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――小佐野さんはDropkickメルマガ創刊当初からレギュラー連載をされてますが、ライブ配信形式の取材は初めてです。今日は、昨年末に発売された小佐野さんの書籍『至高の三冠王者 三沢光晴』について詳しくおうかがいしますので、よろしくお願いします。
小佐野 はい、よろしくお願いします。
――ボクもさっそく読ませていただいたんですが、これは本当にかなりの大作というか。執筆にも相当に時間がかかってますよね?
小佐野 どうしても、三沢光晴という人が描かれるときには、亡くなったときの状況とかそういう内容が多くなって、「非業の死を遂げた天才レスラー」みたいな話になっちゃうじゃないですか。ボクはそれがイヤだったんですよ。この本のラストは、全日本プロレスが初めて東京ドームに進出したところで終わってるんですけど、そうしたかったのは、結局このあとの話になると、彼はブッカーになったり、ノアの社長になったり、レスラーではない面がいっぱい出てくる。そうじゃなくて、プロレスラー三沢光晴の全盛期、いわゆる90年代の究極のプロレスと言われた四天王プロレスを完成させるところまでの、純粋なプロレスラー三沢光晴を描きたかったんですよね。
――それって、版元から「ノアの話も書いてくださいよ」というリクエストはなかったんですか?
小佐野 というか、もっと言うと、本当はボクはタイガーマスクを脱ぐところでやめようかと思ったぐらいだったんだけど(笑)。
――マスクを脱ぐところで!(笑)。
小佐野 彼の2代目タイガーマスクはかなり過小評価をされていると思っているので、そこを検証するところで終わってもいいかなと。ただ、やっぱり四天王プロレスは外せないかなと思って東京ドームまでにしましたね。
――たしかに、三沢さんの2代目タイガーマスクはそこまで弾けなかったというのが一般的な認識です。この本ではそこを丹念に拾っていますね。
小佐野 ボクが彼を密に取材するようになったのが、彼が2代目タイガーマスクとして帰国してからなんですよね。そこから彼がマスクを脱ぐところまでは、全日本プロレス担当記者としてガッツリ取材していた時期。だから、その時代の三沢光晴の正統な評価をしたいなというのはありました。たとえばミル・マスカラス戦とかあるじゃないですか。これを読んでYouTubeで試合を観るとかなり面白いですよ。というのも、やっぱりマスクを被った中に、のちにマスクを脱いだときの三沢光晴がいるんですよね。だって、あのマスカラス相手に、凄く我を通すタイガーマスクがそこにいるんですよ。
小佐野 だって、この時代のマスカラスって、もうドロップキックをやらない人なんですよ。だから、思わずエキサイトしてドロップキックを繰り出すマスカラスがいるだけで、もう凄い話ですよ!
――マスカラスがドロップキックをやることがいかに大変なことかと(笑)。いまはどの団体も選手育成が上手くなっている印象がありますけど、当時は新人育成が確立されてなかったこともよくわかりました。
小佐野 とくに、全日本の場合には同期というのがいなかったんですよ。すぐにやめちゃうから。たとえば、新日本だと「ヤングライオン」とか言われるじゃないですか。全日本の場合は「前座」ですからね。興行の中の前座という扱いで、だからべつに育てるという考えがないんですよね。
――馬場さん自身はアメリカでスーパースターになりましたけど、プロレス団体をつくるという意味では、最初から新人を育てる必要はないと思っていたのか、やり方がわからなかったのか、それはどちらだったと思いますか?
