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――「N野さん」という呼び名で、たびたび選手・関係者のSNSに登場している中野さんですが、今日はあらためてお話をおうかがいしたいと思います!
――中野さんはRIZIN広報ということで、具体的にはどういうお仕事を担当しているんしょう?
中野 そうですね、選手の取材対応や原稿チェックをはじめ、映像や写真の貸出し、プレスリリースの作成、会見の準備など各所との調整が多いですね。あと大会当日はプレス対応だったり、ゲストや選手のアテンドなど、いろいろやってます。それから、各団体の会場にお邪魔して、RIZINのチラシを配ったり観戦したりもします。
――けっこう仕事の幅が広いですね。そもそも、RIZINで仕事をする以前、格闘技との最初の接点はどんな感じだったんですか?
中野 もともとはべつに格闘技が好きだったわけじゃないんですよ。最初はJリーグが好きで、名古屋グランパスのファンだったんです。
――最初はサッカーファンだった。
中野 私、出身は東京なんですけど、学生時代の友達が名古屋グランパスファンで。名古屋にも遠征したり、日本代表戦とかも一緒に観に行くうちにどんどんハマっていったんですよね。そんなある日、サッカーショップだと思って入ったお店が、たまたま格闘技グッズも取り扱っているお店で。渋谷の『ワールドスポーツプラザ』というお店だったんですけど。
中野 新宿店がサッカーグッズを扱っていたので、その渋谷店を通りかかったときに「ここもサッカーグッズ売っているかも」と思って入ったら、格闘技のグッズがいっぱい売られていて。その店内のモニターで修斗の試合映像が流れていたんですよね。そこで「なんだ? これは」と。
――なんの競技かわからなかったけど気になった、と。
中野 一瞬「プロレスなのかな?」とも思ったんですよ。でも、どうもプロレスじゃないし。そこで、初めて総合格闘技というものを知った感じでしたね。
――ちなみに、それは誰の試合映像だったんですか?
中野 三島☆ド根性ノ助さんです(笑)。まず、名前からしてインパクトがあるじゃないですか。
――まさかコブラ会の魔球なネーミングセンスがこんなところで響いていたとは(笑)。
中野 まあ、そういう変わった名前だったんで、よけいにプロレスなのかなと思ったんですけど。当時は2000年くらいですかね? その後も家でケーブルテレビを見ていたら、また三島☆ド根性ノ助さんの試合が放送されていたんです!
――またしても三島☆ド根性ノ助に引き寄せられたんですね(笑)。
中野 偶然にしても、「これはちょっと気になるな」と。それから、格闘技にベクトルが向いた感じですね。
――そこから会場に行ったりもしてたんですか?
中野 それで言うと、じつはバイト先の男の子たちが格闘技好きだったんですよ。そういう繋がりがあったんで、本当は修斗を観に行きたかったんですけど、みんなが言うには「いまはPRIDEの時代だ」と。それでPRIDEの会場に行くようになりました。
――では、一番最初に会場に行ったのは?
中野 微妙にPRIDEではないんですけど、2001年の猪木ボンバイエですね。そのときは同じクラスのプロレス好きの友達に誘われていったんですけど。
――安田忠夫vsジェロム・レ・バンナのあった、あの大会に!
中野 2002年の年末も会場に行ったし、PRIDE男祭りも含めて年末は5年連続ぐらいで観ていると思います。でも、当時は試合というよりも、あの会場の雰囲気に完全に飲まれちゃいましたよね。「自分の知らないところでこんなことが行なわれていたんだ!」という驚きと。
――たしかに、あの当時の格闘技会場も本当に一体感があったというか、オープニングセレモニーから凄かったですもんね。
中野 派手でしたよね。そこから、全部の大会に行ったわけじゃないですけど、バイト仲間の皆が行く大会には連れていってもらっていました。ただ、会場の雰囲気は楽しんでいるんですけど、リング上で何が行われているかは、たぶんわかってなかったですね。
――じゃあ、ルールとかもわからずに?
中野 ルールとかは連れていってくれた人たちに教えてもらって、それでもよくわかっていなかったですね。あぁ、そのバイト仲間はUWFファンだったんですよ。
――となると、詳しいどころの騒ぎじゃないですね(笑)。
中野 「なんだ、中野、おまえは『U』を知らないのか!」と(笑)。私からしたら「『U』って……?」という感じなんですけど、みんなは熱く語っているし、そのバイト仲間はグッズ売り場を指さして「あそこを見ろ、みんな『U』の信者だ!」みたいな。
――ハハハハハハハ! それは誰の試合だったんですかね?
