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ゼロワン所属の菅原拓也インタビュー。闘龍門デビューから「悪冠一色」解雇、そして師匠ウルティモ校長のドラゴンゲート復帰までを語っていただきました!


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――
菅原さんは高校を中退されてプロレス界に入られたんですよね。

菅原 1年だけ通ってやめちゃいましたね。

――
またおもいきりましたねぇ。

菅原
 そうですよね(笑)。それまで野球をやっていて、子供だからプロ野球選手になりたいと思うわけじゃないですか。でも、高校野球でもの凄くレベルの差を実感したんですよ。学年1つ上でその後ソフトバンクホークスにピッチャーとして入った人と当たったときに実力差を感じて「これは無理だ……」と。でも、将来はスポーツで何かやっていきたいということで。

――
それがプロレスだったんですね。高校卒業まで待つことは考えなかったんですか?

菅原
 一度決めたらやらなきゃ済まない性格なので。親には迷惑をかけちゃいましたけどね。

――
プロレスをやるにしても、いろんな選択肢があったと思うんですよ。

菅原
 どこの団体に行くか?ということですよね。ボクは秋田出身なので、東北のみちのくプロレスに入ろうとしたんです。親戚の関係でみちのくの気仙沼二郎さんと繋がりがあったので、そこから入門のお願いをして。でも、当時は16歳で運転免許を持ってなかったんですよね。みちのくプロレスの練習生は営業も兼ねてやっていたので、車の運転ができないと難しいと。それでザ・グレート・サスケに入門を蹴られまして(笑)。

――
もしそこで免許を持っていたら、また人生が変わっていたんでしょうね。

菅原
 そうなりますねぇ。そのまま入っていたらどうなったんだろうなって。当時はどこに入門するにも身長制限があったじゃないですか。いまでもあるんでしょうけど、昔ほどは厳しくないですよね。新日本や全日本は180センチ以上。俺は足りないので、沼次郎さんに相談する中で……。

――沼次郎さんがポイントなんですね!(笑)。

菅原
 沼二郎さんは恩人なんですよ(笑)。いろいろと相談する中で当時の闘龍門、いまのドラゴンゲートを紹介してもらって……いう流れですね。

――
ウルティモ・ドラゴン校長がプロレスラー育成を目的に立ち上げた闘龍門JAPANですね。

菅原
 当時は日本初のプロレス専門学校ということで。入門して半年は神戸の道場で過ごして、そこからメキシコに渡ってデビューするという。 

――
菅原さんが入門した当時の闘龍門はどれくらいの練習生がいたんですか?

菅原
 ボクは闘龍門8期生で、正確な人数は忘れちゃいましたけど、20人ぐらいはいましたかねぇ。道場の中に寮もあって、そこに2段ベットがたくさん置いてあって。朝、起きたら掃除から始まり、合同練習がお昼すぎまで。あとは自主練ですね。

――
誰がコーチするんですか?

菅原
 新井健一郎、ドラゴン・キッド、スペル・シーサー、 あとCIMAですね。浅井さん(ウルティモ・ドラゴン)は日本にいるあいだ2~3回見てもらったかなあ。

――
20人全員メキシコに渡れるわけじゃないですよね?

菅原
 ふるいにかけられるというか、初日で半分ぐらいいなくなっちゃいましたね。

――
初日で半分も!

菅原
 16歳の自分にとってはたしかにキツイ練習でしたけど、逃げるほどムチャクチャな練習はさせられてないとは思うんですけどね。やっぱり後ろめたさがあるのか、大半が夜逃げみたいなかたちで消えちゃうんですよ。夜、寮で寝てるじゃないですか。玄関から出ていくと音がするから、みんな階段の窓から外に出て。その窓を開ける音も少しするから「あ、また誰かが逃げたな……」って。

――
専門学校ということは入学金や月謝はあるんですか?

菅原
 払いましたね。いくらだったかなあ。半年で数十万円くらいかな。

――
数十万! それで1日でやめちゃう人間もいるんですか(笑)。

菅原
 それだけお金を払っているのに嫌だったんでしょうね。1泊数十万円の超高級ホテルですよね(笑)。 

――
半年の練習生活を耐えた人間だけがメキシコに行けるんですか?

菅原
 最終的に残ったのは7人ぐらいでしたけど、そのうちメキシコに渡ったのは4~5人で。

――
そこはまたジャッジされるってことですね。

菅原 そこで何があったのかはわからないですけど、ボクはメキシコに行けることになりました。ただ、メキシコに行ってからってデビューできると決まったわけじゃなくて。向こうで浅井さんが練習を見て、そこで問題なければようやくデビューできるんですけどね。

――
メキシコの学校はどんなところなんですか?