小佐野 ひとつには、途中から日本プロレスの選手たちが合流してしまったので、それなりにキャリアを積んでいる選手が多くなって、若手が出てくる幕がなかったというのもあります。そして馬場さんが将来の全日本を考えたときに誰を育てるかというと、やっぱりオリンピックに出たジャンボ鶴田であり、大相撲の前頭筆頭の天龍源一郎なんですよ。いわゆる、ノンキャリの人が上にいくという発想が馬場さんの中にないんですよね。ノンキャリの人はもうずっと前座か中堅。
小佐野 そこに、たまたま佐藤昭雄という人が現場監督として、とくに若手のコーチとして入ってきたことが、入門当時の三沢にとってもラッキーでしたよね。
――佐藤昭雄さんはアメリカでプロレスを学んだ人だから、考え方は非常に柔軟というか。若手の風がないと団体が回っていかないことを理解していたということですね。
小佐野 佐藤昭雄という人は身体も大きくなかったし、プロレスラーとしては中堅ですよね。本人もそれをわかってるので、アメリカに行ったときに裏方のビジネスも覚えてきたんです。たとえば、ノースカロライナでジョージ・スコットというブッカーに触れたときに、じゃあ、彼がどうやってリック・フレアーをスターにしていったのか。それを見ているわけですよ。「プロレスってこういうふうに選手を育てて、こういうふうに売り出せば売れるんだ」と。で、全日本は馬場さんがエースで、2番手は外国人レスラー。ファンクスであり、ハリー・レースであり、ブッチャーであり。でも、日本テレビとしてはやっぱり強い日本人レスラーがほしい。そのためには育てないといけないんですけど、その役割を課せられたのが佐藤昭雄だったんですよね。
――新人育成はテレビ局の要請もあったと。
小佐野 いつまでも外国人レスラーに頼っていたら、お金がいくらあっても足りないですから。強い日本人がいる団体にしたい。そのためには、ジャンボ鶴田、天龍源一郎に活躍してほしい。そして、先を見たら、もっと若い選手も育ててほしいということですよね。
――おそらく、選手育成という意味では新日本もいびつでしたけど、この本を読むと、80年代ぐらいまでどの団体も試行錯誤していたんですね。
小佐野 昔の若手はいまと違って「大技を使っちゃいけない」とか、いろんな決まりがあったけど、それもメインを盛り上げるためで。メインのレスラーが使う技を前座で使っちゃったら意味がないとね。それこそ、逆エビ固めとボディスラムと、せいぜいドロップキックぐらいしか使えない中で、どうやって自分を出していくかということを昔の若手は考えていたわけですよね。昔の若手はそれが凄く嫌だっただろうけど、のちにそれが財産になったと思いますね。
小佐野 そうですね。だから、当時の年功序列、ネームバリューありきの全日本プロレスにあって、三沢の場合は異例の抜擢は受けてメキシコに行くのも早かったけれども……だってキャリア3年ですよ! キャリア3年で素顔で帰ってきたって、普通は上のカードでは使ってもらえないですから。
――いまのプロレスでもキャリア3年で上にはいけないですけど、当時ならなおさら。
小佐野 3年じゃまだ15分1本勝負、20分1本勝負の世界ですよ。でも、それがマスクを被ったことでメインイベンターになった。ただ問題なのは、ファンから見たら「アイドル・タイガーマスク」でも、ほかの選手から見たら「キャリア3年の三沢光晴」なんですよね。とくに、外国人選手から見ると「なんだ、グリーンボーイじゃないか」と。
――ということですよね。
小佐野 だから、結局アイドルレスラーのはずなのに、いいカッコできないし、いいところ全部持っていかれるというね。だからファンも「なんだ、タイガーマスク弱いじゃん」「何、毎回負けてるの?」「なんで、両者リングアウトなの?」と。
――さらに佐山聡さんの初代タイガーマスクの幻想も求められるわけで。
小佐野 でも、三沢光晴は186センチあるんですよ。ジュニアヘビー時代だって100キロあったんだから。いまのレスラーで100キロある人って何人います? 三沢はそれで空中殺法を使っていたんだから。そりゃヒザがダメになったりしますよ。
――つまり、ジュニアとして佐山タイガーの技をトレースしなきゃいけないし、身体能力に恵まれていたからこそそういう動きもできたけど、三沢光晴としては求められすぎたところはあったということですよね。
小佐野 だから、もし三沢光晴が初代タイガーだったら、あの動きでも充分だったはずなんですよ。ところが、佐山さんがあの動きだから。しかも、三沢光晴がタイガーマスクになったときって、佐山さんはもうスーパータイガーになっていて、当時はもう空中殺法を否定して「こっちが本物だ」と言ってたわけじゃないですか。
――UWFの時代と重なっちゃったわけですね。
小佐野 そうすると、三沢タイガーへの野次というのは、「佐山の真似するな」というのがある一方で、「くだらないことやってんじゃないよ」と。その両方の野次がきちゃうから大変ですよね。
――でも、タイガーマスクになっていなかったら、これだけ上で扱われなかったわけだから、それはそれで難しいところですよね。
小佐野 あとは、三沢光晴って3月にメキシコに行って、7月に帰ってきちゃってるんで、実質4ヵ月しか海外修行に行ってないんですよね。たぶん、タイガーマスクになるというプランがなければ、もっと向こうでやってたでしょうね。だから……、タイガーマスクになってなかったら?というのは想像つかないですね。<12000字で語る三沢光晴はまだまだ続く>
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コメント
コメントを書く(ID:56186686)
小佐野さん嫌いの俺でも読みたくなった良インタビュー
(ID:96101567)
確かに二代目タイガーを掘り下げる本てないな
買いだな