中野 たぶん田村(潔司)さんとか桜庭(和志)さんですかねえ。でも、彼らの言うとおり、たしかにみんな同じキャップとかパーカーとかを身につけていて、そういう部分も見て楽しんでいましたね。
――ただ、中野さんはファンとしてだけじゃなく、格闘技を習ったこともあるとうかがいました。
中野 ああ、そうなんです。それは、影響されて「総合格闘技を始めるぞ!」というわけではなかったんですけど。というのも、その後、就職して。出勤のために朝、駅に向かって小走りしたら、駅のホームで突然倒れてしまいまして。気を失ってしまったんですよ。意識が戻ったときは顎から出血しているし、肋骨もやってしまって。
――そ、そんなことがあったんですか!?
中野 初めての経験だったので何か病気なんじゃないかと心配になり、病院に行ったら「低血圧すぎるから、運動しなさい」と。先生いわく、低血圧を治す薬はないし、運動しないと血圧は上がらないよということだったので、とりあえずいろんなフィットネスジムに見学に行っていたんです。そんなときに、PRIDEの会場で観客席の椅子に田村さんのジムがオープンするというチラシが置いてあって。しかも、よく見たら家から凄く近かったので、もう「これは運命だな!」って(笑)。
――三島☆ド根性ノ助の次は「U」に運命を感じていた(笑)。
中野 さんざんいろんなジムを回っててもピンと来ない中、そのチラシには田村さん主宰のジムでその皆がいう「U」でありながら、「フィットネス」とか「ダイエット」とかも書いてあったんですよ。「ここなら家が近いし、自転車で通えるから続けられるかも」と思って入会しまして。それが、いまはなき調布のU-FILE CAMPだったんです。
中野 そうなんです(笑)。しかも、オープン前に入会すると、入会金無料と書いてあったんで、「ラッキー!」くらいの軽い気持ちで入会したんです。地下に潜っていくあのジムに勇気を出していったんですけど……でも、いざ入会したら私の想像していたフィットネスとはちょっと違いました(笑)。
――やっぱり、けっこうガチな感じだったんですか?
中野 凄かったですねえ。私、オープン初日から行く勇気なくて、怖くて行けなかったんですよ。でも、頑張って2日目に行ってみたら、みんなぎゅうぎゅうにピシッと並んで全員でワンツーの練習していたんですよね。たぶん、みんなオープンしたばかりで気合入っていただけなんだと思いますけど。でも、そういうことに免疫がない私には異様な雰囲気に見えて(苦笑)。
――まさに「Uの信者」たち(笑)。
中野 でも、いざ始めたら凄く楽しくて。教えてくれるトレーナーもジムの会員さんたちもやさしかったんですよね。
――指導者は誰だったんですか?
中野 白井(裕一郎)さんが打撃を教えてくれました。あとは、大久保(一樹)さんも。
――現在は頑固プロレス主宰でPRIDEにも上がっていた大久保さん。
中野 大久保さんは今でも大森のゴールドジムにあるU-FILE CAMP大森で指導されていて、前にAACCに取材で行ったときにお会いましたけど、あの天然な感じも全然変わってなかったです(笑)。あとは、中村大介さんや佐々木恭介さんもいました。とにかく、みんながやさしく教えてくれましたね。
――田村選手もいました?
中野 オープン当初、田村さんは登戸ジムがメインだったので、調布ジムではたまにお見掛けするくらいでした。その後に調布ジムにも田村さんのクラスができて、技もたくさん教えてくれましたし、なにより褒めて伸ばしてくれるんですよ。筋トレしていてもアドバイスやサポートしてくれたり、回数を数えながら煽ってくれたり。
――へえ~、やさしいんですね。
中野 弟子には厳しいのかもしれないですけど、一般会員の私にとっては凄くやさしい方という印象ですね。そんな感じで、打撃から始めて、途中で寝技も皆が楽しそうにやっているのを見てやりはじめたんです。私自身は運動神経悪いし、それまで運動が大嫌いで、学生時代も体育の授業をいかにサボるかばかり考えていたタイプだったんですけど(笑)、ジムに入ってからは身体を動かすことの楽しさを知りました。女性会員も何人かいたので、それもよかったですね。でも、やっぱりどこでもそうだと思うんですけど、辞めたり新規入会したりの繰り返しで、女性会員が私一人だけの時期もありました。
――一人でも続けていたなんて凄いですね。でも、さすがに一般会員さんとプロ練とは別ということですよね?