菅原
 メキシコシティの中心からはちょっと離れてるんですけど。治安はあまりよくない場所で(笑)。

――
メキシコはおっかないですもんね(笑)。

菅原
 1階にウエイトルームやリングが置いてあって、2階が住むところで。ボクが行ったときはすでにデビューしてる先輩たちもいて、20人もいなかったと思うんですけどね。 

――
メキシコまでの旅費は団体が持ってくれるんですか?

菅原
 そうだったと思います。最初の数十万に含まれていたのかもしれないですけど。なにしろ半分以上やめてますからね(笑)。

――
ハハハハハハハ! メキシコのデビュー戦はどういう感じなんですか? 

菅原
 向こうでは年に4回ぐらい闘龍門の自主興行があるんですよね。そこでデビューできて。デビューしてからは地元の団体とかにも出れるんですけどね。

――
なるほど。こうやってみるとウルティモ校長って凄いシステムを作ってたんですね。プロレスラー志望の若者をメキシコまで連れていってデビューさせて逆上陸させる。

菅原
 なかなか凄いですよね。闘龍門出身レスラーってアチコチに散らばってますしね。浅井さんがいなかったらボクもプロレスラーにはなってないですし、また教え方も日本のやり方とは違うんですよ。浅井さんは感覚が外国人というか、野球のメジャーリーグでいうと型にハメない指導をするじゃないですか。浅井さんも自由にやらせるんですよね。

――
自由にやらせて長所を伸ばすというか。そうして菅原さんもメキシコでデビューして。

菅原
 はい。闘龍門の自主興行で本名のまま素顔でデビューして。そのあとは地元の団体というか……メキシコってプロレスそのものが文化なんですよね。たとえば五反田だったら「今日は1丁目、2丁目でプロレスがある」って街の中でいくつもやっているのが日常で。

――
プロレスが社会に寄り添ってるわけですね。

菅原
 大衆娯楽みたいな感じですよね。ちゃんとした団体もあるんですが、スポーツジムの中にリングが置いてあって、プロレス教室をやるとオジサンや小学生も参加したり。

――
プロレスをやるのがあたりまえの文化というか。

菅原
 部活で野球をやるみたいな感じですよね。どこでもプロレスをやってるから試合数はかなりやりました。1日3試合とか4試合とか(笑)。

――
経験がガンガン積めるわけですね。それは闘龍門同士の試合なんですか?

菅原
 そういう試合もありますし、向こうは愛国心が強いのでメキシコ対日本みたいな試合が凄く盛り上がるんですよね。おもいきりブーイングを浴びせられて。新人の頃からこういう経験をできるのは日本では難しいと思うんですよね。

――
昔のプロレスでいえば、海外武者修行でプロレスの幅を広げることを闘龍門では新人の頃からやれちゃうわけですね。

菅原
 相手もいろいろですよ。中には来日経験があってキャリアを積んでいるレスラーもいるんですけど、大抵は素人みたい選手が多いんですよ(笑)。

――
「よし、お祭りだから一丁やるか!」みたいな(笑)。

菅原
 メキシコのプロレスって一応ライセンス制度があるじゃないですか。たぶん持ってなかった相手も多いですよ(笑)。

――
草プロレスならぬ違法プロレス!(笑)。

菅原
 そこらへんにいるオッサンがマスクを被って試合をしてますからね(笑)。

――
それだとファイトマネーもそんなに出なかったりするんですか?

菅原
 出なかったですねぇ。2000円もらえたらいいほうでしたね。ちゃんとした大きい団体の試合になれば、もっともらえますけど。野良プロレスはそんなもんですね。生活費はどうしてたかなあ。寮でメシが出てたのでお金に困った記憶はないですね。 

――
まさかメキシコから逃げ出す練習生いなかったんですよね?

菅原
 片道の航空券ですから、さすがに難しいですよね(笑)。自分で飛行機のチケットを買わなきゃいけないので。

――
メキシコでしっかりと経験を積んで菅原さんも帰国するわけですね。

菅原
 そのときT2P(闘龍門2000プロジェクト)を旗揚げする直前で。そのメンバーに選ばれたんですね。

――
ミラノコレクションA.T.らのイタリアン・コネクション、菅原さんが「ヘンリーⅢ世・菅原」として加入していたロイヤル・ブラザーズ(アンソニー・W・森、フィリップ・J・福政)のユニットが活動していた闘龍門内組織ですね。闘龍門出身レスラーって独特のキャラクターが与えられましたよね。あのキャラクターは誰が決めたんですか?

菅原
 全部浅井さんですね。思いつきだと思うんですけどね。ボクは王子様キャラでしたけど、あとから聞くには、浅井さんの娘さんが持っていた人形が3人組の王子様だったそうなんですよ。だったらウチも3人組の王子様にしようと(笑)。

――
娘さんのおもちゃがアイデアなんですか!(笑)。それはイヤとは言えないんですよね?

菅原
 言えないですねぇ。ボクはチャンスだととらえましたね。あまりやりたくはなかったんですけどね(苦笑)。
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