっこう古い話なんで、ボクの記憶もアヤフヤなんですけど(笑)。

――90年代格闘技の貴重な資料をたくさんお持ちで!(笑)。

宇留野 家探ししてきました(笑)。

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――あっ、リングス東大は女性の方も入っていたんですね。

宇留野 この子は、宇野(薫)がアマ修斗で準優勝したときに女子の部で3位になってます。すごく強かった禅道会の石原美和子さんに負けてるんですね。

――石原美和子さんはいまは教育関係の仕事に就いてるそうですね。あっさり引退しちゃいましたけど……。

宇留野 あの時代の女子はなかなか試合する機会がなかったんですよね。

――そもそもあの当時の一般人が総合格闘技に触れる機会もなかったので、リングス東大の存在は興味深くて。

宇留野 ボクがリングス東大に関わったのは、社会人2年目のときなんですね。リングス東大は94年から始まってるんですが、ボクは95年の春から入ってます。リングス東大の主将の方は東大の3年生だったんです。

――リングス東大は外部の人間も参加できるインカレだったと。リングス東大の初代主将が当時を振り返るブログは残ってますね。

宇留野 はい、ボクも読んだことあります。どうやってリングス東大を知ったかといえば、『格闘技通信』に「リングス東大という格闘技サークルをやってます。練習したい方はどうぞ」という告知があって。社会人でOKということで練習に参加させてもらったのが95年の春だったんです。練習場所は東大駒場キャンパスの柔道場ですね。

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――
宇留野さんはもともと格闘技をやってたんですよね?

宇留野 はい。スーパータイガージムがスタートです。1986年に入会しました。

――スーパータイガージムって“タイガーマスク人気”でめちゃくちゃ会員が多かったんですよね。

宇留野 いや、ホントにすごかったですね。ボクの会員番号は360番台でした(笑)。でも、通ったのは短くて半年くらいかな。ケガしちゃってしばらく休んで戻ってきたら、懇意にしていたインストラクターさんがいなくなってて。それでちょっといづらいというか、楽しくなくなって、そのままやめちゃったんですけど。そのインストラクターが平直行先生なんです。

――平さんに惹かれて一緒にやめちゃう会員さんもいたそうですね。

宇留野 平さんにはあだ名もつけられて。大きい身体に真っ赤なタイガージムのスウェット上下を着ていたら、「オマエ、ポストみたいだな」ってことで「ポスト」と呼ばれるようになりました(笑)。

――あだ名はシューティングの伝統ではありますね(笑)。

宇留野 普通は初級者コースからやって格闘技の形になっていくんですけど、ボクなんかは2回目くらいに平さんに呼ばれて、昔のプロレスの寝技の練習をやらされて。「まいった!」しても離してくれないやつで遊ばれてたんです(笑)。

――いわゆる“かわいがり”ですね(笑)。

宇留野 そうですそうです。夜の合同練習が始まるまでがボクら初心者の練習。それが終わったら帰るんですけど、合同練習まで平さんに遊んでもらえるんです。平さんがいないときは、北原さんにかわいがってもらって。

――ジークンドーの中村頼長さんもインストラクターでしたよね。

宇留野 頼さんもいらっしゃったんですけど、すごい無口だったんですね。平さんと北原さんがボクをいじるのを優しく見守ってくれてました。ボクが中国武術が好きだったことを知ってて、発剄の実験台にされて。お腹をバーンと突かれて「もし気持ち悪くなったら明日病院に行け」って脅されたことがありますね(笑)。

――大阪の大学に通うことになった宇留野さんがそこでサンボ部を作るんですよね。

宇留野 話せば長くなるんですけど、やる気もないのに高校で柔道部に入ることになったんです。ウチの高校は東海大の系列で、3年生のときに浅井信幸先生というビクトル古賀先生のお弟子さんが指導に来られて。浅井先生に教わった縁で、全日本サンボ大会の高校生から大学2年生までの部に出て勝ったので、世界選手権に行けることになって。そこでもたまたま3位に入ったので、一応肩書きは世界選手権ジュニアだけど3位(笑)。

――すごいじゃないですか!

宇留野 で、大学1年生からどこかの部活に入るのは上下関係もあって、なかなかしんどいじゃないですか。だから学生寮の友達と「何か新しい部を作ろう」と。本当は総合格闘技部にしたかったんですけど、学校側はなんの実績もないのは難しい。じゃあボクはサンボ世界選手権3位だからサンボ部はできるんじゃないかって。まずサンボ愛好会から始まって、次は同好会、最終的に部に昇格していったんですね。部費も5万円、7万円、15万円って増えていきましたね(笑)。

――当時サンボって新しい格闘技として注目されてましたね。

宇留野 泥臭くて、あまり日の目は見なかったんですけど(笑)。リングスにロシアの選手がいっぱい来たり、UWFでもアキレス腱固めとかサンボの技がよく使われてましたし。一番は佐山先生が80年代に「これがサンボだ!」という本を出したり、あとはサンボの大会に出ようとしたことですよね。結局、揉めて幻に終わったんですけど。

――「これがサンボだ!」持ってます! UWFの流れからサンボやシュートボクシング(SB)が脚光を浴びてましたよね。

宇留野 平さんはそのSBに移っちゃったから、ボクはタイガージムにいづらくなって。ボクの体型はシュートボクサーじゃないことは自分でわかってたので追っかけられないし(笑)。ボクは大阪の大学でサンボ部をやってたんですけど、その頃、平さんが正道会館のオープントーナメントに挑戦したことがあるんですよ。

――ベスト8まで進みましたね。

宇留野 そのとき大阪でやってたのでボクは応援に行ったんですよ。会場を歩いてたら突然蹴りを食らって。誰か思ったら平さんで「何してんだよ!」って言われました(笑)。

――正道会館に勢いがあったり、大阪の格闘技文化にも熱がありましたよね。

宇留野 正道会館をはじめとして、空手や打撃系の格闘技が多かったですね。ボクは大阪の八尾という田舎にいたんですけど、組みをやる場所がなかったです。

――旧UWFの森泰樹さんのライルーツコナンってありましたよね?


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