中野 はい、そこはきちんと分けられていました。でも、土曜日はお昼ぐらいまでプロ選手が練習して、そのあとに一般会員のクラスがあるんですけど、ちょっと早めに行っちゃうと、やっぱり空気が違いましたね。あたりまえですけど。みんな黙々と休みなしでスパーリングしていて。
――U-FILE CAMPってけっこうジム内大会が行われていましたけど、試合には出たことはあったんですか?
中野 ジム内の大会ではないんですけど、一度アマチュアのキックの試合に出たことがありました。私、途中で2ヵ月ぐらいタイに行くんですけど、帰ってきたあとに試合しました。あとは、グラップリングの試合も2回ぐらい出ましたね。たしかフジメグ(藤井惠)さんがいろんなジムの人に声をかけて女子を集めてくれたんです。
――当時は女性の競技者が少なかったから、そういう感じで大会を開いていたんでしょうね。
中野 そうだと思います。
――ちなみに、途中で2ヵ月間タイに行ったというのは、どういうことだったんですか?
中野 それは、べつに格闘技のために行ったわけじゃなく、学生時代の友達が急にタイに移り住んだので会いに行こうと。当時はちょうど世の中がバックパッカーブームだったんですよ。関連本もけっこう出ていて。私自身もそういう海外一人旅みたいなことをやってみたいという思いがあったので、タイやその近隣国を2ヵ月ぐらいかけてプラプラしていました。
中野 そうです、いきなり「私、タイに行きます」って(笑)。それでタイにいるあいだも身体も動かさなきゃということで、せっかくだし本場のムエタイジムに通ってみようと。なぜか大久保さんがジムを紹介してくれて、バンコクの郊外にあるマトリックス避けで有名なガオグライ(・ゲーンノラシン)がいるジムに行きました。その後、帰国しては働いてお金を貯めつつ、またタイに行くというのを繰り返し、最終的にはタイで働きたいという思いが強くなり移住したんです。
――もう面倒だから、本格的にタイに移り住んじゃった。
中野 2007年の後半には完全にタイに移り住んでいましたね。1年間、現地のタイ語学校に毎日通って、その後に現地の会社に就職したんです。
――タイではどんなお仕事をしていたんですか?
中野 日本語ができるタイ人を、タイ現地の日本企業に紹介する就職斡旋会社でコーディネーターとして働いていました。
――そのあいだも格闘技には触れていたんですか?
中野 バンコクに柔術のジムがいくつかあったので、ときどきそこに通っていましたね。
――タイって立ち技のイメージが強いですけど、柔術のジムもあるんですね。
中野 それが、外国人が多く住んでいるからか意外とあるんですよ。当時タイ人で柔術やっている人はそんなに多くなかったとは思うんですけど、やっている人はたぶん海外留学したときに留学先でやっていたのかもしれないですね。だから、比較的富裕層の方が多かった気がします。通っていたジムも、ジムのオーナーが持っているマンション1棟のワンフロアを改装してジムにしていました。日系企業で働いている日本人も何人か通っていましたね。
――現地で働いていたということは、タイ語は必須ですよね?
中野 そうですね、社内でもタイ語使うことが多かったです。日本に帰ってきてから話す機会がないのでだいぶ忘れましたけど、日常会話程度ならなんとか。タイ語って、じつは皆が思っているより簡単なんですよ。1年間勉強したというのもあるんですけど、英語や日本語よりずっと簡単ですね!
――母国語より簡単(笑)。その後、日本にはいつ戻って来られたんですか?
中野 2012年の春です。帰国後も柔術は続けようと思っていて、そんなときにU-FILE CAMPで教えてくれていた白井さんが「いま、ロータス世田谷で練習しているから、ジムを探しているなら一度体験しにくれば?」と誘ってくれたのをきっかけに、通うようになりました。主宰の八隅(孝平)さんの教え方が本当に凄くわかりやすかったので入会したんですけど、そしたら、そこに「N野」の名付け親である北岡(悟)さんがいたという。
――おお~(笑)。北岡選手のツイッターには、よく「N野さん」が登場しますが、北岡選手とはRIZINが誕生するずっと前から接点があったということなんですね。
中野 ロータス世田谷のグラップリングクラスの指導者が北岡さんだったんです。最初は柔術クラスに出ていたんですけど、やっぱり元はグラップリングをやっていたんで、北岡さんのクラスにも出るようになったというのが接点ですね。
――北岡選手、最初は怖くなかったですか?
中野 めちゃくちゃ怖かったですっ!
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N野さんアウトデラックスの時の人なのか〜
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